太っちょ貴族は風呂で世間話をする
なぜ人は風呂に通うのだろう、とミトロフは顎肉を揉んだ。
ギルドでグラシエと食事をして解散してから、真っ直ぐにやってきたのは公衆浴場である。何を考えるでもなく、足は自然とここに向かっていた。もはや無意識である。ここで湯に浸かり、ミルクエールを一杯、ぐっと飲み干すことがミトロフの習慣になっていた。
いつもの大きな丸湯の縁に腰掛け、絶え間なく蒸気が立ち昇るのを眺めている。
毎日のようにここに通うようになれば、自ずと顔馴染みというのが分かってくる。ミトロフは迷宮の探索次第で来る時間も変わるのだが、町人たちは仕事終わりだとか、出勤する前だとか、おおよそ決まった習慣があるようで、いつも同じ時間にいる彼らの姿を、不定期にやってくるミトロフが見つけている。
太陽が同じ時間にのぼり、月が同じ時間に沈み、それを休みなく繰り返すように、彼らもまたいつもそこにいるように思える。
風呂を楽しむために来ているのか、習慣を守るために来ているのか。人間というのは不思議だな、などと考えたりする。そして自分もまたその一員であることに気づき、「ブッヒッヒ」と小さく笑ってみたりする。
「あれ、あんた、迷宮で会ったよな? なに笑ってんだ?」
急に声をかけられた。ざぶん、と飛沫を跳ねながら隣に入ったのは、トロル討伐を依頼されたという大剣の少年冒険者だった。
「"狼々ノ風"の……」
「お、よく覚えてんなあ。おれ、一応リーダーやってんだ。ミケル」
へへ、とミケルは少しばかり誇らしげに笑う。どこか控えめな調子が残る笑い方に、ミトロフはミケルの人間性を感じた。能天気に自慢できることばかりではない苦労や失敗を抱えて、それでも前に進んでいる人間が浮かべる笑みだった。
「……パーティーのリーダーか。それは、大変だろうな」
「なにマジになってんだよ! そりゃ色々あるけどさあ、面白いじゃん、迷宮」
ケラケラと今度は明るく笑う。ばしゃばしゃと湯を肩に掛け、前髪をぐいと後ろに撫でつけた。
「ていうか、アンタも名前教えろよ」
「悪い。ぼくはミトロフ。パーティー名はまだない」
「結成したばっかってことか」
「ああ。まだひと月もたっていないな」
「駆け出しじゃん! じゃ、おれ先輩な」
歯を見せて笑いながら、ミケルは自分を指差した。
「なんか困ったこととか、分からねえことがあったらおれに訊けよ。できる限りなんかしてやっから!」
ミトロフはちょっとばかし目を丸くした。
「……なぜだ?」
「はあ?」
「ぼくを助けても、君にはあまり益がないと思うが……」
貴族とはそういうものである。自分に益がないことに労力は注がない。助けて得にならない相手は助けない。助けた相手がいつか助けてくれるなどと、そういう甘い理屈は通らない。
ミケルは呆れたようにミトロフを見返した。
「なんだよ益って。いらねえよ。困ってたら助け合うのが冒険者だろ。おれ、先輩。お前、後輩。だったらおれが多めに助ける。そういうもんじゃん」
「……そういうものか?」
ふと、初めてグラシエと出会った日のことを思い出した。彼女もまた、見ず知らずのミトロフの命を救ってくれた。益はなく、見返りも求めず。
「そうか、そういうものか」
と、ミトロフは納得する。
貴族として生きてきたミトロフにとっては信じがたいが、冒険者とはそういう理屈で生きるものらしかった。
助け合う。
「良い言葉だな」
ブヒ、と笑ってしまう。
ミケルは口を引きつらせてミトロフを見ている。
「……お前って、変わってんな」
「そうでもない。冒険者になったばかりでな。いま、色々と学んでいる」
「冒険者のくせに真面目かよ、うちのヨルカみたいなこと言ってるし……」
まあいいけど、と呟いて、ミケルはバシャリと顔をお湯で洗った。
「トロル捜索でしばらく上にいるし、どっかで会ったらよろしくな」
「……トロルの手がかりは、なにかあったのか?」
「んや。誰かが討伐したって話もないし、下に戻ったんじゃねえかなあ。魔物だけが使う横穴ってやつに隠れてる可能性もあるから、しばらくは探すけど。たぶん見つからねえよ」
そうか、見つからないか。
ミトロフは顎肉をさする。
姿を隠してしまったのは、怪我を癒すためだろうか。本当に下に戻ったのだろうか。魔物の考えることを推測しようとしても難しい。
自分のいた場所に戻っていてほしい、という思いがある。姿が見えないままということに不安を感じてもいる。他人に討たれてほしくない気持ちを抱えている。
ぐっと首を下げ、湯面を見つめる。
トロルの姿が思い出される。背筋が凍るほどの恐怖、その巨体。死への予感と、生への実感。恐ろしかった。けれど、あれほど、あの瞬間ほど、燃えるように自分が生きていると思えたことは––––
「そうだ、5階に行ったなら知ってるだろ、青鹿がいなくなってんの」
とミケルが言った。
ミトロフは、ふっと意識を握り直し、ミケルに顔を向ける。
「ああ、ギルドでも話を聞いたよ」
「あれもトロルのせいじゃねえかって話があるな」
「……どういうことだ?」
「トロルがなんで上がってきてたかってことだよ。トロル捜索を受けたついでに調べたんだけどさ、あ、おれじゃなくてヨルカがな? んで、青鹿の数が減ってる時期に合わせて、トロルの目撃情報がちょくちょくあったんだよ」
ほう、とミトロフは頷く。
「戦闘になったとか、襲われたとかじゃなく、姿だけ見かけたってんで、ギルドもそこまで重要視してなかったみたいだけど。実際に目撃したってやつに話を聞きにいったらさ、どうも変な話でさ。トロルが青鹿を抱えてたって言うんだよ」
「––––それは、興味深いな」
「だろ? トロルってのは普通、8階あたりをうろちょろしてんだよ。それが何だって5階まできて青鹿を狩ってるのかってことでさ。8階も見てみたけど、トロルどもはいつも通りって感じだし。何が起きてんだか」
何が起きているのか。それを理解している誰かはいるのだろうか。
分かるのは、青鹿が姿を消した原因に、あのトロルが関わっているということだった。あの一体、あるいはもっと。
「青鹿はもう絶滅したんだろうか」
「さあ、どうだろうな。迷宮ってよくわかんねえし。前にキラービーが大繁殖したことがあってさ、そんときに"火の魔女"が全滅させたって話だけど、今はもうキラービー、いるもんな。いつの間にか戻ってんだよな、数が」
「……そのときは、どのくらいの期間が空いたか分かるか」
「いや、詳しくは知らねえけど。半年くらいは見なかった気がすんな」
半年。あるいはもっと長い。
間に合うだろうか、グラシエは。
ううむ、とミトロフは黙り込んだ。
「おい、どうした。ミトロフ? ミートー? ローフ––––?」
––––トロルってのは普通、8階あたりをうろちょろしてんだよ。
その言葉が頭に残っていた。
8階。8階か。
「……遠いな」
ブフゥ、と大きくため息をついた。




