太っちょ貴族は迷宮でお茶を飲む
ミトロフは周囲を警戒しながらも、先頭を歩くグラシエの様子を見ていた。
普段と変わらないようでいて、少し違う。通路の分かれ道や、広い通りに出ると、ふと辺りを見回す。それは何かを探しているようにも見える。
グラシエの目的が5階層だということを知らなければ、ミトロフも気づかなかったかもしれないほど、些細な動き。
だが間違いなく、グラシエはここで探し求めているのだ。故郷の聖樹の病を治すための薬……あるいはそれに必要なものを。
何度か他の冒険者たちが戦っている姿を見た。猪を相手に、それぞれのパーティーで戦略が違うようだ。ドワーフの戦士などは大楯を構え、真っ向から猪を受け止めている。
休憩のための小部屋に向かう途中でもう一度、黄土猪と出会った。グラシエが弓を射掛け、それは狙い澄ました通りに眼孔を打ち抜き、一矢で仕留めた。
「黄土猪の相手は難しいな」
と腕を組みながら、ミトロフは言った。
安息地である小部屋の中で、3人は腰を下ろしている。
「この短時間で二頭は、良い戦果じゃぞ? 誰も怪我もしておらぬしな」
「だが、それはグラシエに頼り切った戦法だろう。僕は何もしていない」
「パーティーである以上、役割分担ということで良いのではないか? ミトロフの不得手をわれが補う、それだけのことじゃろう」
「そうか……そういうものか?」
と、ミトロフはカヌレに訊ねた。
カヌレは携帯コンロで温めていたケトルを手にしたまま、ふと首をかしげた。
「わたしがどうと言える立場でもないですが……ええと、そうですね、包丁には種類があります」
「うん? うむ」
「果物のための包丁では、硬い野菜は切れません。ですが硬い野菜のための包丁では、果物を繊細に切れません。ですから、ええと、調理するものに合わせて道具もまた変えるべきですから、野菜を切れないからと言って悩むものではないかな、と思います」
「そうか、僕は果物包丁だったか。たしかに」
とミトロフは頷いた。
「ああ! いえ! そのような、頼りないとかではなくて!」
「いいんだ、分かってるよ。ためになる話だった」
たしかにと腑に落ちる話だった。
ミトロフの学んだ剣技は貴族としての決闘が主軸となっている。つまり対人剣であり、狩りをするものではない。
人とはまったく脆弱なもので、どこを切ろうと刺そうとすぐに行動不能になる。
ゆえに素早く動き、軽く切り、刺す。それで良い。
しかし黄土猪とまでなれば、軽さは全く通用しない。カボチャに果物包丁で挑むようなものだ。相性が悪い。
「しばらくグラシエを頼りにさせてもらうよ」
と、ミトロフは頭を下げた。
「なんじゃ、今さら。そんなことを気にするな。これまではわれの方がミトロフを頼りにしてきたでな、助け合いじゃ」
と、グラシエは笑った。
「わたしも、荷運びと料理しかできませんが……」
おずおずと差し出されたカップには紅茶が入っている。ふわりと気を鎮める柔らかい花のような香りが漂う。
「こんなものまで用意してきたのか」
とグラシエが感嘆しながらカップを受け取った。
「ギルドの売店で売ってありました。冒険者の方が休息中に好んで飲む茶だそうです」
ミトロフも受け取り、匂いを嗅ぐ。
貴族に欠かせないのが茶会である。昼は紅茶、夜は酒。それらは楽しむものというより外交手段でもある。幼いころからの教育にも欠かせないために、ミトロフもまた紅茶には詳しい。
香りだけで茶葉の銘柄が分かった。貴族家では使用人などが飲むような安物である。
しかし味を確かめれば、美味い。
「……淹れ方がいいな。甘味もちょうどいい」
「ありがとうございます。蜂蜜の小瓶もあったので、買っておきました」
「カヌレ、君はもしかして……」
と、言いかける。
紅茶に蜂蜜を入れるのは、茶会で貴婦人に好まれる飲み方だ。だが、ただ入れれば良いというものではない。
蜂蜜にも種類があり、味わいはすべて違う。苦味があるもの、あっさりとしたもの、溶けにくく甘すぎるもの。
どの紅茶に、どの蜂蜜を合わせるのか。そのために抽出の仕方まで変えることもある。
それらは貴族としての造詣であり、ときに自慢げに語るべき知識なのだ。
この紅茶はミトロフが飲んでも満足するほど出来が良い。それを淹れられるカヌレは、いったい何者なのか、と考えて。
「いや、何でもない。美味しい紅茶だ。小腹が空いたんだが、なにか食べるものはあるか?」
「はい! 軽食をご用意しますね!」
テキパキと動くカヌレは楽しそうだ。表情は分からずとも、身体の動きには感情がしっかりと出ている。
迷宮に潜る人間には、それぞれに事情がある。グラシエにも、ミトロフにも、カヌレにも。
相手が自ら語るなら喜んで耳を傾けるが、そうしないのであれば、こちらから訊きだすのは野暮というものだとミトロフは思った。
どんな立場で、なにをしていたとしても、今ここにいるカヌレだけを見て判断すべきだ。ミトロフが"貴族の無能な三男坊"という肩書きを捨てたように。
すべてを失って迷宮に来たが、代わりに自由とアイデンティティを手に入れた。ここではミトロフはただのミトロフであり、自分の行いこそがその人を形作る。単純明快なその構造が心地良いのだ。
カヌレはサンドウィッチを作った。
ミトロフは大口でかじる。中には塩漬け肉のミンチと、パプリカの酢漬け、オリーブのスライスが入っていた。肉の強い塩気を酢が和らげてくれる。オリーブの香りとパプリカの歯応えが楽しい。
ミトロフの胃袋にはあまりに物足りないが、美味い食事はそれだけで心を癒してくれる。これでもうしばらく、迷宮を探索できそうだ。




