太っちょ貴族はエルフ狩人の事情を知る
カヌレを外まで見送ったあと、ミトロフはグラシエに声をかけられ、店の前で並んだ。
通りには価格の手ごろな宿屋が並ぶ通りである。店の前に掲げられたランタンがポツポツと続いている。大通りのような明るさも、騒ぐ声もなく、ひっそりとした夜がしたたっていた。
「いきなり悪かったな」
とミトロフが言った。
「宿に来たことかの。それともポーター志望を連れてきたことか」
「どっちもだ」
「なら気にする必要はない。どちらも気にしておらぬ」
とグラシエはゆったりと腕を組んだ。
「少しばかり驚きはしたが……それはおぬしの星の定めに、じゃな」
「変な言い回しだ。エルフは星読みの一族だったっけ」
「古臭いと笑うじゃろう?」
ふふふ、とこぼして、グラシエは頬に流れた一筋の銀の髪を耳にかけた。
「いまではもう、この夜の空に浮かぶ星の動きは定まっているのだと、人間たちは言うておる。物には理があり、その動きの組み合わせでしかなく、そこに未来も運命もないのだと」
「グラシエはどう思う? あの天体学とやらは、正しいと思うか?」
「さての。賢い者たちの言うことはわれには難しい。足元にあるこの地面すら回転しているのだと言われてもの」
「エルフの星読みの話も、僕には難しいけどなあ」
「そうじゃな、エルフの星読みのご老人たちの言うことも、われには難しいわ」
あはは、と、グラシエは明るく笑い飛ばした。彼女にしては珍しいことだった。
「じゃが、エルフとして生まれ、エルフの里に生きる者として、星の定めたことには従うほかない。それが我らの使命でもあり、良く生きるための規範でもある」
グラシエはミトロフを横目に見上げた。
ミトロフはその視線に気づいて見返した。
月と星が柔らかい光を落としているために、夜の闇よりも深く青いグラシエの瞳の輝きがよく見えた。
人は時として、伝えたいことをひどく遠回しに表現する、とミトロフは思った。
父は迷宮に行けと言った。それは自分の預かり知らぬ場所で死ねと、遠回しに言ったのだ。ミトロフはそれを正しく受け取った。
遠回しに自分の真意を伝え、それを読み取るのは貴族の得意分野だ。貴族という生き物は、誰も彼もがわかりやすく物事を伝えようとはしない。
それが慎ましいからだと、欲まみれの彼らは勘違いをしている。本当に慎ましいとは、今のグラシエのことを言うのだ。そこに己の欲はない。
「星読みのせいで迷宮に来たのか」
グラシエは瞳を丸くした。会話の中にこっそりと潜ませた自分の真意が早々に伝わったことに驚いたのだ。
それから瞳は柔らかく細められ、唇からは、ふっと息が抜けた。
「まったく、聡いのう。われとおぬしとではひとつの言葉の重みが違うのやもしれぬ」
「貴族って生き物は言葉遊びが好きなんだよ。他にすることがないから」
ミトロフは肩をすくめて見せた。
「グラシエは、何のために迷宮に来たんだ?」
「……出会って間もないころ、われが地下5階に行きたいのだと言ったことを憶えておるかの?」
「忘れてない。何が何でも行きたいんだったよな」
グラシエは頷きを返し、通りの向こうの宿屋に視線をやった。ちょうど、扉が開き、年老いた女性がランタンに油を足している。
「いま、里には病が流行っておる。われはその薬を探しに来た」
「流行り病? だったら施療院に行けば」
言いかけた途中でミトロフは言葉を止めた。
薬は施療院で手に入る。当たり前のことだ。そうできるならグラシエは迷宮になど潜る必要はないはずだ。
グラシエは再びミトロフを見て、その推測が正しいことを認めるように小さく頷いた。
「人ではない––––木の病じゃ」
「はあ?」
ミトロフは思わず眉を顰めてしまう。
「木や植物にも病がある、のか?」
「もちろんじゃよ。人や動物が病に伏すように、木々や草花も病にかかる。大抵は枯れてしまう」
「……そんな薬がある、のか?」
「ある」
木の薬か、とミトロフは唸った。それはまた、奇妙な薬もあったものだ、と。
「自然とは巡るものよ。木々は枯れ、花は散り、動物の死体は腐って土に還る。われらだけが薬を生みだし、病を克服しようとする。それは、死ぬと困るからじゃ」
グラシエは視線を外し、ぼうっと通りを眺めた。
「エルフにとって、森は家であり、恵みであり、友であり、そして定められた土地じゃ。われらには王家との取り決めがある」
「それが木に関わること?」
「われらの森には聖樹と呼ばれるものがある。かつて大精霊に祝福を受けたとされるものじゃ。年初めには必ずその葉を王家に献上する必要がある」
ミトロフはその話を聞いたことがあった。今代の王は、とかく占いや祝福といった、形には見えぬが霊験あらたかな物を好んでいる。
それゆえに天文学派を筆頭とした学者との折り合いは悪いのだが、政への才覚はめざましく、よく国を治めている。
大精霊に祝福されたエルフの聖樹の葉ともなれば、王はひときわ好むだろうな、とミトロフは貴族的な打算を働かせる。そしてもしそれがないとなれば、果たして王はどう考えるだろうか。
「森の管理ができないなら……」
「そうじゃ。われらは森を追われるやも知れぬ。聖樹を正しく管理できるのが我らだけだからこそ、あの聖域を奪われずに済んでおるのじゃ」
「じゃあ、やっぱり聖樹が流行り病にかかってるのか?」
「……葉先が、枯れ始めておる」
グラシエは通りに視線をやった。
ミトロフはようやく気づいた。彼女は先ほどから、周囲に人がいないかを確かめていたのだ。盗み聞きをされていないかを。もし他人に知られれば、どうなるか。それほど重要な話なのだ。
「……僕を、信頼してくれるのか」
「余人に打ち明けるのは初めてじゃぞ。感謝せい」
ふふ、と冗談めかしてグラシエは笑う。しかしその重大性は何も変わりなく、ミトロフは奇妙な感情に襲われた。お腹の中が急に熱を持ったのだ。
それは今まで、歓声をあげるほど美味いものを詰め込んだ時にしか感じられなかった感覚だった。ミトロフにとって唯一、自分が生きていると実感できる瞬間の命の熱だった。
いま、それを超えるほどの熱が、ミトロフに宿っていた。
信頼されているのだ、と。
自分のことを、人生を、存在を、性格を。ミトロフというひとつの在り方を、グラシエは信頼し、打ち明けてくれたのだ。
ぶ、ひぃぃ。と、鼻息荒く息を吐いた。心臓がばくばくと高鳴った。
「ど、どうしたのじゃミトロフ」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
ぶひ、と深呼吸をして、ミトロフは呼吸を整えた。整えようとした。いや、何だかだめそうだった。頭が浮ついてしまった。
「グラシエ、話の続きは明日でもいいか」
「う、うむ? それは、もちろん構わぬが……すまぬな、このような話をしてしまっては迷惑だったの」
「違うとも!」
ブヒ、と声を荒げる。
「僕はいま、猛烈に嬉しいんだ。信頼してくれたことを感謝してもいる。これがどれほどグラシエにとって重要な話か、理解はできるつもりだ。その秘密を打ち明けても良いと考える存在に、自分がなれたのだと、その価値があるのだということが、嬉しい。人生で初めてだ」
と早口で言うミトロフの頬は、月明かりでもわかるほどに紅潮している。
「率直に言って僕は浮かれてしまっている。このままでは君の話に集中できないし、建設的な言葉も返せぬかもしれない。頭と腹を冷やしてから、もう一度ちゃんと聞かせてもらう。では、夜分に失礼した。また明日会おう」
突き出た腹を揺らしながらも所作そのものは洗練された優雅さで一礼し、ミトロフはドタドタと通りを歩いていった。
忙しなさにグラシエは目を丸くしていたが、口元を抑えると「ふふっ」と笑い声を吹いた。
「良きかな」
青い瞳に柔らかな光をたたえて、ミトロフの背が通りの影に溶けていくのを見送ってから、グラシエは宿に戻った。




