太っちょ貴族は冒険者としての生き方を学ぶ
風呂は良い。命がさっぱりする気分だ。
もはや毎日の習慣となった浴場で湯に浸りながら、ミトロフはぼうっと水蒸気を眺めていた。全身は疲労が重く、今になってトロルとの戦いの実感を身体が理解したかのようだった。右腕の筋を痛めたのか、肘を曲げると眉を顰めてしまうために、服を脱ぐのすら困難だった。
今日、僕は死線をくぐり抜けた。それは間違いない。
浴場には今日も大勢の男たちがいる。わいのわいのと笑い合い、自分たちの仕事についてや、家族のことを話題に言葉を交わしている。
そういう人たちは市民だとすぐに分かる。定職を持ち、毎日を堅実に、畑を耕して種を蒔くように生きている。
賑やかな男たちの軽やかな声を遠くに聞きながら、ミトロフは気も入らずぼけっと口を半開きにしている。
「どうした。今日はやけに腑抜けているじゃないか」
ざぶんと隣に座ったのは、獣頭の男である。すっかり顔馴染みになったミトロフは、こうして出会うたびに世間話をしている。
「……ちょっと、疲れてさ」
「勝ったか、負けたか」
突然の質問に、ミトロフは顔を向けた。
「冒険者が腑抜けるのは、強敵と戦ったあとと相場が決まっているものだ。勝つにしろ、負けて逃げ帰ったにしろ、強い緊張と死と隣り合わせの戦闘ですり減った意思力はなかなか戻らんものよ」
ぐるぐると喉で笑うその姿は、戦いに慣れた歴戦の猛者の風格がある。
この男、もしかするとかなり名の知れた冒険者ではないか、とミトロフは唸った。兎にも角にも先輩には変わりなく、ミトロフが遠慮なく話ができる数少ない相手である。
「状況的には、勝った。だが……気持ちは負けた気分だ」
「ほう」
「僕の力がまったく足りてない。運よく相手は逃げたけど、あのまま戦い続けていたら、僕も仲間も死んでいたと思う」
生命力。トロルに感じた分厚い差は、その命の厚みである。
どれだけ剣を刺そうと、自分の攻撃などどれほどの意味があったのだろう。あんな魔物が、これからも増えていくとしたら。自分は果たして生き残れるだろうか。
自由と未知への好奇心によって、迷宮に挑んでいた。運よく、魔物に勝って生き残ってきた。だが今日、ミトロフは死を前にした。その死は逃げたが、まだ生き残っている。
ミトロフが迷宮に行き続ける限り、トロルはミトロフを追い続けるのかもしれない。
じゃばり、と湯から腕をあげ、獣頭の男は浴場の男たちを指でざっと示した。
「この湯場にいる冒険者を選べと言われたら、簡単に当てられるか?」
奇妙な問いだった。
ミトロフはざっと浴場を見渡した。
「あそこでぼうっとしてる人と……たぶんあっちの人もそうだ。隣で壁にもたれてる人もかな」
「うむ。そうだろうな。なぜ分かった?」
「なぜって……雰囲気、かな」
顔に冒険者と書かれてはいないが、やはりどこか市民とは違う。
獣頭の男はぐる、と喉を鳴らす。
「そう、雰囲気だな。見た目は厳つく、目つきは鋭く、どこか陰気な顔をしている。ひとりでむっつりと黙り込んで、どこか一点をぼうっと眺めている。そういう男は、まず間違いなく冒険者だ。自分の腕にも未来にも不安を抱えている男だ」
「……未来に希望を持ってる冒険者はいないのか? 明るい顔で楽しく笑ってるとかさ」
「そういう冒険者は死んでいく」
ひどく平坦な声だった。ミトロフは目を見開いた。
「酒場で冒険者が騒ぐのは、周囲の目があり、仲間がいるからだ。堂々と振る舞わねばいかん。気弱なところなどを見せては、臆病と馬鹿にされる。だから酒を水のように飲み、不安も恐怖も麻痺させ、下世話な冗談を言う。だがひとりで湯に浸かっているときには、みな矮小な自分を見つめ直すものよ」
ミトロフは改めて浴場を見直した。
暗い顔をしている男がちらほらといる。彼らはおそらく冒険者だろう。ぐっと俯き、額に手を当て、ずっと自分の腕を掴み、それぞれに何かに思い耽っている。
ミトロフが聞き齧りの話から思い描いていた冒険者の姿とは違う。
酒を飲み、女で遊び、自由と大金を求めて迷宮に挑み、死と名誉を求める物語の姿は、どこにもない。
彼らはひとりの人間だった。
毎日を一歩ずつ丁寧に生き、仲間と笑い合い、家族の近況を報告し合う人々の、その陰でひとり思い悩む孤独な人種なのだ。
「……みんな、怖いのか」
「そうだ。みんな怖い。お前も立派に冒険者の顔をしていたぞ」
「陰気くさく悩んでたってことか」
「それが冒険者というものだろう。華やかな日など、死ぬまでに何度あるか。それでも迷宮に潜り続ける阿呆だけが残っていく。お前は、何のために迷宮に潜る?」
何のために?
生きるために?
日々の食事を得るために?
わからない。
今まで、自分の人生を自分の意思で選んだことがなかった。父に命じられ、飼い殺され、人生を保留にされ、そして使い道がなくなったからと、追い出された。
迷宮に来たのもまた、父の指示だ。
この場所で私の視界に入らぬように死ねと、そう決められた。
だから迷宮に潜っているのだろうか。父に言われたから。
己の死についてすら、自分の意思はないのだろうか。
自分のことですら、ミトロフには分からなかった。
グラシエはどうなのだろう、と思った。
彼女はまったく、冒険者らしくない。現に自分は狩人だったと言っていた。
どうして迷宮に潜っているのだろう。
それを訊いてみたい。以前は彼女を気遣ったが、今なら、教えてくれるだろうか?
ミトロフはお湯を手で掬い、バシャバシャと顔に叩きつけた。




