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【書籍化】太っちょ貴族は迷宮でワルツを踊る  作者: 風見鶏
第一章

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太っちょ貴族は生きることを実感する



 強敵である。

 命がかかっている。


 しかしミトロフは冷静だった。昇華によって得られた精神の成長のおかげだろうか。

 コボルドと相対したときには確かに感じた背筋の震えが、今はない。


 踏み込み、棍棒を叩きつけたままに伸びきった太く短い腕の、手首を刺す。

 たしかに脂肪は厚い。だが関節部には脂肪はつかない。


 レイピアは鋭く点を貫く。


 どんなに丸々と脂肪と鎧を身につけていようと、場所さえ選べば良い。

 自分とトロルは似ている。丸々と太り、脂肪を蓄え、醜い。それゆえに、どう戦うべきかが、ミトロフにはよく分かった。


 トロルが不満げに悲鳴を上げた。

 ミトロフは細剣を引き抜く。

 トロルはミトロフを棍棒で薙ぎ払う。


 すでにそこにはミトロフはいない。

 棍棒が通り抜けた後に、ステップで戻ってくる。

 振り抜いたままのトロルは無防備だ。振り抜いたあとの身体の重みをすぐには戻せない。


「そうだ。デブは動きが遅い」


 ミトロフは踏み込み、トロルの右腕の肘を突き刺した。

 抜く。

 そしてまた突く。


 構えは定まっている。

 二連撃で、肘の腱を狙う。

 トロルが咆哮した。腕をただ振り回す。ミトロフは動き、躱し、離れる。


「お前も、僕もデブだ。だけど、僕のほうが速い」


 手首。肘。手首。手首、肘。

 動きの合間に潜り込み、ミトロフはトロルの腕だけを的確に狙った。

 分厚い脂肪に小さな点が刺さるだけ。


 派手に血も流れず、トロルを打ち砕くでもない。しかし確実に刻まれる重刺突剣の攻撃は、トロルの右腕を破壊した。


 がらん、と。


 石の棍棒が床に落ちた。

 トロルの右腕がだらりと下がっている。

 ふぎぃ、と唸る声。トロルは不満げに鳴いた。


 どすん、どすん、どすん!

 わがままな幼児のようにその場で足を踏む。


 うあああ。

 廊下に反響する叫び声。

 ミトロフは一足飛びに下がった。耳を覆う。間近で聞けば鼓膜が破れそうだ。


 トロルは呼吸を荒くしてミトロフを睨みつけた。歯を食いしばり、涎をたらし、ふぐっ、ふぐっと嗚咽をする。

 今にも体当たりでもしてくるかという構えだ。


 ミトロフは腰を落とし、すぐにでも横っ飛びで避けられるようにする。

 トロルの右腕は潰したが、あの巨体ともなれば全身が凶器だ。

 ぶつかれば跳ね飛ばされ押し潰され、腕を振るわれれば骨が砕ける。


 当たらなければ無意味だが、避けるごとに命をすり減らしているような感覚がある。

 ミトロフには決定打がない。

 トロルの右腕を潰すことはできたが、そのために何度、致命の攻撃を避け、点を打ちこんだだろう。

 見上げる場所にある首や頭を狙うことはできない。


 ミトロフがトロルを仕留めようと思えば、ただただ、地道に積み重ねるしかない。一撃でも食らえば死ぬという重圧を背負いながら。

 トロルに対して優位に立っているようでいて、その実情は綱渡りでしかなく、ミトロフが渡ろうとしている綱はひどく細い。


 短時間の激しい運動によって、ミトロフは心臓が苦しいほどに拍動しているのを感じていた。全身に血が巡っている。身体は手足の先まで熱く、顔中に汗が流れている。

 命を賭けた綱渡りによって精神は興奮し、興奮は脳内を占領する。


 ミトロフの身体はふわふわと浮き立っていた。

 来いよ、と思う。

 いくらでも戦ってやる。何度でも避けてやる。


 自分の中にこれほど好戦的な一面があったことに驚いている。

 同時に普段の、臆病で神経質な自分が、それは無理だ、と告げている。

 乱れた呼吸が戻らない。


 ブヒィ、ブヒィ。

 鼻に詰まった息が音を鳴らしている。


 子豚は巨大な豚と向き合っている。

 互いに戦うべきか、逃げるべきかを迷っている。


 トロルがもし向かってくれば、ミトロフは勝てないと分かっている。100を目指して1の攻撃を積み重ねている間に、相手はひたすら100を繰り返す。その賭け事に、誰が命をベットしたいだろう。

 逃げてくれ、とミトロフは願った。


 トロルがずず、と腰を落とした。


 ––––くそ、わかったよ、やってやるさ。


 ミトロフがレイピアを握り直した刹那。

 ビュッ、と線がはしった。

 グラシエの矢だった。


 悲鳴。トロルが頭をのけぞらせる。


「去るがよい!」


 矢は的確にトロルの右眼を射抜いていた。

 頭を振り乱してもがき苦しみながら、トロルは壁にぶつかり、通路の闇の奥へと逃げ去っていった。


 ……静寂。


 ミトロフとグラシエはじっと闇を睨む。

 トロルが戻ってこないことを確かめてようやく、その場にへたり込んだ。

 顔を見合わる。


 互いに引き攣った顔をしている。その真剣さが妙に面白く見える。

 二人のどちらが先というでもなく、ぷっ、と吹き出した。


「くっく、っく」

「ブヒッ、ヒッ、フヒ」


 笑い声を重ねるようにして、二人は腹の底から笑った。

 生き残った。


 その実感が、どうしてか面白かった。



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― 新着の感想 ―
再生しないのか
[良い点] 危な!死にかけじゃん 精神補正先生いつもありがとう [一言] 描写が淡白ながら緻密で、こっちに匂いすら届いて来そうなほどのリアリティを感じる。4DX小説!? ここまで臨場感があるダンジョン…
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