太っちょ貴族は生きることを実感する
強敵である。
命がかかっている。
しかしミトロフは冷静だった。昇華によって得られた精神の成長のおかげだろうか。
コボルドと相対したときには確かに感じた背筋の震えが、今はない。
踏み込み、棍棒を叩きつけたままに伸びきった太く短い腕の、手首を刺す。
たしかに脂肪は厚い。だが関節部には脂肪はつかない。
レイピアは鋭く点を貫く。
どんなに丸々と脂肪と鎧を身につけていようと、場所さえ選べば良い。
自分とトロルは似ている。丸々と太り、脂肪を蓄え、醜い。それゆえに、どう戦うべきかが、ミトロフにはよく分かった。
トロルが不満げに悲鳴を上げた。
ミトロフは細剣を引き抜く。
トロルはミトロフを棍棒で薙ぎ払う。
すでにそこにはミトロフはいない。
棍棒が通り抜けた後に、ステップで戻ってくる。
振り抜いたままのトロルは無防備だ。振り抜いたあとの身体の重みをすぐには戻せない。
「そうだ。デブは動きが遅い」
ミトロフは踏み込み、トロルの右腕の肘を突き刺した。
抜く。
そしてまた突く。
構えは定まっている。
二連撃で、肘の腱を狙う。
トロルが咆哮した。腕をただ振り回す。ミトロフは動き、躱し、離れる。
「お前も、僕もデブだ。だけど、僕のほうが速い」
手首。肘。手首。手首、肘。
動きの合間に潜り込み、ミトロフはトロルの腕だけを的確に狙った。
分厚い脂肪に小さな点が刺さるだけ。
派手に血も流れず、トロルを打ち砕くでもない。しかし確実に刻まれる重刺突剣の攻撃は、トロルの右腕を破壊した。
がらん、と。
石の棍棒が床に落ちた。
トロルの右腕がだらりと下がっている。
ふぎぃ、と唸る声。トロルは不満げに鳴いた。
どすん、どすん、どすん!
わがままな幼児のようにその場で足を踏む。
うあああ。
廊下に反響する叫び声。
ミトロフは一足飛びに下がった。耳を覆う。間近で聞けば鼓膜が破れそうだ。
トロルは呼吸を荒くしてミトロフを睨みつけた。歯を食いしばり、涎をたらし、ふぐっ、ふぐっと嗚咽をする。
今にも体当たりでもしてくるかという構えだ。
ミトロフは腰を落とし、すぐにでも横っ飛びで避けられるようにする。
トロルの右腕は潰したが、あの巨体ともなれば全身が凶器だ。
ぶつかれば跳ね飛ばされ押し潰され、腕を振るわれれば骨が砕ける。
当たらなければ無意味だが、避けるごとに命をすり減らしているような感覚がある。
ミトロフには決定打がない。
トロルの右腕を潰すことはできたが、そのために何度、致命の攻撃を避け、点を打ちこんだだろう。
見上げる場所にある首や頭を狙うことはできない。
ミトロフがトロルを仕留めようと思えば、ただただ、地道に積み重ねるしかない。一撃でも食らえば死ぬという重圧を背負いながら。
トロルに対して優位に立っているようでいて、その実情は綱渡りでしかなく、ミトロフが渡ろうとしている綱はひどく細い。
短時間の激しい運動によって、ミトロフは心臓が苦しいほどに拍動しているのを感じていた。全身に血が巡っている。身体は手足の先まで熱く、顔中に汗が流れている。
命を賭けた綱渡りによって精神は興奮し、興奮は脳内を占領する。
ミトロフの身体はふわふわと浮き立っていた。
来いよ、と思う。
いくらでも戦ってやる。何度でも避けてやる。
自分の中にこれほど好戦的な一面があったことに驚いている。
同時に普段の、臆病で神経質な自分が、それは無理だ、と告げている。
乱れた呼吸が戻らない。
ブヒィ、ブヒィ。
鼻に詰まった息が音を鳴らしている。
子豚は巨大な豚と向き合っている。
互いに戦うべきか、逃げるべきかを迷っている。
トロルがもし向かってくれば、ミトロフは勝てないと分かっている。100を目指して1の攻撃を積み重ねている間に、相手はひたすら100を繰り返す。その賭け事に、誰が命をベットしたいだろう。
逃げてくれ、とミトロフは願った。
トロルがずず、と腰を落とした。
––––くそ、わかったよ、やってやるさ。
ミトロフがレイピアを握り直した刹那。
ビュッ、と線がはしった。
グラシエの矢だった。
悲鳴。トロルが頭をのけぞらせる。
「去るがよい!」
矢は的確にトロルの右眼を射抜いていた。
頭を振り乱してもがき苦しみながら、トロルは壁にぶつかり、通路の闇の奥へと逃げ去っていった。
……静寂。
ミトロフとグラシエはじっと闇を睨む。
トロルが戻ってこないことを確かめてようやく、その場にへたり込んだ。
顔を見合わる。
互いに引き攣った顔をしている。その真剣さが妙に面白く見える。
二人のどちらが先というでもなく、ぷっ、と吹き出した。
「くっく、っく」
「ブヒッ、ヒッ、フヒ」
笑い声を重ねるようにして、二人は腹の底から笑った。
生き残った。
その実感が、どうしてか面白かった。




