太っちょ貴族は強敵と出遭う
革のガントレットがいくらかミトロフの腕に馴染んできたころに、ふたりは地下4階へ降りた。
地下3階で群れをなすファングにも余裕を持って勝てるようになっていた。
昇華はしていない。ゆえに経験が増え、ファングへの対処法をそれぞれに学んだ結果だろう。
グラシエなどは狩人の経験が存分に生かされ、ファングを狩るという点でミトロフが及ばない成果を出している。迷宮路に残された痕跡からボスファングが率いる群れを見つけ、遠目から矢を射掛けることで殲滅してしまうことすらあった。
ミトロフもまた、左腕にガントレットを身につけたことで、一歩を深く踏み込めるようになった。いざとなればファングの牙口にガントレットを差し出せば、無傷で身を守れる。
3階を攻略するのに3日をかけ、ついに今日、階段を降りたのである。
4階でもまた、階段を降りた広場は安全基地となっている。テントが張られ、商人が消耗品を売る。鍛冶屋が回転式の砥石を持ち込んで、冒険者の武器を研いでいる姿も見られる。
段々と前線基地の様相を呈してきており、冒険者の雰囲気も少し変わってきている。上層階では初々しさや、怯えた自信のなさが見られるものだが、どっしりとした余裕を感じさせる中級者も見える。
二人は広場を抜け、通路に出た。3階までと同じ薄暗い石造りの通路であるが、どこか重々しく、冷たい空気を感じさせる。
あちこちに褪せた染みが飛び散っているのは、魔物の血か、ここで果てた冒険者たちの痕跡だろうか。
「……ここにいるのはコボルドか」
「ああ。われにとっては仇敵とも言えるな。命を失いかけた」
地下4階を根城とするのは、ゴブリンとファングを掛け合わせた存在、コボルドである。ファングの獰猛さに牙と俊敏さと、ゴブリンのように道具を駆使する器用さがある。
縄張りの意識が強いために、争いに負けた個体が上層階に上がってくることでも知られている。初心者が不意に出くわせば必死の魔物であるために、”初心者殺し(ノービス・キラー)”とも呼ばれる存在だった。
「緊張するな……あれは強敵だった」
ミトロフはコボルドと戦っている。グラシエを助けるためにひと刺しで倒したが、立ち会った際の緊張感は背筋が震えるほどだった。
歪さと貧相な見た目で侮る者は多いが、コボルドは恐ろしいとミトロフは思う。ファングもゴブリンも、野生のままに、本能で向かってくる。
コボルドは理性を兼ね備えて、殺しにかかってくる。
今までは、どこかで魔物を狩るという意識だった。
しかし理性を備えた相手との戦いは、殺し合いだ。喉元に刃を突きつけられているような緊張感が常にある。
「われも身体が硬い。知らず力が入っておるようじゃ。慣れるまでは無理なことはせんようにせねば……」
と、グラシエが言った瞬間。
横手の壁が崩壊した。
「はあ……!?」
目の前の通路に瓦礫が飛び散り、煙が広がる。ランタンが転がり、油が散った。燃え広がった火が通路を照らしあげ、そこにいる存在を二人に見せつけた。
「……ッ! なんじゃこいつは!?」
グラシエが一歩下がる。
巨躯である。丸々と膨れた身体は灰色がかり、太く短い腕には石を削った棍棒が握られている。脂肪に埋もれた首の上に、小さな頭が載っている。それでいて瞳は大きく、ギョロギョロとふたりを見下していた。
「トロルだ……」
ミトロフは呆然と呟いた。
それは幼いころ、ミトロフに剣を教えてくれた男が聞かせてくれた話の中に出てくる。
––––醜い巨躯に短い手足、頭は小さく目はでかい。手には武器を持ち、頭は悪く、しかしなんでも喰う。
トロルは左腕に持っていた何かを振りかぶり、投げつけた。
ミトロフとグラシエは咄嗟に避ける。
通路を弾けるように転がったのは、身体を半分喰われたコボルドだった。
「こやつ……コボルドを捕食しておるのか……ッ!」
「4階に、トロルって出るんだっけ?」
「聞いたことがないわ!」
「じゃあ、迷って上がってきたのかな。迷宮って魔物しか知らない抜け道があるっていうよね」
「おぬし冷静じゃのう!?」
グラシエは焦ったように叫びつつも、弓に矢をかけながらトロルの動きを観察している。
彼女は狩人ゆえに、森の中で危険な生物と相対したときにどうすべきか、その対処法を身につけていた。
背を向けて逃げ出すのがもっとも悪手である。それは追われる獲物の行動であり、大抵の生物は人よりも早く駆ける。獲物として追われてしまえば、逃げることは不可能だ。
しかし、かといって、こいつから逃げずに生き残る方法があろうか––––?
グラシエはトロルを見上げる。天井までの半分以上の空間を埋めている。
この身体に己の矢がどれほど脅威になるか。あまりに心許ない。
トロルは叫ぶでもなく、威嚇するでもない。
どん、どん、どん、と地を震わせるように重たげに駆けて、棍棒を振りかぶった。
狙いはミトロフであった。
その一撃を、ミトロフはステップで躱した。棍棒は床にめり込み、瓦礫をばら撒く。
その破片がビシビシと身体に当たるのを感じながら、ミトロフはレイピアを抜いていた。




