太っちょ貴族は風呂最高を知る
磨き抜かれた大理石で作られた浴槽は、貴族として育ったミトロフから見ても豪勢と思える。真ん中にはそれこそ噴水のように湯がわき、縁からは延々と湯が流れ落ちている。
貴族の家であっても湯船にお湯を溜めないのは、ひとえに衛生面と手間暇の問題だ。大量の水を浴槽に運ぶのも、それを沸かすのも大変な苦労がかかる。貯めた湯に人が入れば汚れ、そのまま置いておくということはできない。
しかしこの浴場はどうだろう!
地下から湧く湯をひっきりなしに流すことで、常に湯船は清潔なお湯で満ちている。これならばどれほどの人間が入ろうと、不衛生だと騒ぐ気にもならない。
ミトロフは湯船にゆっくりと足先を入れた。掛け湯よりは温いが、足がピリピリと痺れた。
ぐっと歯を噛み締めてゆっくりと腰まで浸かる。
湯船の中はすり鉢状に傾斜している。縁には腰掛けができているようで、下半身だけで浸かっている者も多い。
中央では立って談笑している男たちが目についた。中央から流れる湯に肩を打たせて笑っている青年たちがいる。
どうやら正しい入り方、というのはないらしいとミトロフは見て取った。
そのままゆっくりと、お湯を手でかくように進み、肩まで浸かった。
「あ"、あ"あぁ……」
言葉にならない。
喉の奥から搾り出された豚の悲鳴のようであるが、ミトロフは背筋を駆け上がる心地よさに震えていた。
全身が熱い綿に包まれているようである。
手足が溶けてなくなり、自分のむき出しの精神に湯が染み込むようであった。
溶ける。疲れが。
あちこちにランタンがかけられているが、もうもうと蒸気が立ち込めているために、湯場はどこを見ても薄暗い。しかしその暗さが、また良い。
蒸気が周りの人間たちとの間に、薄い膜を張ってくれているようである。
集団の中にあって、個人である。個人でありながら、一体感がある。
孤独であって、孤独ではない。
不思議な感覚は湯の暖かさ、心地よさだけではないように思えた。
この空間、浴場という場所が、良いのだ。
ミトロフは湯に浸かるという心地よさのあまり、座り込んでしまいそうになった。慌てて縁まで戻り、空いていた腰掛けに座る。
湯はミトロフの腹までを温める。
上半身は蒸気がまとわり、無数の水滴が粒となった。
広々とした浴槽に浸かり、出ては入り、入れ替わっていく街の人々の姿を、ぼんやりと眺める。
ミトロフはぼうっとしていた。
考えることも、憂いも、寂しさも不安も、今ばかりは蒸気のように煙になってしまったかのようである。
頭は空っぽで、ミトロフは自分の心のその空白が嬉しかった。
「……ずっといられる」
ぽつりと呟いた。
「そうだろうとも。こんなに居心地の良い場所は他にない」
思っても見なかった返事があった。
ミトロフが驚いて顔を向けると、男がひとり、湯船に入ってくるところだった。
「隣、良いか」
「え、ええ。どうぞ」
ミトロフの横に腰掛けた男は、ミトロフが見上げるほどの体躯をしている。
そして何より、その顔は勇ましい獣なのである。顔の周りにたてがみが伸び、鋭い眼光がミトロフを見下ろしていた。
「なんだ、獣人を見るのは初めてか」
「し、失礼した。ラオンヘッド族の方を見るのが初めてだ」
「そうか。なかなか街には住みつかん一族だからな。俺は変わり種だ」
グルル、と喉が響いた。雷が鳴るような物々しさだが、獣頭の男は笑ったつもりらしい。
「この街で初めて湯船というものに入ったが、これがたまらなく気に入ってな。仲間は呆れて帰ってしまったが、俺はこの街に住み着いたんだ」
「風呂に入りたいから残ったと!?」
「その通りだ! 俺は、風呂が大好きだからな!」
グルっグルっグルっ、と喉が鳴り響く。
「たしかにこんなに気持ち良いなら、毎日でも入りたくなるか……」
「そうだろう。こんな場所は国中のどこにもない。そして安い。迷宮もある。金を稼ぎ、飯を食い、ここで湯を楽しむ。生きる楽しみが詰まっている」
「生きる楽しみ……?」
「そうであろう? 動き食い寝るだけでは獣のままよ。湯を楽しむとは娯楽そのもの。こうして見ず知らずの者と会話を楽しめるのもまた、面白い。裸で湯に浸かっておるからこそ、言葉も軽やかになるというものよ」
はああ、なるほどな、とミトロフは頷いた。
民衆がこれほど浴場を楽しむのは、身体を清潔にして心を落ち着けるだけでなく、人と人との交流の場ともなっているからのようだ。
「僕もここに住み着いてしまうな」
「ここの魅力がわかるのなら男として一人前よ」
あのまま貴族として生活をしていれば、グラシエとは出会わなかっただろう。浴場に連れてきてもらうこともなく、こうして巨大な獣頭の男性と裸で並んで湯に浸かることもなかった。
ほんの数日で、ミトロフの人生は大きく変わっていた。それは不思議なことであり、不遇なのかもしれない。貴族という立場は、命に危うさもなく、食うにも困らず、贅沢さに囲まれた環境だった。ミトロフの身体についた贅肉は、貴族の豊かさの象徴なのだ。
贅肉だけを蓄える生活では、この景色も、経験もできなかったに違いない。
この場で湯に浸かる自分を、ミトロフは悪くないと思えた。
見ず知らずの獣頭の男性と肩を並べているのも、これは面白い経験である。
生きる楽しみ、という言葉を、ミトロフは繰り返した。
「ああ、気持ちいい」
「まったくだな。湯とは素晴らしいものだ」
ミトロフと獣頭の男は、たまに思い出したように会話をする。ふっと途切れたら、黙り込んでぼうっと景色を眺める。
たまに、獣男と顔見知りらしい者が通りかかる。手をあげて挨拶をしたり、一言、二言と話して通り過ぎていく。
「何かに急かされることもなく、強制されることもない……湯に浸かるというのは、解放されることだ」
獣頭の男がぐるぐると喉を鳴らしながら言った。
天井を見上げながら、ミトロフは大きく頷いた。
「風呂、最高だ」
ふたりはそのまましばらく、湯に浸かったまま呆けていた。
驚くべきことに、公衆浴場は24時間閉業することがない。深夜だろうと早朝だろうと、常に湯に浸かることができるのだ。
国が運営しているからこそ、儲けを度外視し、民衆の疲れを取るための楽園としてそこにあるのである。
迷宮帰りの冒険者には朝も夜もなく、冒険者を相手にする仕事をする人も生活は不規則だ。パンを焼く職人は深夜から働き始めるし、王城に努める下級役人や兵士も、勤務時間は朝に夜にと変わっていく。
どんな時間にも疲れた人は絶えない。風呂に入りたいと思う人はいるのだ。
ミトロフと獣頭の男は、同時に風呂を上がった。ミトロフが少々、のぼせてきたからだった。
「湯に慣れぬうちはそうなる。身体に熱がこもりすぎるのだ。入る前にはじゅうぶんに水分をとることが大事だぞ」
「ははあ、なるほど。そういうものか」
獣頭に先導され、湯場を出る。
更衣室だけかと思っていたが、並んだ棚の向こう側には、休憩場があった。木製のベンチが並び、裸の男たちが座って談笑している。下働きの男らが大きな団扇で風を送っている。
獣頭は壁際の受付でなにかを頼むと、木のジョッキを両手に持って戻ってきた。
「ほら、これを飲め」
「これは……?」
見れば泡立った白い液体が入っている。
「ミルクエールだ。飲んでみろ。飛ぶぞ」
言うなり、獣頭の男はぐいとジョッキを煽り、ごくごくと飲み干していく。
ミトロフはジョッキの中身をじいっと見つめた。
なにかのミルクであるようだ。しかしエールとは麦酒のことではなかったか。
そのふたつを混ぜたということだろうか。それは美味いのだろうか?
普段ならば飲まなかったかもしれない。貴族としての生活で身につけてきた価値観や常識というものは、時として強い忌避感につながるものだ。
とくに、貴族はミルクやエールを飲まない。ワインだけである。
貴族が食卓でエールを飲むことは没落の証、貧しさとみすぼらしさを象徴する。
ミルクを飲むのは農民であり、彼らとその土地を管理する貴族は同じものを飲むべきではない。古い慣習が今でも残っている。
ミトロフはどちらも話に聞くばかりで、飲んだことがなかった。
しかし、僕はもう冒険者である。とミトロフは思った。
ミルクもエールも、未知の食材だ。それを味わってみたいという強い好奇心がある。
ミトロフは口をつけ、一気にあおった。
口の中に流れ込んできた液体。その冷たさに驚く。ごくり、と喉に流し込む。
うまい!!
なんて冷たくて、飲みやすいのだろう!
それでいて酒のようだ! わずかに発酵した微炭酸がしゅわしゅわと喉を刺激する。液体でありながら、飲みごたえがあるのだ。
ごく、ごく、と。喉が勝手に鳴る。
ミトロフはぎゅっと強く目を閉じた。喉で弾ける泡がたまらない!
わずかな苦味。それでいて鼻に抜ける甘さと、濃厚な栄養を感じる風味。キンキンに冷えているからこそ、こんなにも美味いのだろう。
ジョッキには並々と入っていたはずなのに、ミトロフは一気に飲み干してしまった。
「ブヒィっ!」
息を吐き出し、忘れていた酸素を吸い込む。
熱を持った全身に冷えたミルクエールが染み渡っていく。身体中がふわふわと浮かんでいるような心地良さ。
「……これが合法だなんて信じられん」
「良い飲みっぷりだ。お前は良い男になるぞ」
ぐるぐると笑って、獣頭の男がミトロフの背中を叩いた。
「僕は決意した。毎日ここに通うし、毎日これを飲む。素晴らしいものを教えてくれて感謝する」
獣頭は裂けたように大きな口から牙をのぞかせながら、ニンマリと笑った。
「互いに生き残り明日も会おうぞ、小さな冒険者よ」




