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【書籍化】太っちょ貴族は迷宮でワルツを踊る  作者: 風見鶏
第一章

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太っちょ貴族は風呂におどろく


 それは小さな神殿か、あるいは宮殿の離れのようなものに見えた。

 石造りの構えは丹念に組み上げられ、正面の入り口には神話や神獣をモチーフにした彫刻が刻まれている。

 地下から湧く湯を民衆の入浴施設にするために、当代の王が命じて作らせたという。


 完成して5年も過ぎ、人々の生活に巨大な公衆浴場はすっかり馴染んだらしい。

 立ち惚けるミトロフの横をひっきりなしに人々が通っていく。


 家族連れもいれば、仕事の合間にちょいと寄ったという風の男もいる。女ばかりが連れ立って入っていくし、10人にもなろうという団体客がわいやわいやと話しながら出てくる。

 今では街の中でもっとも人が集まり、賑やかな場となっている。


「これは……すごいな」

「そうじゃろう。このように華やかで活気あふれる場所を、われは他に知らぬ。毎日が祭りのようじゃ」


 グラシエが指差したほうを見る。

 公衆浴場の正面には広場がある。そこもまた人が多いのは、待ち合わせや小休止というだけでなく、ぐるりと縁を囲うように広がる屋台や出店が目的らしい。


 食事や飲み物だけでなく、蚤の市にもなっているようだ。

 とかくミトロフにとっては新鮮な光景である。


 くんくんと鼻を効かす。

 肉やパンの焼ける匂いに、香辛料の刺激が含まれている。

 しかしなんとも言えない苦味のような臭いが漂っている。


「……この変な臭いはなんだろう? 嗅いだことがないや」

「それが地下より湧き立つ湯の香りなんじゃよ。最初のうちは鼻を摘みたくなろうが、なに、すぐに慣れる」


 人の波に臆することもなくずんずんと進むグラシエのあとを、ミトロフは慌ててついていく。

 そこらじゅうが興味深い。視線をあっちへこっちへとやっているうちに、グラシエを見失ってしまいそうである。

 外見は石造りだったが、中は木がふんだんに使われていた。

 長く伸びたカウンターで、受付の列がいくつもできている。


 グラシエは慣れた様子で入浴料を払い、身体を拭くための布と、小さな木のカップを受け取った。二つずつあり、片方はミトロフに渡される。

 カップの中には黄色のバターのようなものが入っている。


「これ、石鹸?」

「そうじゃよ。浴場ではもっぱらこれで身体を洗うのじゃ」


 ミトロフはねっとりとした石鹸に鼻を寄せる。さわやかな柑橘のような香りがした。よく見れば刻んだ皮が混ぜ込まれているようである。

 受付から奥へ進むと、靴を脱ぐ場がある。そこから先は木板を裸足で歩いていく。

 やがて右と左に道が分けられ、それは男女で区切られた場所になるらしい。


「ではミトロフ、今日はここで解散としよう」

「え、ここで?」

「われはゆったりと入浴したいのでな。それに」とグラシエはにまにまと笑う。「ミトロフ、お前も入れば分かる。待ち合わせなんてしてもな、時間通りに出るのが億劫になってしまうに違いないのじゃ」


 ではまた明日の、と女子風呂に歩いて行ったグラシエの背を見送る。

 ミトロフはおずおずと、ほかの男たちが歩く背を追って通路を進んだ。

 すぐにまた広くなり、いくつもの棚が並んでいる。更衣室となっている。


 真新しい木の香りと、グラシエが温泉の香りだと教えてくれた鼻につく奇妙な臭いが、もうもうとあふれる湯気と一緒に漂ってくる。

 脱衣所からはすぐに湯場が見えた。


 裸で歩く男たち。川が流れるような水音。あっちこっちでと話し声が響いている。

 ミトロフは見よう見まねで木棚のひとつを陣取り、服を脱いだ。ガントレットも丁寧に外す。


 全裸になると、自分も町民のひとりとして馴染めたような気持ちになった。胸を張って歩き、湯場に入る。

 足元はひんやりとしたタイルが貼られている。


「……こりゃすごい」


 湯場は広く、天井は高い。上まで湯気が漂い、視界がはっきりしないほどだった。

 右へ左へと奥まった場所がある。目の前にはひときわ立派な浴槽があった。

 それは街中にあるような噴水である。大きな円形で、何人もの男たちが入っている。

 ミトロフもさっそく入ろうと考えたが、手にもった石鹸の器が邪魔だと気づいた。


 よく見れば、壁側には木製の腰掛けがずらりと並び、そこで身体を洗っているようだ。

 ミトロフもまずはと、そちらに向かって腰を下ろした。

 胸元の高さに溝が作られ、そこをひっきりなしにお湯が流れている。手桶をとり、湯をすくい、ミトロフは頭からかぶった。


「あつい!」


 がははと、近くの老人に笑われる。


「おい坊主! 風呂は焦って入るもんじゃねえ! ちょっとずつ足や手から温めんだよ!」

「……どうも」


 蒸し風呂とは何もかも勝手が違うのだった。

 ミトロフは改めて桶に湯をすくい、こんどは手を洗い、足にかける。

 少しずつ肌が慣れてくると、熱い湯はむしろ気持ちがいい。


 タオルに石鹸をつけて揉み込み、身体を擦る。垢がぼろぼろとこそぎ落ちていく。皮膚を覆っていた汚れの皮が剥がれ落ちていく。

 自分の気分を塗り替えていくような心地よさである。


 その石鹸で今度は髪を洗う。ちょうどカップに渡された石鹸を使い切った。

 頭から熱い湯をざぶざぶとかぶる。身体中の汚れを洗い流してから、ミトロフは立ち上がる。よく見れば壁際に箱が置かれている。そこに使い終わったカップを返却するようである。


 カップを入れ、布を肩にかける。それもまた他の男たちの真似である。

 ミトロフはついに湯場の中央の浴槽に向かった。



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