太っちょ貴族は大人になる
裏庭のベンチにミトロフとグラシエは並んで腰掛けている。
サフランが天井画を手放すことの意味を、ミトロフはグラシエに語った。サフランの自己犠牲のようにも見えるが、それは正しくない、と。
彼は新しい野望を抱いたのだ。過去の夢を清算し、新たな旅のための資金に換えることを決断したのであって、それを周りのものが悔やんだり、引き留める必要はないのだと。
グラシエはううむと唸っていたが、自分の中で折り合いをつけるために頷きを返した。
それでひとつの話題に区切りがつき、ふたりの間に日中の暖かな陽気が溜まった。礼拝堂には見知らぬ大人たちが出入りを繰り返しているが、子どもたちはすでにそれを気にしていない。サフランが事態をよく語って聞かせたことで理解をしたようであった。
子どもだからと甘く見ることはできないものだとミトロフは思う。
とくにこの教会にいる子らは、ミトロフよりもよほどしっかりと現実と向き合っている。向き合う必要に迫られている。ゆえに年齢と精神の幼稚性は比例しないものだ。
裏庭で子どもたちが駆け回り、ラティエとカヌレが洗濯物を物干しにかけている。その光景を眺めていたが、ミトロフはちらとグラシエに目を向けた。
サフランが問題の解決を定めたことで、グラシエの抱えていた孤児院を脅かす存在への心配も収束が見えている。
彼女は姉のラティエが住まうこの孤児院の存続と、裏社会の権力者との諍いによる荒事を警戒して、ミトロフと行動を共にしていなかった。
すべての心配がなくなれば、ふたりはまたパーティーを組み、迷宮に挑む日々が戻ってくるはずだった。それがどれほど充実したものになるか、ミトロフは想像するだけで心が華やぐのだ。
孤児院の裏に茂った草木の向こうから虫の声が聞こえている。裏通りのどこかで木戸が閉じられる音がかすかに鳴った。
ミトロフが、
「ぼくは君を守ることができない」
と言ったとき、グラシエは不思議な感覚を得た。
それはあまりに鮮明な光景であったために、目が覚めてもまだ夢だとは気づけないでいる夜明けの時間に似ていた。
グラシエはエルフ族の中では若輩でありながらも、狩人として過ごした時間と経験は長い。
木陰の中に息を潜め、獲物の動向を見定め、呼吸を知る。弓に矢をつがえて引き絞るとき、指から離れる前に必中の光景を見ることがある。
その矢が外れたとき、グラシエは呆然とする。そんなはずはなかったのに……なにが起きたのだろうか……。
「……われとパーティーを組むつもりはない、と。そういうことか」
「そうじゃない」
ミトロフは決然と言った。
引き伸ばされた唇は結ばれている。奥歯を噛み締めているからだ。瞼に力が込められているために、普段よりも瞳孔が大きく見える。
ある種の頑なさがまとわりつく雰囲気を、グラシエは感じ取る。
揺るがぬ答えを自分の中に見つけた者がそれを実行に移すとき、独特の気配がある。目に見えずとも壁が生まれ、どんな言葉もその壁を通り抜けられない。
「きみはたくさんの人に慕われてる。子どもたちがきみを待っている。もし迷宮で死んでしまえば、悲しむ人は多い」
「おぬしとカヌレは違うとでも言うのか?」
「カヌレはぼくより強いし、迷宮に潜る理由がある」
彼女の身に振りかかった古の呪いは、どんな賢者にも治す術がない。唯一その手掛かりがあるとすれば迷宮の中だけである。
「ではミトロフ、おぬしはなぜ迷宮に潜るのじゃ? 呪われてもおらぬ、財宝を見つけて一攫千金を狙うでもなく、身を立てる必要もないであろう?」
「ぼくは、怠惰だ。怖がりだし、自分に甘いし、勇気も度胸も足りていない。努力もしてこなかった。まるで毎日を祭日のように無意味に過ごしてきた。だからぼくの人生に特別な日も、ああよく頑張ったと満足に眠れる日もなかった」
でも、とミトロフは言葉を続けた。
「迷宮に挑むとき、ぼくは……生きている。魔物と戦って呼吸をするたび、熱が肺を膨らませる。勝てば嬉しい。負ければ、悔しい。次はもっとやれる、ぼくはもっと成長できる……そう感じることが、嬉しいんだ。迷宮の中で、ぼくは変わっていける。ぼくは人生で初めて、自分の意思を感じた」
言い切って、ミトロフは付き物が落ちたように晴れやかな顔をしている。
悩みながらも言葉にしながら、自分で自分の気持ちを見つけていくようなことが、時にしてある。誰かに本心を話すことも、ぶつかることも避けてきたミトロフにとって、今まさに感じているその変化は、奇妙な高揚すら感じさせた。
グラシエが初めてミトロフと出会ったとき、その顔は鬱屈としていた。希望を持たず、明日を恐れて逃げ回り、いつまでも夜の帳にしがみついている人間だった。
しばらく見ない間に、その顔はすっかりと変わっていた。
ミトロフは頬を高揚させ、熱を宿した瞳でグラシエを見据えた。焚き火の中心に盛る熾火––––エルフはその長寿性のために感情が希薄になる。自らを見つめるミトロフの瞳に灯る感情の熱に、グラシエは捉えられたと感じた。これほどに情熱的な目を向けられたことはない。
ミトロフは言う。
その言葉を自分が拒絶できないことを、グラシエはもう知っていた。
「ぼくは君を守れない。ぼくは、弱い。だからぼくにはきみが必要だ」
グラシエは目を見開いた。
男とは、女を守るもの。騎士とは姫を守るもの。それが当然のこの世界の中では、ミトロフの言葉は情けないものだった。
だが、グラシエはその言葉に喜びを得た。
エルフの里の中で弓を持ち、男勝りに狩りをしてきたグラシエは浮いた存在だった。女ながらに、という言葉が常について回っていた。磨いてきた弓の技はグラシエの誇りである。自分の誇りも丸ごとに、必要とされている。
「おぬしは、旋風の中心のようじゃな」
「……どういう意味だ?」
捉われた落ち葉は逆らいようもなく引き込まれ、中心に吸い寄せられる。そんな不思議な力が、目の前の男にはあるようだ……。
しかし口には出さず、グラシエは目を細めた。
「われの答えは決まっておる。おぬしを放っておくと心配でいかん。此度も勝手に厄介な敵と戦いおって」
「ぶひっ……そ、それは、すまなかった。心配をかけた」
「なんでまたひとりで挑んだのじゃ?」
ミトロフは腕を組んで目を閉じ、黙り込んだ。唇を尖らせながら。
「お、男の意地だ」
と答える。
「男とは、まったく」
グラシエは目を見開き、やれやれと首を振った。
「もう二度と無謀なことはするでないぞ。それは約束してもらう」
「……分かった。約束する」
「良きかな」
グラシエは微笑み、ミトロフの頬をつまんだ。もっちりとした触感は予想だにせず心地よいものだった。
「なにをひゅるんだ」
「おしおきじゃ」
むにむにむに。
「ええい、やめろ!」
「なんじゃ、楽しんでおったのに」
ミトロフはグラシエの手首をつかんで外し、その勢いのまま立ち上がった。グラシエの手を引いて歩いていく。
きょとんとしたグラシエを引き連れて、向かう先はラティエのところだった。
近づく気配に振り返り、大方を察したカヌレはスッと身を引いた。
「ラティエ殿」
改まった呼び方にミトロフの緊張が表れている。
小さなシャツを手に振り返ったラティエに、ミトロフは鼻息も荒く向かい合った。言葉を溜め、三人の間に沈黙が満ち、ミトロフはついに口を開く。
「ぼくは、ひとりではなにもできないダメなやつだ」
「––––はい?」
「多少の金勘定と、刺突剣を振るうこと、食うこと以外は、ろくなことができない。今回もまた、カヌレとグラシエに助けてもらった。これからも助けてもらわなければ、生きていける自信がない」
ラティエがどう感じているのかを、ミトロフは考えない。これまではずっと相手がどう思うかを察するように生きていた。今はただ、自分の中にあるものを伝えたいと思っている。
「ぼくは、自分を強い人間だと思いたかった。いつか、何かすごいことができる人間だと。でも、それは違った。ぼくは、弱い人間だ。それを知った。だから、ぼくはいざとなったら逃げる」
「逃げるのですか」
ラティエが訊き返す。ミトロフは自信満々に頷いた。
「ああ、逃げる。だが、ぼくが逃げるのは仲間を逃したあとに––––いちばん最後だと誓う」
ミトロフはグラシエとカヌレを見やった。
「カヌレとグラシエがいてくれたら、ぼくは心強い。ぼくだけなら出来ないことも、勝てない相手にも、3人でなら勝てる。ぼくには彼女が必要なんだ。だから、グラシエと共に迷宮に挑むことを許してほしい」
ラティエの返事には間があった。胸に抱いたシャツに、ぎゅっと力が入った。
「自分が弱いことを知っている人は、強さを誇る人よりも希少なものです。あなたがそれを忘れずにいてくれることを、私は願います」
答えて、ラティエはグラシエに顔を向けた。
「グラシエ––––気をつけるのよ。必ず帰ってきて。何度でも」
「……もちろんじゃ、姉上」
「カヌレさん、あなたもよ」
「––––はい」
呼びかけられた声が予想外だったのか、カヌレの返事は上擦っていた。
「ミトロフさん」
「う、うむ」
「妹を、よろしくお願いします」
深々と下げられた頭に、ミトロフもまた同じくらいに深く頭を下げた。




