太っちょ貴族はよく眠る
「やあやあ、どうも」
男は愛想良くミトロフとカヌレに笑いかけた。短い赤髪は丁寧に撫でつけられ、髭は綺麗に剃られている。ギルド職員を示す制服にも、足元の革靴にも、年季を感じさせる皺が入っている。
「あなたがミトロフさんですな。こちらは?」
「カヌレだ。ポーターをしてもらっている」
「ああ、なるほど。ポーターを」
「そちらは? 名前を聞いていない」
「おっと、失礼しました。冒険者の方から名前を訊ねられるのは久しぶりでして。私は特別問題対策課のハシャスメと申します。特別問題対策課は要するに迷宮の諸問題をひっくるめて処理するところでしてね。何でも屋みたいなものだと考えていただければ」
ははは、と朗らかに笑って、ハシャスメは病室の壁に寄せられていた小椅子を見つけ、手に持ってベッドの脇に据えた。
「カヌレさんはお座りに? あ、いらない? では私が失礼して、と」
ハシャスメは腰掛けるなり、前傾姿勢をとった。懐から手帳を取り出すと、ぺらぺらと捲って内容を流し見、顔をあげた。
「今回、ミトロフさんは”魔族”と遭遇されたということですね。いや、まずはお祝いを。よく生還なされましたな。心身ともに疲れてらっしゃるのは分かるのですが、いくつか書類を作らねばなりません。なんでも、新しい守護者として”ゴブリン・ソルジャー”が召喚されたとか。二体を相手にして勝利するというのは、まったく驚きですな」
「ゴブリン・ソルジャーを討ったのはブラン・マンジェだ」
「ふむ……ではそう報告書に記しましょう」
懐から短い鉛筆を取り出し、ハシャスメは手帳に書き付けた。
「ブラン・マンジェは無事なのか?」
「ええ。怪我と、まあ、魔力枯渇のほうが重症ですが、問題なく快癒するとの話ですよ。彼女は”頑丈”ですからね」
ポワソンから聞いた話を、ミトロフは思い出している。ギルドの契約によって、彼女は”魔族”と戦う必要に迫られている。
そのことに言及したい気持ちはあれど、ミトロフが口を挟んで改善されるものではないということも分かっている。
ミトロフはぐっと言葉を呑み込んだ。
「……見舞いに行くことにしよう」
「それがよろしいでしょうな。しばらくは魔力を回復させるための治療ですから、先の話になりましょうが。そうだ、そうだ、見舞いといえば、今日はギルドからの見舞いを持ってきたのです」
ミトロフは訝しげに目を細める。
「地下5階という浅層に”突如”、出現した”魔族”を討伐していただいた褒賞、ということです。ミトロフさんの治療費はすべてギルドで負担させていただきます。それから討伐金を幾ばくかと、ギルドカードのランクアップ、それにパーティー名の正式な認可を致します。あとは、何かご希望があればお答えしますが」
「パーティー名に認可があるのか?」
「まあ、ちょっとした特別待遇というものですな。通常、パーティー名は自由ですし、申請費用を負担頂ければ登録いたします。ですが、例えば、そうですな、ギルドがこれは有望だと認めたものや、大きな貢献があった場合、そのパーティーをギルドが後押ししている……そういう箔が付くわけです」
「……詳細は書類で頼みたい。あとで確認する」
「かしこまりました。そのように。他にご希望などございますかな」
ない、と言いかける。いや、それはもったいない。これは機会なのだ。だが、あまりに浅慮な要求をしてはならない。ハシャスメは使い走りではなく、裁量権を委ねられてここにいる。つまり、それなりに偉い。我儘は通るが、欲張ってはならない。良い塩梅を。
「––––カヌレの冒険者カードを作ってもらえるか。審査はなしで」
カヌレが微かに息を呑んだ音がした。
「なるほど」
とハシャスメは目尻に皺を刻んだ。悪い反応ではない、とミトロフは思う。
「ではそのように」
ハシャスメは文字を書き加え、手帳を閉じて立ち上がった。椅子を壁に戻しながら、世間話のように言う。
「ミトロフさん、優れた冒険者が必ず持っている素質がお分かりですかな」
「急な質問だな……諦めの悪さか?」
「もちろんそれもあるといい。ですが、必須なのはひとつだけ––––幸運です」
ミトロフは眉を寄せた。それは疑念の表出である。
「どんなに肉体が頑健でも、精神が不屈でも、死ぬときは死ぬのです。それが迷宮です。死んだものが愚かで無能、生き残ったものが賢明で優秀だったか? いいえ、運があっただけです。そして今日、あなたは生きている。素晴らしい幸運だ」
ハシャスメは手を差し出した。ミトロフの拳をほどき取り、強引に握手をした。
「あなたには”魔族”を跳ね除ける幸運がある。あやかりたいものですな。それに」
その目はミトロフの首から腕に刻まれた真新しい雷の荊跡を見つめた。
「雷の祝福を得ている。これは運がいい証ですよ。今後のギルドへの貢献にも期待させていただきます」
ハシャスメはミトロフに笑いかけると、さっと部屋を出て行ってしまった。
残されたミトロフとカヌレは顔を合わせる。
「……何だったのでしょう」
「ギルドからの口止め、といったところだろうか。褒賞を与えるから、あまり喧しくしないように、あるいはブラン・マンジェや”迷宮の人々”との取引を騒ぎ立てないように……ううん、単純に、目をつけているという通告のようなものかもしれないが……ぼくらは得をした。今はそれでいいだろう」
「……あの、ミトロフさま。あのような願いでよろしかったのですか。他にもいくらでもあったでしょうに」
おずおずとした言い方に、ミトロフは呆れた顔をして見せた。
「よかったに決まってるだろう。前からどうにかしたいとは思っていたんだ。きみはポーターではなく、立派な仲間だからな」
「––––はい」
頷くカヌレの声は詰まっている。そこに籠る感情の内容はミトロフにもわからない。ただ、自分の選択は間違っていないという実感だけはあった。
ふと、大きなあくびが漏れた。
「失敬した。やけに眠くてな」
カヌレは微笑し、ミトロフの肩を支えながら寝かせると、布団をかけて柔らかく押さえた。
「身体に残った雷の魔力が抜けるまで時間もかかります。ゆっくりおやすみください」
「ぼくは元気なんだが」
「ベッドを抜け出すとおっしゃるのであれば力に頼ります」
わかりやすい脅迫に、ミトロフは苦笑した。
「……そういえば、グラシエはどうしてる?」
迷宮の帰途では、カヌレがミトロフを背負い、グラシエがブラン・マンジェを背負い、地上まで連れて帰ってもらった。治療を終えるころには、グラシエはいなくなっていたのだ。
「ミトロフさまの命に別状がないと知らせを受けたころに、子どもたちが呼びにきました。詳しくは聞けませんでしたが、院で何かあったのではないかと。その対応にお戻りになっています」
「そうか……そういえば、ポワソンに君を呼んでくるように頼んだが、どうしてグラシエも居たんだ?」
「それは」
と、カヌレは少し言葉を迷わせた。
「グラシエさまが尋ねておいでだったのです。ちょうど相談事を受けておりました」
「そのおかげで命が救われたな。よくよく感謝を伝えねば」
「明日、参りましょう」
ミトロフの考えていることをしっかりと先読みして、カヌレが言う。今日は大人しく寝ていろということだ。
ミトロフは苦笑し、分かっている、と答えた。
「少し眠ろう。身体が重くて仕方ない」
「治癒の魔法によるものです。起きたときにはすっかり良くなっていますよ」
瞼を閉じると、眠気は呆気なくミトロフを包む。暖かな雲の中に沈み込む前に、頭を優しく撫でられる感触がした。ふと、かつての母の手を思い出した。
ミトロフは懐かしい安らぎの中で眠りに落ちていった。




