太っちょ貴族は謝る
ミトロフはかつてないほどの危機を前にしていた。
ゴブリンソルジャーを前に死を覚悟したが、そちらの方がまだ心が定まる。ミトロフは今、混乱と不安の中に追い込まれており、自分がどうすべきかすら分からないでいた。
ミトロフは唾を飲み下した。視線をどこにやればいいのか落ち着かず、足元を見たり、部屋のあちこちに目を送ったりしたあとに、おずおずと正面に立つカヌレを見上げる。
「…………」
無言、である。
ベッドの上で上半身を起こしているミトロフの前に立ち、カヌレはミトロフを見下ろしていた。
視線にも圧力があるのだと、ミトロフは体感していた。カヌレは迷宮の呪いによって骸骨の姿になっている。視線を送るべき瞳がなく、ただでさえ黒いフードが目深に容貌を隠している。
しかし間違いなく、カヌレは自分を睨みつけているのだと、ミトロフには分かった。
「……カヌレ、すまない」
おずおずとミトロフが言った。
ミトロフには謝るという経験が少ない。ひと言を告げるだけでも時間がかかり、その口調も不器用である。
カヌレは、ふう、と小さくため息をつくと、その場にしゃがみ、包帯を厚く巻かれたミトロフの右腕にそっと触れた。
「……腕の調子はどうなのですか」
「む、これか、ああ、ええと、治癒の魔法をかけてもらったからな。安静にしていればすぐに元通りだろうという話だ。ただこの傷跡は魔力によるものでな、よほどの使い手でなければ消すのは難しいという話だ」
ミトロフの右腕から首筋、胸、脇から腹、そして右足まで、枝を広げた荊のような赤みがかった傷跡が残っていた。
雷の紋章––––リヒテンベルク図形とも呼ばれるそれは、医者が言うには雷に打たれて生き残った者に刻まれる証であるらしい。
本来であれば時間と共に薄くなるというが、ミトロフが受けたのは魔力によって生じた雷である。
ミトロフは、カヌレの気遣うような雰囲気を察した。
カヌレは騎士の家系に育ち、貴族の子女の護衛を務めたこともある。そのために、貴族にとって身体に消せない傷が残る意味合いを理解していた。
「なに、見てくれは派手だが痛みもない。冒険者として風格がついたと思わないか?」
ミトロフはあえて茶化すように言う。ミトロフもまた取り返しのつかない傷を負ったことは理解している。それでも、気持ちは明るかった。
「ぼくは、運がいい。生き残れた。この傷は幸運の証だ。助けに来てくれてありがとう、カヌレ」
「いいえ。お助けできて、本当によかった。ですがもう二度と、わたしを置いて戦いに挑むようなことはしないでくだされば嬉しいです」
黒革の手袋の指が、ミトロフの腕の裾を握った。ぎゅ、と革が擦れて鳴った。
「––––命が縮むかと思いました」
その声の切実さに、ミトロフは胸を貫かれたように感じた。
「……すまない」
「ご無理はなさらないように、と。そう言いました」
「ああ、その通りだ」
「腕を痛められているのに、また怪我をなさって」
「不甲斐ない」
「それに、わたしを呼んでくださらなかった」
「……カヌレ、腕が、あの、絞られて……」
ぎゅううと握りしめられた裾が、ミトロフのふくよかな腕の肉を締め付けている。
「わたしはミトロフさまの盾です。わたしがいないところで怪我をなさったことが、悔しいのです。もしミトロフさまが命まで失うようなことになっていたら、わたしは」
喉を詰まらせる音で、言葉が切れた。
ミトロフは焦っている。カヌレが怒る気持ちは理解できる。しかし、悲しまれると、どんな言葉をかければ良いのか、なにもわからないのだ。
「本当にすまない。カヌレの気持ちを慮るべきだった」
「……いいえ。騎士たるもの、主君に気を遣わせるわけにはいきません。わたしが改善いたします。ですが、もし少しばかりともわたしのことを考えてくださるのであれば、もっとわたしをお傍に置いてくださいませ。お役に立ちたいのです」
いまにも泣き出しそうなカヌレの声に、ミトロフは「うっ」と胸を押さえた。罪悪感が“デンキ“のように胸を叩いたのである。
カヌレの気持ちを考えていなかった。自分のことだけを考えて行動していた。過去の自分の浅慮を、いま悔いている。
「……わかった。約束する。もう二度とこんなことはしない。よく分かったんだ。ぼくはひとりだと、すぐ死にそうだ」
ミトロフはおずおずと、カヌレの頭に手を伸ばした。それは幼い日、ミトロフが母にそうされて慰められたことを思い出したからである。
加減がわからず、フードの生地を確かめるように控えめな加減で、ミトロフはカヌレの頭を撫でた。
「……ミトロフさまが、ご無事でよかった」
カヌレが呟く。
ミトロフは頷いた。カヌレのその優しさに、救われる気持ちがあった。
ここまで自分の身を心配してくれる存在がいたこと。それがミトロフに驚きと、不思議なむず痒さを感じさせる。それは決して嫌なものではない。冬の寒さにかじかんだ身体が、湯の中でじんわりと温められるのと似ている。ミトロフがそれを奇妙に感じたのは、慣れていないものだからだ。
「……その、なんだ。ありがとう。心配をかけた」
「……はい」
ふたりして顔を見合わせる。どうしてか心の置き場に悩む雰囲気になっている。それを互いに気づいているし、互いがそれに気づいていることにも、気づいている。
どちらから言葉を切り出すかという水面下での気配のやりとりに、波紋を起こしたのは扉を三度叩く音だった。
「は、はいっ」
カヌレが跳ね上がるように起立した。背をぴんと伸ばした立ち姿は、入団したての新米騎士のようであった。上擦った声を咳払いで誤魔化す間に、病室に訪問者が入ってきた。




