太っちょ貴族は冒険者になる
隣室から響く怒鳴り声をミトロフはベッドの上で聞いている。
粗末な壁では防音もされず、ふたりの男の会話はよく聞こえた。おかげで早朝に目が覚めた。迷宮帰りらしいふたり組は、探索の失敗の責任を互いにぶつけ合っている。
片方は準備不足を。片方は戦闘能力を。欠けたところを指摘し合い、お前のせいだろ、と怒鳴り合い、ついに一方が足音も荒く廊下を歩いていく。待てよ、と声がかかり、追いかける……声は遠くなり、もう聞こえない。
ミトロフは起き上がり、ベッドから足をおろした。頭側の壁に空っぽの鞘だけが立てかけられていて、それがミトロフのわびしさに追い討ちをかけた。
自分の敗北の証をまざまざと見せつけられているようである。
負けて、逃げた。お前という人間の本質はそうであると言われているようで。
ミトロフはぺしゃんこの枕の下に挟んでいた手帳を取り出し、中を開いた。帳簿として活用しているその中には、現在の財産が示されている。
施療院への支払いは残っているが、払いの目処はついている。多くはないが貯金もある。だが、新しい剣を買うには心許ない。だが、剣がないからと働きもせずに過ごしていたら、この程度の金はすぐになくなってしまう。
「金とは、なくなるものなんだな」
ごくごく当たり前のことだが、氷を踏み割る足音のように背後に迫ってくれば、感じ方はまた変わる。
ミトロフはブーツの紐を結んで立ち上がった。
昨夜のうちに裏庭の井戸から水を運んでおいた。これまではメイドがやってくれていたことである。冬にはミトロフが鈴を鳴らせば、湯気をのぼらせた温かい湯が運ばれてきたものだ。
まともな宿なら手間賃を出せばそうした心配りも手に入るだろうが、安宿にそこまで期待できるわけもなく、ミトロフは夜な夜な、身支度のための水を汲むという仕事を覚えていた。
その水で口を洗い、洗顔を済ませ、寝癖を直した。
迷宮に向かうために、ゴワゴワの作業着に着替える。手入れの行き届いたガントレットを左腕に通してベルトを調整し、腰には短剣のみを吊す。洗って干しておいたハンカチと、食事用のナプキンを懐に忍ばせれば、冒険者としてのミトロフが仕上がる。
右腕の痛みは消えている。これならば剣を振るえるだろう。
扉を出ると、通路を歩いていく冒険者たちが目に入る。夜のうちに酒だ乱闘だと騒いでいても、朝が来れば彼らもまた剣を握り、自らの運を試すために迷宮に赴くことになる。
階段を降りて外に出れば、夜の余韻が香った。ひんやりとした風が頬のうぶ毛を撫でる。連なった建物の向こうの遠い山々に、新鮮な卵の黄身のようにまん丸な朝焼けがあった。街は朝よりも早く、人々の生活の鼓動を打ち始めている。
薪を山のように積んだ馬車とすれ違いながら、ミトロフはギルドに向かった。
ギルドの建物の前には円形の広場があり、中央には長方形の噴水が据えてある。そこは冒険者たちにとっては観光地でも飾りでもなく、身を洗うためという合理的な理由で活用されていた。
泥や魔物の返り血を浴びたまま街中を歩くよりは、水を浴びてびしょ濡れのほうがまだマシというものである。
夜を徹した冒険の帰りなのだろう。数組の冒険者たちが服や身体を洗っている。明るい顔もあれば、暗い顔もある。成功したもの、失敗したもの……酷い敗北を味わったものもいるかもしれない。
けれど、生きている。生きてここで身体を洗えるなら、また次がある。
ミトロフはふと歩み寄って、噴水の水で両手を洗った。そして台座に刻まれた無数の傷に手を触れ、祈った。
ここに傷をつけたのは生きて帰ってきた冒険者たちである。その幸運にあやかりたいと思った。
ぼくも、ここに戻ってくる。生きて帰る。
そうした気持ちは胸の中だけには留めきれず、ふと大声で騒ぎたいような、両手を振り回したいような衝動を持て余した。
夜な夜なに宿で冒険者たちが騒ぐのは、同じような耐え難い衝動を抱えていたからかもしれないと思った。
ミトロフは今、ようやく自分が冒険者になった気がした。貴族の三男であるミトロフでなく、家を追い出されたただのミトロフでもなく、新米冒険者のミトロフに。
自分が何者であるかは、自分にも分からない。
最初は楽しんでいた帳簿付けも、繰り返す毎日で金の増減に気を取られるうちに、心がさもしくなってしまったように感じることもある。明日はよくともひと月後は分からない生き方というのは、自由と呼ぶべきか悩ましい。
だが、今はこれがミトロフの生き方である。
己の腕で小さな金を勘定し、明日、来週、来月をどう生きるかを勘案する。
しかし真剣に励んでいれば、自分が生涯をかける価値があると信じるものが見つかるだろう。
今の自分は、これでいい。これがいい。先のことは分からないが、今日という一日に命を燃やすことが、自分を正気にさせてくれる。暗い部屋の中で丸くなるよりも、ここに立っている自分のことを誇ることができる。
今の自分は間違っていないのだと、証明したい。
剣がいる。
自分の剣を、取り戻さなければならない。
敗北した自分を受け入れ、立ち直り、自分はもう逃げないという覚悟を固めるためにも、あの”魔族”と––––山羊頭の老婆と、もう一度、戦わねばならない。
あれは雷を模した魔法を使う。当たれば痺れる。
避けねばならない。だが、雷を避けられるのだろうか。
あれは本当に雷か?
そもそも雷とはなんだ?
ミトロフは顎肉をつまんで首を傾げた。
「ふむ……まずは調べてみるか」
分からないなら調べるまで。調べるための場所は、幸いにも知っていた。




