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CHERRY BLOSSOM ~チェリーブロッサム~  作者: 悠里
第八章「The Cherry Orchard」
83/83

083 凶悪

 

 光陵高校の学内が、にわかに慌ただしさを帯びてきた。

 と言うのも体育祭まで二週間を切り、実質の準備日数が残り十日もない状況で、体育祭実行委員会が遅ればせながらもようやく発足したからだった。


 体育祭の実行委員は、生徒会メンバーを中心に各クラスより選出された男女二名ずつで構成される。

 具体的な人数としては、生徒会役員四名と、一学年五クラスの三学年分三十名を加えた合計三十四名。


 実行委員のほかには、保健委員の救護班、放送部による当日司会の参加が決まっている。

 だが、こちらは当日に役割があるだけなので、会議には代表が要請があった時だけ参加すればいいことになっていた。


 前日から当日にかけての設営や運搬は運動部や男子生徒が協力し、備品の修繕や垂れ幕の準備などは文化部と女子生徒の協力を得るのが例年の習わしとなっている。


 各部もここで生徒会に恩を売っておくことで、部費などの融通が利きやすくなるためか、この協力体制については例年特に苦情は出ていないようだった。


 準備段階での主な役割は、競技種目の決定や配点、チーム分けから、用具の点検、補修、応援席の区分け、資料の作成など多岐に渡る。これを二週間で行うとなれば必然ハードスケジュールになってしまう。だが、変更を加えず例年通りにすることで、なんとか間に合わせてこれたらしい。

 と言うのも、そもそも生徒会選挙で新役員が選ばれてから、体育祭が行われるまで一ヶ月もない行事日程に問題があった。

 古参教師の話しでは、光陵の体育祭は十年近く前までは十月の体育の日に行われていたのだが、文化祭と近いこと、雨になることが多かったことがあって梅雨入り前で行事がない六月頭に変更になったらしい。

 夏場は暑く熱射病が心配されたし、冬は寒さで体が動かず怪我が多くなるという理由で、この時期に決められたのだが、それはそれで生徒会選挙や四月末に行われた同じく運動系イベントである球技大会と近くなる弊害ができてしまったのである。


 光陵高校は一応の進学校であるので、例年体育祭はそこまで盛り上がってはいなかった。

 それは、時間的な制約でどうしても準備不足にならざるを得ないことと、その弊害で毎年代わり映えしないことが理由のひとつにあげられるだろうか。

 しかし、運動部は活躍の場でもあるので、いざ始まってみると一部は熱くなるのだが、勝ち負けが自己満足以外の役に立つ訳でもなく、多くの生徒にとっては『やらされる』感が強い受動的な行事だった。


 だが、今年は実行委員会が発足する前から『体育祭に大幅なテコいれが行われる』と噂されていた。

『競技が一新される』『チーム分けが紅白じゃなくなる』『優勝チームに賞品が出る』など、そのような内容が……噂にすぎなかったが……まことしやかに流れていた。

 もちろん単なる噂に過ぎず、生徒の多くは身近な経験から噂を鵜呑みにしない用心深さを持っていた。

 ただ、イベント運営の主導権を握るのが『あの』生徒会だからこそ、一概に否定することも出来なかった。

 生徒の間では『そのくらいはやりそうだ』というものと『それくらいはやってもらわないと』という希望的観測も相まって、噂を『信じたい』方向に大きく傾いていたのだった。


 そんな話しを聞きつけた『舞浜透子』や『斉藤ちひろ』ら三年生は、ことの真偽を直に問うべく、新生徒会メンバーを……なかば恒例となりつつある……昼食の席に呼んだのは、放課後に実行委員会の初会合が持たれる当日のことだった。






 その話を波綺さくらから受けた九重櫻子は快く承諾し、昼休みに入ってすぐに生徒会のメンバーである会計の聖真秀、書記の高木瀬楓の三人で三年生の教室を訪れた。


「あれ? 波綺っちはどうしたの?」

 教室に入ってきた一年生たちを見て、香澄が開口一番に問いかけた。


 それは、ある意味当然の疑問だった。

 香澄たち三年生は、新生徒会発足に力を貸した関係で馴染みが深いと言っても、それは主に波綺さくらを通してのもの。

 櫻子を含めた他のメンバーは、さすがに気軽に上級生の教室を訪れはしなかった。

 もちろん、さくら本人も気軽に訪れているわけではなかったが、ちひろと志保は元より、透子、香澄、凛の全員がさくらの後見人的な立場のつもりでいるために、いわば別格の扱いとなっている。


 その香澄の問いに櫻子が代表して口を開いた。


「ミキちゃんなら、今日は、ちょっと保健室で保護してもらってます」

「……ホゴ?」

 怪訝そうな表情の三年生たちに笑顔で頷く櫻子。


「ちょっと調子が悪いんですけど~ミキちゃんがそれを自覚してなくて。だから神野先生にお願いして預かってもらってるんです」

「そうなんだ。なら、食事が終わったら様子でも見に行こうか?」

 透子の言葉に他の三年生も頷いているのを見て、櫻子は困ったように苦笑いする。


「できるなら……行かない方がいいと思いますよ?」

「どうして?」

 透子が率直に問い返す。断る理由が見あたらなかったからだ。


「それは、そのぉ……。そうですね、一度実際に見た方がいいと思うし、よかったら様子を見舞ってあげてください」

 櫻子は手のひらを返すように先程と違う答えを返した。


 だが、苦笑いの表情は、最初の意見が本当のところだと物語っている。

 さすがの彼女としても、最上級生の意向に真っ向から対立はできないようだった。


「ん~。九重にしては、なんだか歯切れが悪い物言いするね?」

 櫻子の不振な様子に今度は凛が問いかける。


 さくら贔屓(びいき)の三年生メンバーの中で、凛はさくらよりも櫻子の方を買っていた。

 元より、特別ないきさつで知り合ったちひろや志保、クラブ活動で関係がある香澄や透子と違って、凛とさくらは直接的な接点がない。

 友達の友達といった関係で、顔見知りだし会話もするけど、友人関係かと問われると微妙な距離感を保っている。

 接点のなさは櫻子も同様なのだが、凛は櫻子に自分と同じなにかを感じていた。


「すみません。うまく説明しづらいんですが、う~ん……私の主観で言えば、今日のミキちゃんは、すっごく可愛いんですよ~」

「可愛い?」

 透子たちは櫻子の言わんとするところが理解できなかった。


 それも無理もないことだろう。

 なぜ『保護』という言葉を使っているのかわからないし、具合が悪くて保健室にいる理由が『可愛い』とくれば、理解しろというのが無理な注文だ。

 そのことについては、まださくらについてよく知らない聖真秀も同様であり、この中では櫻子と楓だけが『わかって』いることだった。


「それはもう。可愛いに付けていい形容詞か分かりませんが『凶悪』なまでに可愛いんですよ?」

 まぁ今回は比較的に凶悪さのレベルは低い方なんですけどね。と、謎な言葉を続けた。


 楓を除いたみんなが唖然と櫻子を見つめる。

 保健室に保護されている理由が可愛いという言葉からして理解の範疇を越えているのに、今度は『凶悪』ときた。

 やはり『天才となんとかは紙一重は事実だったのか?』と思い至っても不思議じゃない状況と化している。


「九重はさ。今日は電波の日なの?」

 凛の冷ややかな視線を受けて、櫻子は慌てて手を振った。


「違いますよ~。だから最初に言葉を濁したんじゃないですか~。例えばですよ、今日のミキちゃんがひとりで繁華街を歩いていたとすると、八割くらいの確率でトラブルに巻き込まれると思うんです。だから、そうならないために保護してもらってるんですよ~」

「…………」

 無言で注目される櫻子。

『困った』と『もどかしさ』と『自嘲』が綯い交ぜになった苦笑を浮かべて身じろぎする。


「だから、あとで実際にミキちゃんを見てみてください。そうすれば、私がなにを言っているのか理解できると思いますから~」

 珍しく戸惑う櫻子に皆が微笑む。

 いや、微笑むことで、いろんな疑問を誤魔化すしかなかった。

 話を聞くほど謎と疑問は深まるばかりで、もはや自身の目で確かめるしか解決の糸口が掴めないと感じていたからだ。

 そして、昼食が終わった後、それぞれが当初の目的とは違う理由で保健室に行く決意をしたのだった。






「熱はどうだ?」

 言葉とともに未央先生の手が額に当てられる。

 ひんやりと心地良くて目をつぶる。

 しばらく添えられていた手が離れると、額にかかっていた前髪を指先で整えてくれた。


「もう昼休みなんだが、食欲はまだないんだろう?」

 ベッドに横になったままで小さく頷く。

 全身が怠くて力が入らず、喋るのも億劫だ。

 それがわかっているのか、未央先生は俺が話さないことを気にかけた風もなく笑っている。


「そうか。なら、もう少し寝ていろ。どっちにしろ午後の体育は、その様子じゃ出席は無理だろうしな。私から連絡しておくから心配するな」

 最後に掛け布団の皺を伸ばして、カーテンをゆっくりと閉めてくれた。


 それにしても。と、ゼリーが詰まったかのような頭で考える。


 今月は軽くて助かった。


 前の時は本当にいろいろあって苦しかったからなぁ。


 痛くて、気持ち悪くて、貧血気味で。


 その上、精神的にもぐちゃぐちゃで。


 だから今回も、ある程度は覚悟してたんだけど。


 やっぱり、ストレスから解放されたからかなー。


 これなら、痛み止めに頼ることなく安静にしておけば平気だし。


 だから、保健室で休まなくても体育さえ見学すれば。


 普通に授業くらいは出席できると思うんだけどなー。


 コノエは、欠席した授業はノートを見せてもらえばいいと言うけど。


 しかし、こう毎月保健室で休むのもどうなんだろ?


 中学では毎回薙に連れてかれたし。


 高校でも、こうして保健室に連れてこられてる。


 そんなに具合悪そうに見えるのかな?


 確かに、ぼぉっとしてるけど。


 ……。


 ま、いっか。


 未央先生の言葉に甘えて、もう少し寝て……おこう、か……な。






「あぁ。その件なら、ほぼ事実です。競技は一新……とまで変わりませんけど、半分は新しい種目を取り入れますし、チームは縦割りにする予定です。賞品の方は、今スポンサーと交渉しているところです」

 噂について聞かれた櫻子が、あっさりと肯定してニッコリと微笑む。


 書記と会計のふたりは、すでにその内容を知っていたため、特に反応もなく食事を続けていた。

 もっとも傍目にも緊張していることがわかるほどなので、リアクションを取る余裕がないのかもしれない。


「チーム分けの縦割りって、学年混合のA組とかB組で分けちゃうってことかな?」

 志保の言葉に櫻子は頷いて肯定する。


 それを見て志保の顔が綻んだ。

 ちひろと顔を合わせてなにか小声で嬉しそうに話している。

 どうやら、さくらと同じチームになることを喜んでいるらしかった。


「……だとすると、五グループ対抗かぁ。戦力分析が大変だな」

「そうですね。簡単に予想が出来ないことも狙いです。でも、縦割りは学年を越えた深い交流が期待できるんですよ。学校全体で盛り上がるには縦の交流が不可欠ですから」

 凛が天井を見上げながら呟いた言葉を聞き逃さずに櫻子は答える。

 独り言のつもりだった凛は興味深げな視線を櫻子に投げかけた。


 その視線に微笑みを返し、櫻子は持参した総菜パンとヨーグルトドリンクを机に広げる。

 そして小さく「いただきます」と手を合わせて食べ始めた。


「確かに、紅白の二分割よりか面白そーだ。それより、賞品ってなんにするか、もう決まってんの?」

 凛は櫻子を面白そうに眺めて、今度はしっかりとした発音で質問する。


「多分、学食の食券になると思います。あまり予算は割けないんですけど。それでも、参加賞まで含めると、試算総額で七~八万はかかりそうなんですよね~」

 その金額に凛が口笛で答える。


「そんなに予算使って大丈夫なの?」

 少し心配そうなちひろの言葉に透子も頷く。


「だな。部費のことで前の生徒会と話し合った限りじゃ、全体的に見てもかなりカツカツな予算枠だったと思うけど」

 手に持った箸で指すように指摘する透子。

 しかし、それはすぐに行儀が悪いとちひろからたしなめられた。


「確かに余剰金はないですね。前期からの繰越金も二万ちょっとでしたし。だから、スポンサーを捜してるんです」

「そういや最初に言ってたね。スポンサーって具体的にはどうするのさ?」

 興味津々な凛。

 普段は傍観者に徹する彼女だが、予算などのお金が絡む話には積極的に乗ってくる。

 それ以外でも櫻子に対しては基本的によく話しかけているように見受けられた。


「例えばですね、学校で使うものの仕入れ先の業者に広告を出していただくとか、体育祭当日には父兄を対象にした屋台の飲食店を出そうと思ってるんです。その辺の利益とか広告収入を当面の財源に充てようかと」

「へぇ。なるほどね~。飲食店は面白そうだけど、学校の許可とか取れるん? 衛生面とか問題も多いっしょ?」

「根回しは終わってますから、その辺は問題ありません。屋台がグラウンドには出せないかもしれませんけど、その時は正門前に出店しようかと思ってます。それで、どれだけ予算が捻出できるかですね。今回の『収益を予算に回す案』は、今後イベントを行うにあたっての試金石でもあるんですよ。お金のことばかり考えるのもいけないと思うんですが、今回の賞品とか、やっぱり予算ありきでしか出来ないことがありますから」

「なんだか、いろいろとよく考えてるのね。すごいすごい」

 うんうんと感心する志保に生徒会メンバーの顔が綻ぶ。

 自分たちが出し合ったアイデアが認められ、生徒会の活動が評価されるのは素直に嬉しかったからだ。


「しかし、楓は笑うと天使みたいに可愛いね」

 香澄が隣に座っていた楓の髪をすくい上げてささやいた。


「!? いぇ、そんな……」

 俯いて顔を赤くする楓を楽しそうに眺める香澄。

 そこは、いつもであればさくらの定位置なのだが、今日は楓が座っている。

 曰く、料理研会長のお世話をするために会員が座るべきだ、と言うことらしい。


「ほら、そこ。百合百合しない!」

「そんなんじゃないってば。率直な感想だって。ほら、トーコもそう思うでしょ?」

 羞恥に俯く楓の顎を持ち上げて透子に見せる。


 危害や悪意こそないものの、好き勝手に振る舞う香澄に対して楓はほとんど無抵抗だった。

 これが、さくらであれば拒否の言葉でも発したかもしれない。

 しかし、反抗すればするほど香澄の行為はエスカレートしていく。

 クラブ活動でさくらが抵抗する度に散々イジられているのを見てきた楓は『我慢できるのなら抵抗しない』ことを学習していた。

 気の済むようにさせてやることが、香澄による人災を少なくする秘訣なのだ。


「なるほどね。確かに、この娘もさ~かなり可愛いと思わない? どうよ、九重的には高木瀬さんも『凶悪』に可愛いって言えるん?」

 照れまくっている楓を指す透子に、櫻子は苦笑いで頷いた。


「まだ引っ張るんですか……確かにカエちゃんは可愛いと思いますよ? でも、さすがに『凶悪』なんて形容詞は付けませんよ~。付けるには、それなりの理由があるんです。そしてそれは、やはり自分の目で確かめてみてください」

 櫻子の答えを聞いたみんなの眼が輝きを帯び、より一層興味がかき立てられたようだった。


(ごめんね~ミキちゃん。これも計画の内だから、ちょっとだけ我慢してね~)

 みんなの反応を見て、櫻子は苦笑いの表情を崩さずに心の中で呟く。


「それにしても……(ひじり)クンだっけ? 大人しいね」

 透子の言葉で次のターゲットに選ばれた真秀が静かに顔を上げた。


「今日が初めてなんだし、突然三年生の教室に連れて来られて、緊張してるんじゃないかしら?」

 ちひろが取りなすと、真秀が遠慮がちに小さく頷く。


「……ごあいさつが遅れました。はじめまして。一年D組の聖真秀です。生徒会では会計を担当してます」

 真秀は居住まいを正してお辞儀する。

 真秀の声や物腰には線の細さが感じられるものの、口調や姿勢はしっかりとしていた。


「マホちゃんと私は小学校からの幼なじみなんですよ~」

 続けて櫻子が説明する。


「その縁で生徒会も手伝って貰うようお願いしたんです。マホちゃんは物静かでマイペースなんだけど、すごく頭の回転が速いんですよ。だから会計を任せようって思ったんです」

「思い出した!」

 突然大きな声を出した凛が手のひらを叩く。


「どこかで見た名前だと思ったら、先日の試験の発表の時に九重と波綺に挟まれてたのがあんたじゃない?」

「挟まれてたって、九重さんが主席で、さくらちゃんが三位だから……学年次席ってこと、かな?」

 志保の問いに凛は無言で頷いた。


「おいおい、今期の生徒会に学年トップスリーが集合って、一体なんの冗談なんだよ」

 透子が呆れた声で大げさにため息をつく。


「それは偶然ですよ偶然。私とミキちゃんは立候補したんだし、マホちゃんは幼なじみですから、結果的にメンバーになっちゃったってだけです」

「偶然にしては出来すぎだろ。あれ? そういえば、高木瀬さんはどれくらいなの?」

「あ、あの……位です……」

 透子の問いかけに楓は恥じ入るように顔を赤くして答える。


「なに? よく聞こえないんだけど」

「もう、トーコはデリカシーないからなぁ。五十八位だって。平均よりかなり上じゃない。私も学年四十位前後だし、楓も恥ずかしがる必要ないって。むしろ満点近い方が異常なのよ」

 香澄のフォローはもっともだった。

 もともと斎凰院の偏差値が高いということもあるが、平均点を考えると満点近い成績は十分異常だと言える。

 それを証拠に櫻子と学年五位とでは、なんと六十点を超える得点差がついていた。


「それじゃ、私たちは一足先に保健室に行って来ますね」

 食事を終えたちひろと志保が立ち上がる。


「待って待って。あたしも行く」

 お弁当を手早くかたづけて凛も席を立つ。


「汚っ! やけに会話に加わらないと思ってたら抜け駆け目的だったのか!?」

「ちひろはいつも抜け駆けばっかでズルイぞ!」

「そうかしら? トーコや香澄の気のせいだと思うのだけど」

 ちひろは友人からの非難の言葉を涼しい顔で受け流す。

 実際、会話しながらの透子と香澄のお弁当は、まだ半分ほど残っていた。


「もう。透子ちゃんも香澄ちゃんも落ち着いて。保健室は逃げないんだから」

 志保がいそいそと、ちひろの背中を押しながら去っていく。

 かく言う志保も抜け駆けしているのだが、ちひろのように非難されることはない。

 それは今回だけに限ったことではなく、仲間内では『ほわわんな志保に出し抜かれる方が悪い』という暗黙の共通認識が出来上がっているからだった。


「と、言いつつ急いでるように見えるのは気のせいかね!? 志保クン?」

「みんなはゆっくり来るといい。その間に済ませておくから」

 続いて凛が手を振って教室を出ていく。


「なにを済ませる気だ~~!!」

 三人は透子の絶叫を背中に保健室へ向かうのだった。






「…………」

「……これは……」

「さくら……ちゃん?」

 ちひろたちは、さくらを前にして呆然としていた。


 それ以上言葉が紡げずに、ベッドに腰掛けている女子生徒を見つめる。


 確かに、その女子生徒は波綺さくらだ。


 だが、あまりにも印象が違う。

 これが、街中で私服姿のところを見かけたのならば、よく似た他人だと思いそうなほどだ。


 普段の鋭さが跡形もなく残っていない瞳は眠たげにとろんと潤み、上気する頬はほんのり桜色に染まっている。

 いつもは無視できないほどの存在感を発しているのに、今はそれがまったく感じられない。

 なのに希薄すぎるとさえ思える気配は、儚さゆえに視線が吸い寄せられる。


「波綺なら大丈夫だ。今、起きたばかりだから少し寝ぼけてるんだろう」

 未央が並んでベッドに腰掛け、さくらの額に手を添えて自分の熱と比べる。

 それが平温に近かったのか、笑ってゆっくりと頷いた。

 気持ちよさそうに目を閉じていたさくらは、額から手が離れると名残惜しそうに目を開ける。

 そんなわずかな動作と表情の変化だけで、その感情がありありと伝わってくる。


 いや、わずかな変化すら見逃さないほどに目を奪われているのだ。


(これは……まったくの別人じゃないか。しかも、不思議と目が離せないし、なかなかに興味深いね)

 凛は集中しそうになる自分を無理矢理一歩引いてひとりごちた。

 それは、いつもであれば無意識に行う、客観的な傍観者を旨とする彼女のクセのようなものだが、この時ばかりは意識的に行わなければならなかった。


「うん。熱も出てないし、もうしばらく休めば大丈夫だろう」

「大丈夫って……ホントにさくらちゃん、大丈夫なんですか?」

 動揺を隠せない志保の問いかけに未央は微笑む。


「それは私が保証する」

「その……明らかに普通じゃないと……思うんですが……」

 心配そうなちひろの言葉に、さくらは『大丈夫』とばかりに笑って見せる。

 それは、花が咲いたような、周囲まで明るくする笑顔だった。


「……さくらちゃんっ可愛い!!」

 感極まった志保が座っているさくらを胸に抱きしめた。

 いつものさくらであれば照れて抵抗するところなのだが、今は身を任せるように体重を預けてくる。

 それを感じた志保が上から覗き込むと、上目遣いのさくらが視線を合わせて幸せそうに笑った。


「あ~もう、可愛いなぁ~」

 もう一度抱きしめて頭を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じる。


「気持ちはわかるが、波綺は体調が優れないんだから、ほどほどにな」

 未央の言葉に志保が名残惜しそうにさくらを解放した。


「ごめんねさくらちゃん。大丈夫?」

 謝る志保に、さくらはやわらかく微笑んで頷いた。


「なんと言うか……確かに九重が『凶悪』な可愛さと評したのが頷けるね」

 しみじみと呟く凛の言葉は、ちひろや志保も同様に感じていた。


 さくらは、三人が来てからまったく喋っていない。しかし、意志の疎通はしっかりとできていた。

 例えるなら、無垢な赤ちゃんや子猫とのコミュニケーションに近く、与える影響も同様のものがある。

 それは、女性であれば母性本能を、男性であっても保護欲をかき立ててしまう類のものだった。


「波綺の保護者的立場のおまえたちだから言うが……」

 あまりの変化に戸惑いを隠せない三人を見かねた未央が声をかける。


 話ながらさくらの隣に移動してコーヒーカップを手渡す。

 さくらは両手でカップを受け取ると、顔を埋めるようにしてちびちびと飲み出した。

 未央はさくらの肩に手を置くと、視線を三人に戻して話を続ける。


「その前に説明しておこうか。今の別人のような状態になるのは一時的なもので、半日から丸一日で戻る。これは生理になって二日目あたりに起こる変化で、中学の頃から続いているそうだ。前に本人に聞いた話では、頭が回らない状態らしい。貧血が原因かは不明だが、とにかくうまく考えられないと言っていた。……そして、ここが重要な点なんだが、この時は身体能力が著しく落ちているということだ。今なら小椋や飯盛のような波綺より小柄な女の子でも簡単に組み伏せることができるだろう」

 未央が視線をさくらに向けるが、すぐそばで自分のことを話されているんだと理解してないかのように無関心だった。


「あの……さくらさん、聞こえていないんですか? 今の話……」

 そんなさくらの行動を見て、訝しく思ったちひろが未央に尋ねる。

 さくらは自分の名前に反応してちひろを見上げた。

 しかしちひろの注意が未央に向いていたため、またカップに顔を埋めてコーヒーをちびちびと飲み出す。


「ん? そうだな……これは仮説なんだが、ちゃんと聞こえてはいるんだろう。だから理解もしているのかもしれない。だが、それが外的な反応として表現されないんだと思う。つまり、なにを話しているのかは分かるが、それをお前たちがどう受け止めるのかとか、なぜ私がそんな話しているのかまでは考えられないんだろう。聞いて理解するが、それで終わり。複雑なことはリアクションまで繋がらない。と、いうことじゃないかと思っているんだが……正確なところは、あとで本人に確認してみないとな」

「でも、さっきは『大丈夫?』って聞いたら笑ってくれましたよ? あれって理解してリアクションを取っているってことじゃないんですか?」

 志保が先程の様子を思い返して質問する。


「簡単なコミュニケーションなら問題ないみたいなんだ。はい、いいえで済むようなものはな。……少し話が脱線してしまったが、結論は『今の波綺は身体能力と判断能力が著しく低い』ということだ。あまりにも無防備すぎる。悪意を持って近づけば、どうとでも出来てしまうほどに」

「あぁ、だから……か」

「なにかわかったの?」

 凛が思わず呟いた言葉にちひろが問い返し、自然とみんなの視線が集まった。

 それに気付いた凛は『あ、声に出てた?』と苦笑いして、ひとつ咳払いして説明を始める。


「九重が言ってたじゃない?『トラブルに巻き込まれるから保護してもらってる』って。さっきは意味わかんなかったけど、なるほどね。今の波綺は私でもほっとけないって感じするし、香澄あたりなら迷わず『お持ち帰り』しそうじゃない? まぁ香澄が実際それをやったら、透子やちひろが腕ずくで止めるんだろうけど。……例えば、私たちの目が届かないところで、素性がわからない男が連れて行ったとしたら?」

 志保の顔色がにわかに青ざめ、ちひろは真剣な表情で凛を見つめる。


 未央はというと、自分の話は終わったとばかりに、さくらをベッドに寝かせて世話をしていた。

 今は危険性を認識してもらえればいい。

 前回は少し目を離しただけで大きなトラブルに巻き込まれたのだ。

 その教訓は、もちろん今後に生かしていくが、保険は多い方がいい。

 信頼できる人物の協力を仰ぐ。だが、むやみに広めるわけにもいかない。

 そう九重と話し合った結果、まずはちひろたちに白羽の矢を立てたのだった。


「でも、毎月丸一日もこんなんで、よく今まで無事でしたね? 子どものころとか致命的だと思うんですけど」

 凛が尋ねる。

 誘拐を考慮すると、高校生の今よりも小さいころの方が危険性は高いと考えたからだろう。


「どうやら生理が引き金のようだからな。小さいときは症状そのものが起こらず問題なかったんだろう。中学では友人が毎回隔離してたらしい。波綺は不服そうだったがな。今なら私にも、その友人の心労がわかる気がする。なんと言っても本人に自覚がないことが一番恐ろしいな」

「毎月こうなるんですか? これから……どうするんです?」

 ちひろの質問は未央も考えていることだった。


「私はまだ二回しか見ていないが……程度に波があるな。今月は先月よりも明らかに症状が軽いからな。その辺に解決の糸口があるんじゃないかと思っている。在学中は平日なら私がここで預かることが多くなるだろう。だから、お前たちにも出来る範囲で協力をお願いしたい。それもあって、こうして説明している。というわけだ。休日の時は……ご家族に任せるしかあるまい。高校に入学するまでは下宿生活だったから、この状態をご存じなのかどうか、今度折を見て私から話しをしようと思ってる。これが、卒業までに直せるものなのか、無理ならば、なにかしらの対策を講じるのか。まぁ、しばらくは様子を見ながら考えていくさ」

 原因が分からない以上、今すぐに解決できる問題ではない。

 未央の考えは最善ではないが妥当なところだった。


 さくらは話の内容を気にした様子もなく、掛け布団で顔を半分隠して覗くように見上げている。

 視線に気付いた志保が手を振ると、ちょっとだけ手を出して振り替えすとクスクスと笑った。


 その姿は普段を知っているものには、幼児退行でもしたかのように見える。

 しかし普段が実年齢よりも大人びているだけで、無邪気で屈託なく甘えてくることを除けば、今の様子も年相応の立ち居振る舞いの範疇から外れてはいない。


「失礼しまーす」

「波綺クン、生きてる~?」

 ノックももどかしく保健室のドアが開き、ざわざわとした喧噪とともに香澄たちが入ってくる。

 その中には生徒会メンバーも含まれており、九重の姿を確認した未央は、あとの説明役は任せたとばかりに机の前に座って書きものを始めた。


 凛の予想通り、一目見るなりさくらを連れ帰ろうとする香澄を、ちひろと志保がふたりがかりで制止する。

 そんな騒がしいやりとりの中、今度は櫻子が香澄たちに説明を始めた。


 それを背中で聞きながら、未央は波綺さくらによって次々と訪れる問題を楽しんでいる自分に気づいて、自嘲の笑みをかみ殺していた

作者の自身による自分のためのエピソード(確信)

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