鷹は低く飛び、高く舞う
前回からの続きです。
大説教大会ですが、そこはこのメンバー……。
お説教をする方もされる方も見守る方も大概です。
お前には世間体という概念がないのか。自分の置かれた立場と身分を考えろ。ゴドランはそうエリオスに詰め寄って、こんこんと説教した。
「身分と言われても……今の俺は何者でもない。一人の只人であるだけだから虚栄で己を飾る意味もない」
籐椅子の端に座ったエリオスは言い訳がましくわかったようなことをほざいた。
仁王立ちになって腕組みをし、憤懣やる方なしという形相でエリオスを見下ろしていたゴドランは、戯言を鼻で笑った。
「だからお前はアホなのだ。このバカ者め。誰がお前の体面の話をしているか」
「俺でなければ誰の話だ」
「奥方に決まっておろうが。少しは頭を使え。彼女はアストリアス領主でオルウェイの主だぞ」
領主というのは、公人として生きることを求められる身分だ。隙を見せれば敵に付け入られる。特に新興で豊かで勢いのあるオルウェイは妬まれ狙われる立場にある。しかも彼女は女で、今の地位にある公式の根拠の一つが夫であるお前がオルウェイの太守だったという事なのだから、そのお前が格を落とすような真似をすれば、軽んじられ嘲りの贄となるのは彼女とアストリアス全域、ひいてはアトーラだ。
ビシバシと畳み掛けるゴドランにエリオスは鼻白んだ。
「愚か者の身内は敵よりもたちが悪い」
身内に裏切られた男の言葉は説得力があった。
「威張れとは言わん。貴様が現状、無益な役立たずの無駄飯食らいなのはそのとおりだ」
「おい」
「だが、己の立場というものをわきまえて行動することには、揚げ足取りをしたい連中に付け入られないように振る舞うことも含まれると知れ」
己の格を己で定めよ。
ここはオルウェイだ。
この街で青い鷹エリオスの名は伝説だ。その伝説の英雄の虚像どおりに振る舞えとは言わんが、この人が十年かけて築き上げた偉大な英雄の名声を三日で地に落として泥に塗れさせるような真似はするな。
「醜態をさらして国益を損なわせ、多大な迷惑をかける気なら、今ここで俺が切って捨てる」
「待て、そんなつもりはない。殺気立つな。あちらの軒にいた鳶が飛んで逃げたぞ」
「貴様はこの程度でピーヒョロ怯む鳶か、それとも図体がでかいばかりの鈍いアホウドリか」
「俺は……」
「この人は鷹よ」
アストリアス領主は悠然と微笑んで楽しげに断言した。
「低く飛ぶのは狙う獲物があるからなの。そうでしょ、私の英雄さん」
これは参った。
ゴドランは目の前のたおやかな女性をあらためて見直した。
なんてこった。夫の格を立てながら、客の度を越した非難は見当違いだと釘を刺しにきた。しかも、助け舟を出す体でありながら、エリオスの退路はきっちり絶っている。
場の落としどころの提示が見事で、抗えば野暮になる。なるほどこれは、かの大ユスティリアヌスが掌中の珠としたのも、もっともだとゴドランは心中で唸った。
と同時に、いささかエリオスがかわいそうになった。夫人の腰に回されていたはずのエリオスの手はいつの間にかほどかれて、彼女にそっと握られている。励ますように……という握り方だが、あれでは男は己のプライドにかけて手汗一つかけない。
ゴドランは男同士の友情……ほぼ腐れ縁、に免じて少しだけエリオスに助け舟を出してやることにした。
恩を売ってやろう。感謝しろ。
エリオスが渋々、浅く頷いたのを確認して、ゴドランは「なるほど、なるほど」と大きく頷きながら顎をさすった。
「確かに鷹殿は遠征中に船に乗る機会はそれほどなかったし、軍艦や港というものを把握しておくというのはこの先大事なことではあるな」
それに、末端の一員に混じって働き、その仕事がいかなるものか知っておくのも、上で指揮するものとして有用な手法の一つだ。効果的な命令が何か知ることにつながるし、やり方を間違えなければ、総大将が自分達と共にあって同じように汗を流してくれたという経験は、士気をあげる効果をもたらす。
「人気取りのつもりはない」
「だろうな。お前はそういう奴だ」
「俺はただオルウェイを知りたいと思っただけだ。この街がいかなる街なのかを」
「この人、港だけじゃなくて、ここ数日、オルウェイの外縁をぐるりと見て回っているのよ。朝市や集荷場……昨日は河舟の船着場と貯木場だったかしら」
「市内はあまりうろつかないでくれと市長に言われたから」
「あら、オラクルったら」
くすくすと笑う彼女はきっと、苦虫を噛み潰したような顔をしている市長とやらを思い浮かべているのだろう。「街なかをうろつくな」という注意勧告は、城壁外ならいいよ、という意味ではない。
それをどこまで理解しているかわからぬ英雄殿は、夫人に握られた手を見つめながらとつとつと語った。
「この街が何を必要とし、何を作り、何をもたらすのか。それを俺は知らねばならぬと思った」
こういう発想が自然に出てくるのがこの男がこの男たるところだなとゴドランは思った。
夫人はエリオスを眩しそうに見上げ、そっと寄り添ってその肩に頭をもたせかけた。彼女にしてみれば、これまでオルウェイを顧みることがなかったエリオスが、己が育てたこの街に強く興味を示してくれるのは、嬉しいことなのだろう。
「それで、何がわかった」
「うむ。正直言ってまだわからぬ。ただ……多すぎる、というのはわかった。人も物も。種類も量も。ここは俺が二日や三日で知ることができる街ではない」
「ふむ。それはそうだろう」
ゴドランは、どっかと座り直して卓上の杯に残っていた果実水を飲んだ。これは少し落ち着いて説明してやる必要がある。
「確かに目の付け所はいいが、方法がいかん。お前がやっていることは城塞戦の前の斥候だ」
「オルウェイを攻める気はない」
「お前のやり方は視野が狭いと言っているのだ。それで足りるのは一軍の将までだぞ」
「教えてくれ。何が違う」
ゴドランは、鷹の青い目を正面から見返して、杯を卓に置いた。
「エリオス。お前は地頭が良い。小器用で力もある。これまで軍で教わったことは、剣でも槍でも騎馬戦闘でも、何でもすぐに人並み以上にできるようになってきただろう」
「人より優れているとは思っていない。俺は物知らずだ」
「天文の計算も攻城兵器の測量も、普通はお前のような勢いでは身につかん。お前は知る力が抜群に良い」
飲み込みが早いので、少し教えれば勝手に応用して先のことまでできてしまうのが、エリオスという男だ。
「だからお前は軍で兵士がやることは、歩兵、騎兵、工兵、伝令、遊撃隊、部隊長そして総司令まで一通り全部自分で経験して把握していた。そうだな」
「ああ」
何も知らぬ流民の孤児だったエリオスは、アトーラで軍に入ってから色々な部隊で経験を積み、様々な物事を身につけてきた。
「すべて把握して最善手を打つ。お前の動き方はそうだ。戦場でお前はすべての兵の動きを、まるで天から見ているように掌握して戦う」
「……そうせよと教わった」
「将ならそうだろう。だがな、それと同じことを国でやるなら方法を変える必要があるぞ」
すべてを把握するには人の営みは多岐にわたりすぎている。
「この卓を見ろ。お前はここにあるものが何で、どのように作られ、どのような人手を経てこの形でここに供されたかどれくらいわかる」
エリオスは美しい器に盛られた料理や果物を見た。
お手上げだった。
料理はそもそも原材料が何かわからない。果物の大半は木に実るのか地面に生えるのかすらわからない。飾り切りされた果物は元の形すら自信がない。器ときたら金属器以外は、なんか土を焼き固めるんだよな? 程度の知識しかない。ガラスの正体は西海の果ての怪異よりも謎だ。
「農園と工房なら今度、案内するわよ」
彼女のこの楽しそうな含み笑いは、そこに行くと解説が山ほどあるし、山盛り紹介されても全体のほんの概要しかわからない類の専門技術の沼がその先に広がっていることを示している。彼女は専門職に人生を捧げた者達の知識と技術を偏愛している。
「ゴドラン。お前が正しい。俺はすべてをこの身で知ることはできない」
「そうだ。小さな村落の長ならば、村民全員の生活を知ることができるだろう。だがオルウェイの規模の街ではそれは極めて困難でアストリアス全域となると不可能だ」
「そうね。管理する側となると、どうしても人数や資産や取引高っていう数字で見てしまうより他なくなる面はあるわね。オルウェイ市域の市民権のあるものならともかく、市外の流入民や遠方の領地ともなると職業と家族構成どころか人数の把握も曖昧になるし、交易品の取引量もそこまで厳しく精度を上げようとすると逆に抜け荷が横行するし」
アストリアス領主の呟きに、ゴドランとエリオスはギョッとした。
「オルウェイ全域の市民の人数と資産と家族構成を把握しているのか?」
「いやあね。私が個人で記憶しているわけではないわよ。役所に行けば戸籍は作らせてあるというだけ。ああ、オラクルなら総人口と各地区の資産の中央値ぐらいは頭に入ってそうね。彼、データ管理関係の記憶力がちょっと非常識だから」
わからない単語をいくつか補足説明してもらって男達は呻いた。
オルウェイで行われている行政業務の記録の収集と管理にかけている情熱は狂気の沙汰だ。そのために"統計"という算術体系が作られているとか、税制関係の職員はもっと高度な算術を駆使しているとか、想像を絶する話が次々に出てくるのが怖い。
ゴドランは行政府の面々が門外漢の彼に業務を説明するときは、かなりかいつまんで平易な表現にして説明してくれたのであろうことに気づいて呆然とした。
オルウェイで行われていることはゴドランが知る国際的常識からかけ離れている。
膨大な記録を管理するために記録媒体に適した材料を選別し、製紙業を興したのだと屈託なく教えられて、二人とも気が遠くなりかけた。遠征中に伝達用の紙の質が劇的に向上し続け、オルウェイ産の紙が名高くなっていたのは知っていたが、まさか行政のために育成された産業だとは思っていなかった。
「あら、良い紙はどこでもなんにでも便利に使えるわよ」
笑ってそういう夫人の後ろの建物の窓には紙が貼ってある。
「学究院で書き物をする紙が安価なのは学ぶ者にとってはいいことだし」
オルウェイでは行政官など知的専門職を目指す十代の優秀な若者達は、政府の支援を受けて学究院で教育を受けられるそうだ。
試しに通ってみるかと問われてエリオスは返事に窮した。
「あなたなら確率と統計の基礎ぐらいはすぐに理解できるわよ。十代前半の子達でも習得してるから」
自分が子供達の間に座って、高等数学を学ばされるところを想像して、実はかなりプライドの高い男二人は、ちょっとどころではなく嫌だなと思った。
「まあ、待て。今、コヤツに個別に諸々を教えたところで問題は解決せん」
そのうち取り組む必要はあるだろうが、末節から入るアプローチでは、専門職の部下か、その劣化版にしかならない。
「貴女に必要なのは部下ではあるまい」
優秀な部下は沢山いるし、この先も増える見通しがある。だが、同等以上の視座を持つパートナーが彼女にはいない。それは今後発展していくアストリアスにとっては致命的だ。
そして、彼女という存在の特異性を考えた場合、生半可な者では務まらぬだろう。
「その阿呆は十分に資質も資格も持ち合わせているが、貴女が指導しては貴女と同質の物の見方をする劣化版にしかならん。小さくまとまったコヤツなど使い道がない」
「私に対等に別の視点から助言ができるような、統治者としての発想を学んでもらわないといけないということね」
「そうだ。アストリアスは拡大を続ける。対等かつ異なる視座の他者との検証と対話なく、ただ一人が統治のすべてを担えば、発展は早いが滅亡するときもまっすぐに崖に突き進み落ちる。貴女には指導者でも追従者でもない同格の他者が必要だ」
もうゴドランでいいではないか。
その言葉をエリオスは飲み込んだ。それがどれほど合理的に見えても、それを口に出してしまうと、この先が致命的に間違ってしまうことをその場の全員が察していた。だからこそゴドランは特別顧問などという"役職"に就いているのだし、こうしてエリオスに助言をしてくれている。その意味と必然性を違える者はここにはいなかった。
そして同時に、この問題を解決する方策を、この場の三人全員が思いついていた。こちらもまた別の意味で、口に出してしまうのがためらわれる方策だった。だがそれは実行するべき最適解だ。
ここにいるのは、"気が進まない"という理由で必要な行動から逃げてはならないという厄介な戒めを己に課している者ばかりだった。
恐ろしく察しのいいこの三人は、一拍の沈黙の間に、互いの心中をほぼ完全に理解した上で、誰がそれを発言するか視線を交わした。
エリオスは妻の手を強く握った。
「俺はアトーラに行かねばならん」
彼の妻は握られていない方の手を夫の堅い手に重ねた。
「そうね。どのみちお父様には連絡する必要があるし……これ以上、先延ばしにしても良いことはないわ」
「迂闊に行くと行ったきりになりそうだが」
「時期と状況は見定める必要があるぞ」
「状況はつくりましょう」
方針さえ決まれば、方策の立案をガンガン進める習性が染み付いた三人は、完全に作戦会議の目つきになって身を乗り出した。
「エリオス、貴様、飯はまだだったな。今、ここにあるものでいいから食っておけ」
「これはお前用ではないのか」
「言ってる場合か。食えるときに食っておかんと食いっぱぐれるぞ」
「そんなペースで進める気か?」
「それがオルウェイ流らしいぞ」
「誰よ、貴方にそんなことを教えたのは」
まるでずっとそうしてきたかのように、三人は軽口を叩きながら、高度に政治的な会談を始めた。
§§§
後日、オルウェイからエリオス帰還の第一報が、非公式な内々の書簡としてユスティリアヌスの下に届いた。
「奴が帰ってきただと? また新手の偽物か。そろそろそんな詐欺は通用しないと諦めれば良いものを。愚か者はものを学ばぬがゆえに愚かだと言うが、面倒な話だ」
「いえ、それがこの度はお嬢様が本人だとお認めになったようで」
「なぁにぃぃ〜〜!?」
温暖なアトーラで、それでも季節は巡ろうとしていた。
安心してください。
エリオスはもうしばらくオルウェイにいます。
(まだ書きたいエピソードがあるんや)




