纏うもの、惑うもの
アトーラの服飾文化の話……ではなく、前回の続きです。
アトーラは温暖である。
冬でも氷点下になることは珍しく、夏はからりと晴れた日が多い。とはいえ年を通じて降水はそこそこあり、都市のある沿岸部は総じて暮らしやすい気候だ。このため、この地域に住む者は、衣服を重ね着して厳寒や苛烈な日照から身を守る必要がない。
周辺国と比べ文化程度の低い地域であったこともあり、元々のアトーラの服飾は簡素なものだった。生地は主に生成りの亜麻布。金属加工技術に比べて縫製技術は発達しておらず、基本は1枚布をピンや飾り紐で留めて、ゆったりとまとう。元老院議員のように役職持ちは公式の場では貫禄のある上衣を着るが、市井には単純な貫頭衣のようなものしか着ていない者も多い。
これに対して、ゴドランの故郷は乾燥した高地だった。シャージャバルの人々は衣服で朝晩の冷え込みや強い日差しから身を守る。だから、ゴドランから見るとアトーラ人は薄着すぎるし、肌をさらすことに抵抗がなさすぎるように思えた。
特に、成人した男が脛や腿をむき出しにして平気でいるというアトーラ人の感覚は、ゴドランには理解しがたかった。シャージャバルの男が乗る竜馬には堅い鱗があるために、彼の故郷では筒状に脚全体を被うズボンと革のブーツを履く習慣があるからだ。
オルウェイで着替えにと、下穿きの脚通しなしで膝丈の薄いチュニックを渡された時は、当惑を通り越して絶望したくらいである。
ゴドランはアトーラの遠征軍に長く所属していたが、そのあたりの感覚は変わらなかった。遠征中、ゴドランの一角隊は服装も装備もまちまちで、各自の好きにできていたからだ。
アトーラ人は異文化に寛容で、便利なものは積極的に取り込む。騎馬隊の者は皆、脚を覆ったし、北上して防寒着が必要になれば筒袖の上着も着た。
その無頓着さはゴドランにはありがたかったので見習った。彼はアトーラ人に内心では呆れても、たいていの場合は慎ましく黙っていた。
例えば、ルーカスを筆頭にアトーラ正規兵の奴らは、何かというとすぐに脱ぐ。特に酒が入ると脱いで騒ぐ。まったく理解できない蛮行だが、それでもゴドランは静観した。自分の流儀が尊重されているなら、相手の悪癖にも目を瞑るべきだろう。
幸い、ごく初期に数人を叩きのめすだけで、そのノリをゴドランに強要する愚か者はいなくなり、以後、遠征軍で彼はその手のバカ騒ぎには巻き込まれなくなった。
その後、ゴドランは成り行きでエリオスと二人で長く旅をすることになったが、この時も彼は自分のポリシーを曲げる必要はなかった。エリオスにアトーラ的露出癖はなかったからだ。彼は西方からの流民出身で、他のアトーラ人よりもやや色白だったから、肌を晒して目立つのを嫌ったのかもしれない。
ただ困ったことに、どういうわけか彼はよく着衣を損傷した。彼自身も不本意だったらしいが、まるで服が脱げる呪いにでもかかっているかのような頻度だった。ゴドランもこれには閉口した。いずれも不可抗力で、本人の意思とは無関係だから責めるに責められないが、フォローせざるを得ない立場にいる者としてはたまったものではない。路銀も補給もない旅では衣類は貴重なのだ。貧乏旅の途中で、ゴドランは繕いものの経験がないエリオスに運針まで教える羽目になった。
ゴドランの厳しい監督と指導の甲斐あって、オルウェイに帰還する頃にはエリオスはかなり身なりに気を使うようになっていた。
§§§
そういうわけで、ゴドランはアトーラ所属歴十年でも服飾感覚はシャージャバルなまま、オルウェイに帰還していた。
オルウェイで生活し始めた彼は、アトーラ人の裸身へのおおらかさにたびたび困惑することになった。南の王国の扇情的な服飾事情よりはマシとはいえ、身分の高い女性でも腰ひも部分以外、脇が全部開いた格好を平気でしていることがあるのは、目の保養と言っていいのか、目の毒と言うべきか迷う。
それでも、ゴドランは非礼にならぬよう、余計なことは言わずに過ごしていた。が、今回のこれはさすがに批難がましい言葉が口をついて出た。
「エリオス、お前、なんて格好をしているんだ」
栄えあるアトーラ遠征軍の軍団長を長年務めた英雄エリオスは、ほぼ裸だった。一応、下は申し訳程度に履いているが、それだけだ。これは酷い。
戻ってきてからこっち、いいものをしっかり食べて、贅沢な風呂でゴシゴシ磨かれているためであろう、やたらに肌艶がいい。よく晴れ渡った空の下、その白い肌はやや上気していて無駄にツヤツヤしていた。
元々、この男は均整のとれた体型で見事な筋肉がついている。そして、ずっと戦乱に身を置いていたくせに、その身体に、均整を損なうような大きな傷はない。おおよそ戦いで人には負けぬし、怪異相手で深手を負ったときには、人知を超えた精霊だの魔女だのが現れて超常の薬や呪いで傷を癒してくることが常だった。常識人のゴドランにとっては、ふざけんな、これだから英雄というやつは! と叫びたい状況が幾度もあった結果が、この男の健康極まりない呆れた現状である。
だから、見て醜いかというと、そんなことはなく、むしろ南の王国なら観賞用に香油でも塗られそうな身体だったのだが、ゴドランからの印象はただ一言、"みっともない"だった。
いい歳をした身分のある男がそんな格好で来客の場に出るなよ。
思ったことがストレートに顔に出たらしい。エリオスはゴドランを見てやや動揺しながらも、「なんでここにいるんだ?」などと寝ぼけたことを言ってきた。どうやら来客中という認識はなかったから油断していたとでも主張したいらしい。
バカ者が。
十年近く一緒にいて、エリオスがどんな男かはおおむね理解しているつもりだったが、これは評価を下方修正すべきか、と眉根が寄った。
ゴドランの機嫌が急降下したのを察したのだろう。焦ったエリオスが余計なことを言う前に、夫人が柔らかくフォローを入れた。
「お仕事のことで来てくださったのよ。ほら、私、しばらくお休みさせてもらっているでしょう」
「そうか」
「浴場で汗を流していらっしゃいな。その間にあなたの分の食事を用意させるわ」
「いや、俺はここにあるもので十分だ」
「これはこの方の分よ。それにまだお仕事の話があるの」
ピシャリと言われて凹まされるエリオスをゴドランは久しぶりに見た。
こういう顔が良くて腕が立つ男はどこでも優遇されてあまりこういう目にはあわない。まれに冷遇されても基本的に他人の言葉は気にしない奴なのだが、奥方相手だと違うらしい。
にっこり微笑んだ彼女の圧にたじろぐエリオスを見て、ゴドランは諸々察した。彼としては大いに愉快だが、このまま静観するかどうかは迷うところだ。
さて、どう出る気かとチラリと顔を見てやると、エリオスはそこでゴドランへの妙な対抗意識を発揮した。
「では、話が終わるまで待とう」
そうじゃないだろう。バカ者。
ゴドランは「困った男は放置して我々の話の続きをしましょうか」の意図を込めた苦笑を奥方に送ってみた。しかし相手の表情から気遣いと憂いの微かな陰りがなくならないのを見て、方針を変更した。
バカの教育は早いうちが良い。
「そんなところに、ぼーっと突っ立っていられると気が散る。お前は行政の話ではまったく役に立たんからいらん。さっさと風呂でも井戸端でもどこにでも行って頭から水かぶって着替えて出直してこい」
「……水なら造船所の水場で浴びてきた」
思わぬ返答にゴドランは怪訝な顔をした。
「どこだって?」
§§§
聞けばこの男、朝っぱらから港に行き、石工や船大工に混ざって港の造成工事の現場や造船所に行って働いて来たのだという。
「何をやっとるのだお前は」
「海のオルウェイを知りたいと思って」
「だからといって、そんな……ああ! それは人足用の下穿きか」
言われてみればエリオスの格好は、潜水仕事のある水主や工事人足のそれだった。安いが丈夫な布を腰から股にぐるりと巻きつけて下穿きの体裁にしているだけのボッカという代物である。南の王国のガレー船の奴隷の腰巻きよりはマシというレベルで、アトーラではほぼ最下級の労働着だと言えた。本人の見栄えがやたらにいいから神話の登場人物のように見えていて気づかなかったが、エリオスのような身分の者がする装いではない。
「なんだってそんな姿で……」
「ズルズルしたものを着ていると、現場では危険だと言われたのだ。お客様気分で見学など迷惑だというから、一緒に働いてきた」
「お前なぁ」
「なかなか面白いぞ。船というのはあのようにして造るのだな」
「また擦り傷を増やして」と、手を伸ばした夫人に、椅子の背もたれ越しに身をかがめたエリオスはどこかくすぐったそうに「ごめん」と、はにかんだ。
「今日は重いものを担ぐときは肩当てを借りたんだが」
「また後で軟膏を塗ってあげるわ」
「あなたが撫でてくれるだけで治る」
この男の一体どこからこんな甘ったるい声が出てきているのかと、ゴドランが目を剥いている前で、エリオスはするりと夫人の隣に座り、肩をさすってもらいながら満足そうに目を閉じた。
なんだこれは!
ゴドランはやり場のない怒りと当惑に声を失った。
「バカなことを言っていないで、しゃんとしてくださいな。お客様の前ですよ」
「ゴドランなら気にしなくていい」
いいわけあるか!!
エリオスが夫人の腰に手を回し、「この首飾りは邪魔だな」とほざきながら彼女のうなじに顔を寄せたところで、ゴドランの堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にしろ!」
よく晴れ渡った青空にドスの効いた罵声が轟いた。
誰ですかエリオスと奥様のイチャイチャシーンが見たいと言った方は……大惨事ですよ(笑)
ゴドラン怒りのお説教大会(?)に続きます。




