鷹は眠らない
ep.51 鷹は舞い降りた……その夜の話です。
エリオスは自分の家を持ったことがない。
幼い頃は、流れ者として土地から土地を旅していた。アトーラで軍属になってからは営舎暮らしで、遠征中は天幕や宿営地がもっぱら。征服地や交渉先で豪華な部屋に泊まることはあったし、越冬で長期滞在した所もあったが、どれも自分の家とは言い難い。
オルウェイに帰ってきてからも、領主館は立派すぎて、どこからどこまでが何の敷地か見当がつかず、どうにもまだ自分の家という実感はなかった。
「(そうだな。これぐらいの大きさが俺にはちょうど良いようだ)」
エリオスは板張りの天井を見上げながらぼんやりと考えた。
今いる部屋はこじんまりとしていて、彼なら5歩で横切れそうだった。壁は木や土のようなもので、アトーラ風とはまったく違う。床も毛織の敷物の下は、土間でも石でもなく板張りである。
だが、遠征軍が持ち歩いていた仮設営舎の木材と違って、ここの木はよく磨かれて黒光りしており、落ち着いた風合いだった。柱や梁はそれぞれ木の種類も太さも形もまちまちだったが、寄せ集めだからではなく、選んでそうしたのだろうなと思わせる調和があった。
エリオスは月明かりがさす丸窓に目をやった。
小枝を組んだ格子のある丸窓に貼られているのは、オルウェイ産の紙だろうか。きめが細かく独特の風合いがあるその白い面からは、柔らかい光だけが射し込んでいる。小枝の格子は不規則に規則正しく影を作っていて、丁寧な配慮を感じさせた。
「(昔の俺なら粗末な小屋呼ばわりしていたろうな)」
でかくて重々しくてピカピカで揃っていると凄いと思う単純な自分に、こういう枯れた繊細な美への感性はなかった。だが、今はこういうものも良いと思える。
「(まるで精霊の棲む木の洞だ)」
西方で彼を助けてくれた精霊の棲家も、大樹に埋まるように造られていた。その深い森の中の大樹の洞のような静謐さがここにはある。
「(この人も精霊なのだろうか)」
エリオスは傍らで眠っている人の顔を見つめた。
強い意志を感じさせる目は今は閉じられている。乱してしまった黒髪に縁取られて、月明かりに白く照らされているその寝顔は穏やかだ。すっきりとした鼻筋、なめらかな頬、そして柔らかな曲線を描く唇。
それが見た目以上に柔らかいことを知ったばかりのエリオスは、もう一度それが現だったかを確かめておいたほうがいいような気がした。
そういえば西方で、彼を惑わそうとした妖魔が幻の女を作ったことがあった。妖の手妻だとはわかっていたので、女の姿が溶けて崩れたときも、それほど衝撃は受けなかった。助けてくれた相手が精霊だと知った時も、ああ、そんなものかと思っただけだったし、その姿が霞のように消えていっても、いくらかの感慨があったきりだった。
だが、今、傍らにいるこの女の姿が溶けて消えたら、自分は狂乱するだろうな、とエリオスはぼんやり考えた。
すぐ隣にいて息遣いも感じるのに、なんだか少し不安になって、もう少しだけ身をにじって、眠る彼女に身を寄せる。
「(やはり、ちゃんと確認しておいたほうが良いだろう)」
身を乗り出しかけて、思いとどまる。さっき「そろそろ休ませて」と叱られたばかりだ。今、起こしたら嫌われそうだ。
だが、今度はきちんと理由があるし、危機管理という点でも重要だと思うのだがどうだろうか。
彼女の穏やかに吐息の漏れる唇と、ゆっくりと上下する胸元に視線を彷徨わせながら逡巡する。
「(らしくない)」
これまで、あまり迷わずに生きてきたので、迷いだすと自身に戸惑う。
「(どうも俺は、この人のことでばかり迷っているな)」
もう迷わないと思って手に入れたのに、またこれだ。
この場合、迷わず己の想いに従うのが正しいのか、迷わず彼女の言葉を尊重すべきなのかが、非常に難しい。
これから毎日一緒にいられるのだから、ここで性急に思いのままにしなくても、と思う。しかしながら頭のどこかに明日になったらすべてを失うのではないかという不安がある。オルウェイの民に背信した将と罵られて追放されたり、また新たな戦地に送られたりするのではないか、あるいは彼女自身から出ていけ! と言われるのではないかと……。
「(いや、それはないな)」
どういうわけかは、まったくわからないが、彼女からは愛されている自信がある。そこは間違いない。それに自分が戦地にいかねばならぬほどの危機があるなら、彼女は彼が帰るなりその話をしただろうという確信がエリオスにはあった。
彼女自身は否定していたが、彼女の先見の力は今も健在だ。エリオスに関する超常の神託と思われるほどの先読みは終わったのだとしても、彼女の時流を見る力は確実に存在している。
それは神秘ではなく、優れた将や王が身に備えている現実的な能力だ。彼女は様々な部下を適切に使い、このオルウェイで起こることを把握し、管理している。エリオスが実際にその巧みさを実感したのはオルウェイだけだが、彼女はアストリアス領主だ。アストリアス全域に彼女の目と耳はあり、彼女の手が届くのだろうということは容易に推測できた。
それどころか、彼女は長い遠征で彼が通り過ぎた地域全域を今も継続して把握しているフシがあった。彼女の書庫にはおびただしい数の地図があり、少し話をしただけでも、そのほぼすべての地域の情勢を知っている感触があった。しかも、彼女はそれらをひと連なりの世界として理解している。
エリオス自身は実際に戦って、駆け抜け、踏破した土地であり、復路でその盛衰を見てきたから実感できているが、それをこの人はオルウェイにいながらにして見ている。エリオスは彼女から"世界情勢"という概念を教わった。
今ならばわかる。彼女の父が見ていたのもそういう世界だったのだろう。昔は軍団長や執政官が仕向けたとおりに事が運ぶのが妖術の一種に見えたものだ。しかし、攻城兵器を持ってきた技師が自慢げに説明していた歯車の機構のように世界の物事はかみ合って動いている。世界を動かす者達は、最小の労力で望む結果が得られるように、少しずつ歯車を調整し、レバーを押しているのだ。
上手くできた機構は仕組みをまるでわかっていない者が使っても問題なく結果を出すが、わかっている者がいないとなにかあったときに使い物にならなくなると技師は語っていた。
良き将は敵の軍を読み、己の兵を使って戦を動かす。王は隣国の動きを読み、自国の民を見て、法と軍で国を治める。エリオスがこれまで出会い戦ってきた相手には、優れた将や王が沢山いた。彼らは、まるで技師が城を見ながら己の攻城兵器を調整するかのように、大局を見て自分の軍や国を支配していた。だが、世界を丸ごと一つのものと考えて、その十年先、百年先まで考えてことをなす習慣のある者などいなかった。
古き神でさえ、己が再び世界を支配することを考えているだけで、今の世などまるで知らず、見てもいなかったのだ。
「(俺はいったい何に魅入られて、何を手に入れたのだろう)」
取り止めのないことを考えているうちに、エリオスは目が冴えてきた。
もう一度、傍らで眠る女を見る。
それはずっと彼の妻だった女で、今夜、彼の妻にした女だ。
エリオスは彼女を抱きしめた。
「(世界を手に入れた気分だ)」
家さえ持ったことがなく、大きな城も宮殿も持ちたいと思ったことのないエリオスは、その腕の中に望むすべてを抱き、心からの安寧を得た。
その後、怒られました。
(でもすぐうやむやにして許してもらった)




