そして星は墜ち、鷹は舞い降りた
目の前に英雄がいた。
オルウェイは温暖な土地だが夜風は涼しい。二人がいるのは回廊から別棟に伸びた庇屋根だけの渡り廊なので外にいるのと変わらない。星明かりだけの暗い中庭はひっそりとしていたが、それと同じ少しひんやりした夜気が、二人の間だけは彼から放たれる熱で吹き払われた気さえするほど、互いの距離は近かった。
ずっと遠くに想っていた相手は、今、彼女と触れ合わんばかりのところにいて、彼女をじっと見つめていた。
その燃える青。
なんてきれいなんだろう、と彼女は他のすべてを忘れた。その青い星の放射に自分の虚飾がすべて燃やし尽くされる思いがした。
"あの人は私を妻だと思っていない”
"きっと戦友か何かと思っている”
”私のような女が彼の好みだとは思えない”
傷つきたくなくて幾重にも重ねた防壁を貫いて、目をそらせることのできない感情が突きつけられる。
『妻と夜更けに二人きりでいたと、嫉妬するような人だったら大変よ』
さっき口にしたばかりの戯言が、彼女の中でグルグル空回りした。
”まさか”、”そんなこと”、”ありえない”
薄っぺらい否定の言葉が習慣的に浮かぶが、なんの抵抗にもならず空中でたちまち焼け落ちる。
知らぬ間に微かに震えていた右手を、大きな手で包むように握られて、背の内側がゾクリと震えた。
熱い。
小さな手燭を持つ左手よりも、掴まれた右手の熱を強く感じた。
このまま何も言わずにいたら破裂してしまいそうだ。
緊張に耐えかねて息を深く吸い込むと汗が香った。柄にもなくこんな時間に少し気取ってつけてしまった香水が、目の前の彼の微かに汗ばんだ胸元の香りと混ざって、妙に艶めかしく感じられた。
頬に血が上る。手から伝わった熱が内側から自分を熱して血が頭に上る幻想で目がチカチカした。
「あなたは……」
「なぜかと……」
なんとか口から出した言葉が重なって互いにうろたえる。
その様がちょっとおかしくて、緊張が少しほぐれた。まだ耳の奥で血潮の音がドクドクなっている気がするが、彼女は小さく微笑んで視線で「お先にどうぞ」と促した。
青い鷹はその二つ名に似合わないやや控えめな態度で「そちらから」と微かに首を振った。彼女は迷いながら、気になっていたことを小さく言葉にしてみた。
「最果ての島で……あなたは己を見つけることができましたか?」
思わぬことを聞かれたからだろう。彼は少し顎を引き、警戒する野生動物の様に慎重に答えた。
「あなたは……俺のことを何でも知っている」
その瞳に現れた陰りに、彼女の胸は締め付けられた。
「いいえ!」
私はあなたのことを何も知らない。
だから知りたい。
『どうか辛抱強く容赦なく徹底的になりふり構わずに』
自分に正直になれと、穏やかで力強い声が、泣いて逃げ出したい弱気な彼女の背中を押す。
「私は、今ここにいるあなたのことを何も知りません」
大きな手に包みこまれていた右手を抗うように絡め直して、ぎゅっと相手の手を握り、彼のさらに近くに自身の身を寄せるようにつま先立つ。
「あなたのことが知りたいです」
高鳴る胸が、向かい合った顔が、今にも触れ合いそうな距離で彼女は懇願した。
「”英雄”でも”王”でもない、今、ここにいるあなたのすべてを私に教えてください……私の青い鷹」
彼の手が彼女の左手を捉え、彼女の手から手燭が落ちた。明かりのなくなった回廊から見える満天の星は、その時、それまでとはまったく異なる輝きで光り始めた。流れ星が天頂方向から海の彼方へと流れた。大きな火球は砕けて幾筋にも尾を引くほどだった。
エリオス、エリオス、エリオス!
呼吸をすることも忘れた彼女は、心の中でただ最愛の夫の名を繰り返していた。
彼方の星に願うような恋は終わり、互いをその胸の炎に焚べ会うような愛が二人の想いを一つにした。
「明かりを落としてしまったわ」
「すまない。破片を踏むと危ないな」
彼は彼女を当たり前の様に抱き上げた。
「えっ、ちょっと、こんな……」
「部屋までこうしていこう」
「歩けるわ」
「西域で……」
彼は抱き上げた妻の額に己の額を寄せると、少しはにかんだような口調で続けた。
「結婚した日に夫が花嫁をこうやって家に運ぶ風習があるところがあったんだ」
触れたことすらない妻を思って悔しかったと、彼は正直に白状した。
「西の風習なら……伝承の島で結婚した時には試さなかったの?」
「なにっ!?」
男は平手打ちを食らったような顔で目を見開いた。
「誰の結婚の話だ?」
「あなたの……島で王になって伴侶を迎えたのではないの?」
「俺にはあなたという妻がもういる」
「ええっと……”伝承の島でエリオスは己の真実と、真実の愛を見つけ真の王となった”という話ではなかった?」
「島で俺はそこの生まれだと言われたが、思い出はろくになかった。やはり俺が故郷と思うのはアトーラだと思ったし、俺が真実愛するのはあなたで、王座なんかよりあなたが欲しいと思ったから帰ってきた」
男のたくましい腕に抱きしめられ、逃げようがなく抱え上げられた状態で、彼女は一言も発することができず固まってしまった。
「帰ってきてよかった。もっと早くこうするべきだった。俺はとんだバカだった」
彼は彼女の髪に鼻を埋め、額に唇を落とし、うっとりと頬ずりして、耳元で囁いた。
「あなたを妻に欲しいと、身の程知らずに願い出るくらい、ずっとあなたを手に入れたかった」
「ふぁっ」
思わず変な声を漏らした彼女のあごから首筋のラインを確かめるように顔を埋めて、彼は深々と息を吸い込んだ。
「いい香りだ。あの夜……あなたと初めて言葉をかわした夜に庭で咲いていた花の匂いだ」
「……フェスよ」
「あなたを想って眠れない夜には、よくこの香りも思い出した」
堰を切って溢れてくる彼の一言一言が、彼女の正気を押し流しにきた。彼女は気絶しそうになりながら必死に彼の怒涛の攻勢を押し留めようとした。
「待って……ちょっとまだこの状況の整理が」
「正直、もう一時たりとも待ちたくないし、一瞬も待てる気がしないんだが」
「そ……そう」
「誰が何と言おうとあなたを俺だけのものにしたい。誰にも譲りたくないし取られたくない。あなたのすべてが欲しい」
「うぁ……は……はい」
「今すぐ」
「今すぐ!?」
「十年分愛したい」
不敗の英雄、青い鷹という男は、いい出したことはきっちりやり通す有言実行の男だった。
このあと、すぐ脇にある中庭の離れの一室に行きました。エリオスは星明かりあれば足元悪くても平気なので、池の飛び石も軽々渡って意気揚揚と花嫁を抱えて離れの庵まで連れて行きました……元々、そこでゆっくり話をするつもりで用意させてた部屋だったのに、どうしてこうなった!?
「白」の後書きで昔書いた「十年分愛す」の回収回です。ふー、がんばったぜー。




