現と幻の狭間5
私は太守のために設えられた部屋に入るのを止めた。
ひと気が無い。おそらく主賓の彼はまだ宴席にいるのだろう。
酒も料理も十分に用意させた。久しぶりに故国に帰還できた遠征軍のために、凝った珍味や美食ではなく、できるだけアトーラの家庭料理や郷土料理を揃えたから口に合わないということはないはずだ。
当直の者に太守は今どうしているかみてくるよう命じて、控えの小さな一室で待つ。
あの人は今どこにいて何をしているのだろうか?
何度も考えたこの問いに、すぐに答えが帰ってくる距離に、あの人がいる。それは不思議な感覚で、どこか現実味がなかった。
私は木組みの椅子のなめし革を貼っただけの座面に腰掛けた。
楽しんでいてくれるといい。
それならばそのまま楽しく過ごして、良い思い出だけを持って、また次の地へ赴いてくれたのならば……などとも思う。
すでに執政官からの北征の指令が内々に書面で届けられている。このあと南との条約手続きが終わったら、その足ですぐアトーラに戻り、また遠征だ。しかも、今度はさらに辺境の地へ半数以下の人数で行く探索行。正直、死んでこいと言っているも同然の命令だ。
日本武尊は兄殺しの粗暴を疎まれて地方豪族の討伐を命じられたが、エリオスは元老院にその才を恐れられたか。だとすれば愚かな話だ。
なんにせよ夫を大切に思う妻ならば引き留めてしかるべきだし、あの地位にいる父の娘ならば、情に訴えて父の権限で命令を取り下げてもらえるように努めて当然な任務ではある。
黙って内示を受け取り、今も伏せて、そのまま彼を見送る私は悪い妻だ。
あの人もそう思うだろう。
美しい平和な内地で、好き勝手に生きている妻。それぐらいに思っていてもらった方が多分いい。アトーラでは私の悪評も耳にしたはずだ。この時に間に合わせるために強引なことをしてきた分、私には敵も多い。
でもそれも、ある意味、予定通り。
今、ここでその印象を書き換えても、ただ私の自己顕示欲が満たされるだけだ。益はない。
山脈を越えれば、陸路ではあのカササギですらそう頻繁に書簡の往復はできなくなるだろう。この先、疎遠になるだけの相手に心を残してもどうにもならない。兵站を担う"便利なオルウェイ"。その関係だけがあれば良い。
焼き物の小さなランプの火が小さくなる。油切れだ。揺らいで消えかかる明かりは私の手元をわずかに照らすのみになった。
あの人が褒めてくれた手……汚れて傷だらけで貴婦人らしからぬ歪な手。人には見せられぬと手袋で隠した手。
ジジ……と最後の灯が消え、小部屋に闇が落ちる。
あの人に会って、私はどうすればよいのだろう。
子供の頃は『エリオス』に会ったらあれも聞きたいこれも聞きたいと思っていた。自分の知る物語と照らし合わせて、読者だった自分の解釈の答え合わせをしたかった。
遠征を後方で支援しているときは、これで良いのか、物資は足りているか、私は間違っていないかと問いかけたかった。
どれも身勝手な私のエゴだ
私は油切れのランプを床に置き、目を閉じた。
今日見たあの人を思い出す。
"原作"など知らぬ、ただ己の人生を精一杯生きている人。負わされた大任を立派に果たして成果を上げ続けている偉大な人。
澄んだ目で全てを見ていながら、何にも心を寄せていない孤独な人。
目を開ける。闇に慣れた目に、おぼろげながら周囲の様子が見えてくる。
私は『エリオス』というキャラの熱心なファンではなかった。ヒロイックサーガの主人公としては好きだったが、原作で繰り返し描写される彼の心の闇にはいささか共感しかねていた。
素性の分からない流民の孤児である彼は、己のアイデンティティに不安があり、常に"ここではないどこか"にある故郷を思い、いつかその故郷を自分がそうとは知らずに滅ぼしてしまうのではないかと恐れていた。
無敵の主人公のその内面の弱さは原作の人気の理由の一つではあったが、私は「そんなもの、アトーラで育ってアトーラで成り上がったなら、アトーラが故郷でいいじゃないか。いつまでも何を悩んでるんだ」なんて思いながら、もどかしく読んでいた。その他のことは合理的で判断の早い彼が、そこだけうじうじ悩むのは当時の私には共感し難かったのだ。
結局、北征の最後で『エリオス』は一度記憶を失う。さんざん描かれた彼の悩みも逡巡も記憶喪失でリセットされてしまうのだ。
だからだろうか、記憶を失った後の『エリオス』は、アトーラ時代とまるで別キャラだった。なんでこんなことに……と一読者としてショックだったが、たぶんあれは作者が長期連載で嗜好が変わって元のキャラクター造形に飽きたのだと思う。
ヒロイックサーガからダークファンタジー(BL)の方向に舵を切った原作から私は脱落した。
その後、リニューアルした『エリオス』は伝承の島で己の出自を知る。
私は島での建国編以降は、そんな展開になったというあらすじ程度しか知らないが、伝承の島で王となった『エリオス』は、最終的にアトーラを滅ぼすらしい。
お父様がアトーラ最終戦の悪役だというのはわからなくもない。
ユステリアヌスの名を与え、彼を戦乱に駆り立てたかつての上官を倒し『エリオス』は己の過去の清算を終えるのだ。
覇王となった『エリオス』の軍に、オルウェイも再び焼かれるという。奇しくも『エリオス』は己を支えたオルウェイを焼くことで、過去に己が抱いていた"知らずして故郷を滅ぼすのではないか"という不安を、実行してしまうことになる。
彼がオルウェイの炎に何を思ったのかを、私は読んでいない。
考察班時代の友人は、オルウェイが愚かでチープな悪徳都市に描かれすぎていて辛いと嘆いていた。オルウェイ兵站最強説で詳細すぎる考察を連載していた友人は、あれだけの兵站を支え続けたオルウェイがあんなに愚かで無能なものか! と憤っていた。友人の薫陶に従い、実際にこの5年間、兵站をになってきた立場としては、忘恩のエリオス許すまじ、というあの友人の語気の粗さも、さもありなんとは思う。
だが『エリオス』がオルウェイを己が帰還する故郷として見ていたシーンは、私が知る限り一度もなかった。
私は闇の中で立ち上がると、窓際に行き木戸を外した。夜気と月光が鬱屈した妄想を払う。
窓の外、祝いの篝火に照らされたオルウェイは『エリオス』に粛清されねばならない悪徳都市ではない。太守エリオスを支えるために、私と仲間達が必死で作り上げて来た街だ。
どうすればよいのだろう。
私は、地位を得るために私の夫にならざるを得なかったあの人を自由にしてあげたい。あの人が苦しんでいるのなら、本当の故郷に帰り、私が教えてあげることのできない真実を知る機会を与えてあげたい。
でも、あの人に私の大切な人々のいるこの街を、この国を滅ぼされたくはない。
どこかで誰かが古い詩を吟じている。英雄やこの都市の栄華や盛衰もまた旅芸人に唄われるようになるのだろうか。
であるならば、エリオスの伝説は哀歌になってもらいたくない。
志半ばに魂のみが白鳥になって故国に飛んでいくのを人々が見送るエンディングは美しいが虚しい。エリオスは美しくも哀しい白鳥ではなく、猛き鷹として最期まで力強く飛んで欲しい。たとえ異国の王になるのだとしても、亡国の徒などと謗られず、栄光のままに、オルウェイの良き思い出を抱いたまま幸福になって欲しい。
「成したい結果があるのならば、そこに向けて組み立てることだ」
戦略の組み立て方を語るお父様の声が脳裏に浮かぶ。
「でも、現実はボードゲームより複雑だわ。物事のすべての経路なんて読めない」
「なに。すべて読む必要などない」
お父様の手がコマを1つ摘んでマス目に配置する。
「最後の重要な局面で、何が結果を分けるのかを見定めて、最低限必要な要素がそちらに傾くように楔を打っておけば良い」
考えろ。エリオスが生き残り、アトーラもオルウェイも滅びない道を。
故郷を滅ぼしたくない優しい人が、哀しい結末を見なくてすむ未来を。
先ほどの当直が太守がこちらに来ると告げに来た。私は、呼び立てる必要はない、こちらから伺うと言ったが、その言葉を言い終わらないうちに、力強い足音がして、止めるまもなくあの人が部屋に入ってきた。
「この度はお忙しいところを、わざわざお運び頂き誠に恐縮です」
私は丁寧に身分に相応しい礼をした。
私のいる暗い小部屋の出入り口を塞ぐように立つその人の姿は、後ろにいる使用人の持つ明かりのせいで、光輪に縁取られているように見えた。
§§§
私は、今このとき口頭でしか伝えられない要点3つを彼に伝えた。
この先の北征で、彼の深刻な命の危機は2回。そのうち1回は記憶を失う原因になる重傷を負う。だから、要点の1つ目はそれらを回避するための最低限の情報だ。
記憶があって生き延びた場合、島に渡らない可能性があるため、要点の2つ目として、伝承の島に往けば王になれるということも打ち明けた。
そして要点の3つ目。最後までオルウェイはあなたの味方だと保証すること。これを覚えていてもらえたら私達は戦わずにすむはずだ。
私は3つの要点をしっかりと印象に残るように彼に伝えた。
頭がおかしい女だと思われたかもしれないがかまわない。何年もあとになる"その時"にフラッシュバックしてくれる程度に記憶に刷り込んでおけば、彼がオルウェイに良い印象を持ったまま島の王になってくれる可能性は大きくなる。
伝えた内容を他の思い出で薄めないように、私はその後、彼と会う機会を極力減らした。……日頃のガサツな振る舞いを見られたら布石の効果が激減してしまうではないか。
心のどこかで「この臆病者め」と己を罵る声が聞こえるが無視する。
自分の卑劣さも矮小さも嫌と言うほど自覚している。なんだかんだ理由をつけて、結局私はあの人と正面から向き合うのを避けたのだ。
あの夜、あの人の深い声音を、鋭い視線を直接向けられて、私は己が向き合う相手の強さに圧倒された。
そして、あの人の声に滲む懐疑と苛立ち、目元に浮かぶ不満と不信……私とともにいることをたまらなく居心地が悪いと感じているであろう雰囲気。そんなもののすべてに打ちのめされた。
彼がその青い眼差しで私のことを異界の者を断罪するように貫き、罪を暴くようにお前は魔女かと直接問うたとき、私は息ができなくなるかと思った。私は目を伏せたまま、淡々と言葉をつなげることしかできなかった。
ただ、これだけは言っておかねばということだけは気力を振り絞って伝えた。
負けたくはなかった。
挫けたくはなかった。
私は声一つ震えさせることも己に許さなかった。
「貴方が青い鷹の旗と共にある限りは、オルウェイは貴方を全力でお助けします」
なぜなら私はあなたに落ちたから。
間近で対面したとき、これが物語の『エリオス』ではなく、この世界のエリオスなのだと、ストンと納得できて心が震えた。
これが英雄。これが我が父をして、自らの名を与えたいと思わしめた男。これが我が生涯唯一の夫。
どれほど疎まれても私はこの人に全てを捧げられると思った瞬間、世界の全てが一瞬明滅して相転移を起こしたような気がした。
私は彼と別れるときまで、この致命的な想いをすべて飲み込むことに成功した。彼を見送るとき、ただ深い笑みを浮かべることさえできた。
月毛の馬に乗った英雄は、青いマントを翻して、軍団とともにオルウェイを去って行った。
§§§
人の情や約束などという不確かなものに頼る策を立案した場合は、それが失敗したときのために、他にいくつか同時に手を打っておく必要がある、というのは父の教えである。ついでに、お酒を飲んだ後の男の人の記憶力はまったく信用ならないというのは、母の教えである。
エリオスがオルウェイを発ったあと、私は建設予定の市街地と広場の図面を一部手直しした。
西海の果てまで補給物資を輸送できる海路の構築と、オルウェイ海軍の育成は港湾整備計画共々順調だ。エリオスが西征で手に入れた西方地域の入植都市と街道の整備も進んでいるという。
ここから5年と掛からず、私は西海全域と西域の交易路を掌握できるだろう。
北征の後にエリオスが何年で伝承の島の王になるのかはわからない。
だが、その時までに私の準備は完了できる。
だから、エリオス。
もしすべてを忘れて海の彼方で愛する人を手に入れることになったのなら、どうかその地でお幸せに。
青い鷹エリオス。
あなたがオルウェイの敵となった暁には、私は全力であなたと戦う。
いかにあなたが強くても西方全域の物量であなたの国と戦ってあげる。
私が押し付けた不敗の伝説だもの。
私が幕を下ろしてみせる。
だから、けして戻ってこないで。
あなたに二度と会えないというこの胸の痛みは、黙って黄泉の国まで持っていくから。
ところが、この旦那……想定外さんのせいで、ひょっこり戻ってくるのである。
理詰めで打った対策ではなく、純粋にエリオスへの情で渡した青軍旗と黒龍がエリオスを帰還させる決定的な布石として効くだなんて、読み切れないよ。




