アンバランス
前回の続きです。
『何をやっとるんだ、貴様はぁっ!!』
イリューシオは思わず鉛管から耳を離して顔をしかめた。
「『このバカ者めがぁ〜!』」
外と鉛管の両方から罵声が飛んでくる。あきれた大声だ。
イリューシオはそっと伝声管の蓋を締めた。
「さすが戦場で指揮を執る方のお声。よく通るわね」
「奥様」
裏方用の小部屋に入ってきた女主人に向けられたイリューシオの咎めるような一瞥には「お休みくださいと申しましたのに」という彼の文句がありありと浮かんでいた。それでも彼はいつも通り丁寧に礼をとった。
薄手の白い夜着の上に、緑に染められ刺繍の施された滑らかな布を羽織った女主人は、イリューシオの視線などまるで取り合わずに、彼に命じた。
「客間の用意を。何か温かい飲み物もね」
「放っておけばよろしいのです」
直接的に不満を口にしたイリューシオの顔付きを見て、女主人はくすくすと笑った。
「そういうわけにはいかないわ」
「なぜですか」
「夫が蹴り出されては大変だもの」
「夫だなどと……」
「偽物ではないというのは、あなたももう承知したのでしょう?」
「一応は」
不承不承頷いた専属従者を女主人は優しく諭した。
「だったら、7人以下で尾行なんて不手際をしてはダメ。人数を揃えてもせいぜい日中の街中までよ。相手に悟られずに行動を把握したいのなら、相手が人並み外れた英雄だという前提で動かないと。城壁の隠しの弓兵どころか丘の向こうの伏兵にだって気付く相手を、夜道で目視を頼りに尾行なんてできるわけないでしょう。いらぬ誤解を招くだけで何もいいことはないと心得なさい」
「……はい、奥様」
「しかも、市の職員と港湾の目付けの伝言を裏付けなしで鵜呑みにするなんてあなたらしくもない」
報告は上げなかったのにどこまでご存知なのかと、オルウェイの女主人の身辺一切を預かっているはずの家宰は内心で舌を巻いた。ご心労を増やしたくないと思ったのにこれだ。
あげくに「練度が違う相手からの報告には、相応の補正が必要だと教えたはずよ」と言われて、彼は小さく唸った。
「海軍司令官のところには使いを出しました。市からの報告通り、同じ店で飲んでいたとの回答を得ています」
「リヴァイア艦長は彼の戦友でしょう?」
「口裏合わせを?」
「そういうときには同類に聞いちゃダメ。ああいう殿方は、酒場や歓楽街にいるときには、家や公共機関からの使いに対して打ち合わせなしで連携するから」
「どこでそんなことを」
「お母様の教えよ。信頼できるでしょう?」
「間違いありません」
イリューシオは自分の非を認め謝罪した。大奥様の言だとしたら、十分に信頼できる経験に裏打ちされている。ユステリアヌスの大旦那様の交友関係は現アトーラ中枢の政治と軍事の上澄みだし、そもそも大奥様ご自身が初代皇帝……大旦那様の若い頃からの一番の悪友……の妹なのだ。そのお方が、そんなつまらないことでも以心伝心で口裏合わせができる輩がいるというのなら信じて良い。
「さっきニッカ親方のところにやった使いが帰ってきたわ。市政からの報告は港湾部の目付けがあの人に言い含められた嘘よ。あの人、最初の酒場を出たあとは親方と一緒だったんですって」
アストリアス地方一帯を統べる女領主は、領主邸の家宰に穏やかに語った。
「あなたの疑心が、私への忠誠から来ているのはわかっているの。でもだからといって自分に都合のいい情報に飛びついたり、変に私に隠し事をしないで。あなたは私が子供の頃から私の一番近くにずっといたんだから、これからもそうでいて欲しいわ」
私心、我欲を優先して目が曇るようならば容赦なく切るということか。
イリューシオは落としていた視線を上げた。暗い手燭の炎を映した黒い目が彼を捉える。
彼の敬愛する女主人は、間違いなくあのユステリアヌス殿の血を濃く受け継いでいる。その眼差しは、アトーラの賢獣……苛烈な爪と牙がある上に悪辣にして冷徹と敵どころか味方からも恐れられている父親とよく似ている。
目をそらすことすらできないまま、彼はただいつものように「はい、奥様」と答えた。
女主人はフッと表情を緩めて、イリューシオの近くまで歩を進めた。
日頃、彼女が就寝時には付けない香が薫る。
白くたおやかな手が上がったとき、イリューシオは一瞬、己に触れられるのかと思ったが、彼女の指が触れたのは彼のすぐ脇にある伝声管の蓋だった。
「それからね、イリューシオ。うちにはこういう仕掛けが色々あるけれど、この手の細工はあくまで一般人用ですからね」
便利だけれど万能ではないから過信してはダメ……と、少し口を尖らしてこちらを睨んでみせる顔は、彼女の子供時代からの表情そのままだ。イリューシオの主は、革新的な利器を導入するたびに、この警句を唱えてきた。「必要なときによく考えて使いなさい」「実情に合わないと思ったら改善しなさい」「致命的な齟齬の気配を感じたらすぐに使用をやめなさい」……こんなに便利なのになぜと思うものほど、彼女の使用制限は厳しかった。
「下手な使い方をして見破られたら、それは不信感を生むただの安い小細工に成り下がるの。相手を考えずに普段遣いをしてはダメ」
「では、英雄相手では私共では処置なしだと?」
「英雄にはね、普通に誠意を持って正攻法で対峙するのが一番いいのよ。私達は敵対したいわけではないのだから」
「私共になくとも、あちらにどんな思惑や事情があるかはわかりません。たとえあれが本人だとしても、歳月は人の内面をたやすく変えます」
女主人は少し困ったような顔をしてやや首を傾げた。
「だとしても……私はあの人の妻なのよ」
イリューシオはふいにどうしようもない苛立ちをおぼえた。
掌中の珠のように大切に見守り続けたこの方が、あの男相手にみせるこの理不尽な一方的服従はなんなのか。たしかにアトーラにおいて家長たる男の権威は絶対だが、家庭内でそれが逆転している家などいくらでもある。今や政治上の婚姻理由も意味をなさず、公的な権限においても相手とは天地の差がある。彼女が奴に精神的にこれほど引いた立場をとる理由は何もないはずだ。
「ならば妻の役目だと求められたなら、あなたは今夜にでもあの男の夜伽の相手を務めると仰るのですか」
夜闇とほのかな香りと苛立ちが、普段ならけして口にはしないであろう言葉をイリューシオに言わせた。
「それは……」
女主人は一度目を丸くして口籠ってから、何か考えるように数度瞬きして視線を彷徨わせた。
それから彼女はいたって平静な口調で答えた。
「そうね。そういうことがあるのなら」
イリューシオの奥歯がミシリと軋んだ。
「ところで、イリューシオ。夫が妻に求める"夜伽"って具体的に何をするの? そのあたりこれまで誰も教えてくれなくて。私、全然知らないのだけれど、いい歳をしてコレってかなりまずいんじゃないかしら?」
「私がお教えしましょうか」の一言をイリューシオはかろうじて飲み込んだ。彼の苛立ちは胃の腑を煮えたぎらせる怒りに変わった。
その怒りを察したのか、ただの沈黙ととらえたのか。
男に囲まれて仕事をしながらも、高嶺の花すぎて男性経験というものがまるでない箱入り娘は「あなたに尋ねる話題ではなかったわね」といささかバツが悪そうに身を引いた。
「客間の用意は今夜の夜番に頼むわ。あなたはもう下がって休みなさい」
部屋の出入り口で彼女は振り返った。
「心配しないで。あの人は私にそんな要求はしないわ。敬意ははらってくれるけれど、妻だとは思っていないのでしょう」
昨夜は一晩中一緒にいたけれど、夫婦や男女らしい語らいは何もなかったと、彼女は笑った。
「きっと本国の司令部か補給部隊勤めの戦友か何かと思っていらっしゃるのよ。私のような女が彼の好みだとは思えないし……」
月明かりの射す庭を背にしている彼女の表情は、イリューシオからはよく見えなかった。
「そうお思いですか」
「妻と夜更けに二人きりでいたと、互いに何とも思っていない関係の相手にまで嫉妬するような人だったら、あなた大変よ」
冗談めかして「ありえないでしょ」と言いながら立ち去った彼女の真意は、イリューシオにはわからなかった。
次回に続く!
これから書くからどうなるかまったくわからないけれど、エリオスと奥様……と逃げそびれたゴドラン登場予定です。
今年もよろしくお願いします。
ちなみに奥様は日本の記憶持ちですが、この世界だと常識が違ってる可能性があるよな……とか思ってます。ダメだこりゃ。




