進展なし
前回からのつづきですが、時系列としては、ep.31「宵の口」の直後からスタートです。
夜風に鳥形の小さな灯燭の炎が揺れる。伏せ目がちに先導するアストリアスの女領主の口元の微かな笑みは、静かでどこか曖昧だ。
彼女は緊張気味のエリオスを客用寝室に案内した。
「こちらは自由にお使いください。なにかご入用のものは?」
「いや」
「足らないものや御用があれば、遠慮なくあちらの控えにいるうちのものに申し付けください」
エリオスは特に用はないから使用人は下げていいと告げた。「ではそのように」と女主人が答えると控えの間から人の気配が引く。
使用人の質は西方の王城以上だなと思ったところで、エリオスは目の前の相手が小国の王族以上の権力者であることにあらためて気付いた。彼女は世界に冠たる大帝国の最も輝かしい領都の主だ。
この私邸の奥の客間にすぎない部屋の調度も、自分が今着せられている服も、先ほど振る舞われた晩餐も、何もかもの質がこれまで彼が放浪してきた世界から隔絶している。
エリオスは、すぐ手の届くところにいる相手が、ひどく遠い人のように思えた。
華美ではないが、エリオスから見ると意味が分からないほど装飾的な小さなテーブルの向かい側で、彼女は手燭の炎を卓上のランプに移している。ガラスだろうか?ランプの乳白色の覆いには、なぜか生き物めいた艶かしさがある。
覆いを通した炎の明かりが、彼女の白い胸元からおとがいにかけてを照らしているのをじっと見ているうちに、いくばくかの罪悪感を感じて、エリオスは視線を外した。
「なにか……?」
顔を上げた彼女にそう問われて、エリオスは、ポツリと呟いた。
「手……」
「はい?」
「手袋は止めたのだな」
彼女はハッとした様子で手を隠した。
「申し訳ございません。失礼いたしました。気遣いが至りませんでした」
「いや、謝らないで欲しい。そういう意味ではない」
エリオスは、明かりから遠ざかってしまった相手を追うように思わず手を伸ばしたが、テーブル越しなので届きはしなかった。半端に宙に浮いた手を、彼はきまり悪げに握りしめて降ろした。
「ただその……隠さねばならぬほど醜くはないなと思っただけだ……魔女と呼ばれるほど爪まで黒いわけでもないし……」
「ああ、それは」
彼女は苦笑した。その昔、今のように権力基盤を確立するまでは、政敵から悪評を流されて、彼女はオルウェイの魔女だの黒い悪妻だのと好き勝手に噂されていた。
「最近、染めの工房には行っていなかったからです」
鷹の青を染めることがなかったので、と言われて、エリオスは言葉に詰まった。
「それでも日々の書き物のインク汚れとペンダコで、貴婦人にあるまじき手なのは変わらないのですけれどね」
気遣ってくれる使用人が指先や爪の手入れをしてくれるようになったので、ずいぶんとマシにはなったのだと彼女は自分の指先をさすって微笑んだ。
「でもこれからは、また手袋生活をしなければなりませんね」
「そんな必要はない」
「でも、また貴方の青をいっぱい染めなくては」
「それは……やらなくていい」
「もしや、青色はお嫌いでしたか?」
ひどくうろたえた悲しげな目をされて、エリオスは慌てた。なぜだろう。言いたいことがまったく伝えられない。「そんなつもりではない!」と大声で叫びたいが、そんなことをすれば、この傷つきやすいか弱い人をさらに怯えさせるだろう。
どんな強敵との困難な会談でも怯まなかった英雄は、自分が一番大切にしたい人を前に、どんな言葉で何をどう話せばいいのかまったくわからなくなって立ち尽くしてしまった。
この蔦の葉を重ねた形のテーブルを少し回り込んで彼女の傍らに行き、そのほっそりした手を取って、「あなたの手を黒くすることになるなら、布など染めなくていい」と言えばいいのだろうか。
でも、黒く染まっていても、タコがあっても、それが彼女が自らの仕事に心血を注いだ結果なのならエリオスはそれを厭う気はないし、むしろそれが自分のために彼女が尽くしてくれた証だと思うと愛おしくすらある。第一、彼女だけが作れる色で自分だけのものを作ってもらえる誇らしさは、エリオスにとって手放せない特権だ!
しかしだからといって、己の欲のために彼女の身体を損なわせて、彼女に人目を気にするような引け目を与えることは正しいのだろうか?
ここは彼女のために、自分の我欲は抑えて断るのがやはり良いのでは?との迷いが、それでも新しい上着やマントも欲しい気持ちとせめぎ合う。だが、そもそも自分はもう"青い鷹"を名乗れるような身ではないわけで……しかし!!
短く吸った息を口から言葉にして出す一呼吸に満たぬ間に、高速で思考が空回りして目眩がした。
「嫌いではないが……必要なものでもない」
あなたの身を愛おしむことの方が大事だ。そんなことを突然言っても良いものかどうか迷って言葉が途切れる。
この人にとって自分はどのような存在なのかとあらためて思う。
彼女は託宣の巫女と同じかそれ以上の力を神から与えられた未来視だとエリオスは思っている。彼女はあの忘れられた島に渡るまでの彼の運命を過たず見定めていた。
「伝承の島で王となる貴方の物語に私は必要ない」と彼女は以前語った。
であれば、それまでの自分には彼女が必要であったということだ。事実、彼女によるオルウェイからの支援がなければ、彼は幾度も死んでいただろう。彼女の存在は自分には不可欠だった。
だが、彼女にとって自分は必要な存在だったのだろうか?とエリオスはこれまで幾度も自問した。
予言を下したあの夜、伝承の島に渡るなら、自分のこともオルウェイのことも忘れよと彼女は告げた。あれは明らかに彼女と自分の縁がそこで切れることを示していた。
あるいは古い神の棲まうあの伝承の島には彼女に加護を授けた神の力が及ばなかったのかもしれない。しかし、そんな神秘を持ち出さなくても、アトーラの軍を抜けた自分には価値がない。アトーラの名門の娘である彼女を自分の妻にできたのは、遠征軍の指揮官として役目を果たすため以外に、意味は何もないと、エリオスは義父に徹底的に教え込まれてきた。娘には指一本触れさせぬと言い放った大ユスティリアヌスの眼光を思い出してエリオスは内心で密かに身震いした。
のこのこ帰ってきたあげく、こんな夜更けに彼女と二人きりで同じ部屋にいると知られたら、それだけで斬り殺されそうだと、冗談ではなく思う。
そもそもエリオスは事前に妻自身から、もし島に渡るならば「私という名のみの妻がいたことも、オルウェイのこともお忘れください」と言われていた身だ。
義父だけでなく、彼女もまた自身を"名のみの妻"と思っていたのは明白で、エリオスもそれは反論できない。同じく"名のみの太守"として、このオルウェイにろくに何もしなかった以上に、エリオスは夫として何一つしてこなかった。
「(そういえば土産一つ持参していない)」
相手は世界の美の総元締めである貴婦人で、流浪の身でほぼ無一文と言っていいエリオスが用意できるような土産は意味がないというのはさておいても、まったくナシというのはひどい。
エリオスは絶望的に気が利かない自分に目の前が真っ暗になる心地がした。
「俺は……ずっと旅や戦場暮らしで最低限必要なもの以外は持たない生活ばかりだった。だから……」
エリオスは俯いてボソボソと詫びの言葉を探した。
「だから戦場に届くあなたからの贈り物は、小さなピン一つでも俺の宝物で、それはもう大事にしていたんだが……結局、この指輪以外はみんな壊したりなくしたりしてしまった」
薬指の指輪をさすりながら、ちらりと視線を上げると、彼女は信じられないものを見るかのように目を大きく見開いてエリオスを見つめていた。
やはり不実な男と呆れられたのだろう。
「おまけにここに帰ってくるのに、土産一つ用意してこなかった。すまない。だから、そのう……前の服はすっかり擦り切れてボロボロになってしまったので、新しい濃い青の服は非常に欲しいのだが、とてもねだれる立場ではないのだ」
息を呑む音に顔を上げたエリオスの目の前で、彼の妻はテーブルを両手で派手に叩いた。
「作ります!」
ぎょっとしたエリオスに、彼女は食い気味にまくしたてた。
「欲しいものがあれば何でも言ってください!いくらでも作って差し上げます!!服でも帯でもマントでもピンでも武具でも馬具でも戦車でも帆船でも!あなたが必要とするすべてのもの、私が取り揃えてみせます」
彼女は揺れるランプの灯りが映った燃えるような目でエリオスを見つめた。
「そしてあなたに必要であろうとなかろうと、私があなたに贈りたいと思ったものは、片っ端から贈りますから覚悟してください」
「う……うむ。それはとてもありがたいが、俺はあなたに返せるものが何も」
「いてくださるだけで結構です!」
「そういうわけにも………」
「土産なんて気にする必要ありません」
「しかしだな」
「では、土産話をお願いします」
「話?」
どこから何を話せばいいのかと戸惑うエリオスに、彼女は「第一部から」と言いかけて、「いえ、東征から」と言い直した。
「しかし、あの戦のことはあなたは報告書で知っているだろう?」
「お忘れですか?東征は結婚前でまだ私はあなたからの報告書を受け取る立場にはいませんでした」
「そうなのか?だが、こちらに送られてくる指示書には、携わっていただろう。戦況は把握していたと思っていた」
彼女は不思議そうな顔をして一度まばたきしてから、「ああ」と理解を顔に浮かべた。
「父から何か聞いたのですか」
「いや。何も」
「ではなぜ?たしかにあの当時、私は父の書記官の手伝いをしておりましたが」
「あなたの書いた書簡は飛び抜けて美しかったから好きだったんだ」
「えっ?」
「あと、小さなピンで留めてあったのも良かったな。こう、ギザギザや動物の形をしたやつ……あれ、集めていたんだ」
長いこと大事にしていたのだが、海に落ちたときに荷物を失って、コレクションの大半を失ってしまい、残ったものもやむなく使ってしまったと話すエリオスの前で、黒髪の女領主はわなわなと震えて口をパクパクさせた。
「エ……エリオス様が結婚前から私のことをご存知だった……?」
「ああ。結婚誓約書の文字を見て、この人だったのかと思った」
彼女は立ちくらみでもしたかのように、ふらふらと脇にあった椅子に腰掛けた。
「大丈夫か?」
「はい。ちょっと予想外だったので。少々お待ちください」
「ああ、無理はするなよ。体がつらいならもう休んだほうがよいのでは……」
「私はいつになく元気ですからお気遣いなく。あなたからのお話が聞けるこのような機会、逃すわけには参りません」
そうだ、メモを取らねば……などと呟きながらふらふらと立ち上がって室内を見回した彼女は、急にエリオスの方に向き直った。
「エリオス様!!」
「んん?」
「ここでは十分にお話が伺えません」
「そうか?話ぐらいどこででも……」
「私の執務室に参りましょう」
「執務室?」
「あそこなら大きな机と明るいランプと紙と資料が沢山あります」
案内された部屋は、本当に大きな机と明るいランプと紙と資料が沢山ある部屋だった。こんなに明るくする必要があるのかと思うほど煌々と点けられた4つのランプは片面が金属で覆われており、机側を照らすのに特化している。
机の上に大きな地図を広げた彼女は、嬉しそうに軍団のコマを配置し始めた。
これからさせられるのは土産話か、作戦会議か、戦闘の振り返り反省会かわからなくなってきたエリオスは、彼女が置いたコマの一つを手に取った。これだけ青い円錐の土台に金色の球が乗っている。
「これは……俺か?」
なんでこんな専用品が?と視線で問えば、当の持ち主はきまり悪げに口籠りつつ視線を外した。
「ええっと……あなたからの報告書を読む時に、今はどのあたりかなって考えたりする時にあると便利だったのよ」
「俺が遠征していた西方や北方の地図はろくになかっただろうに」
「ええ。だから、作ったのよ」
彼女が追加で持ってきた地図の束を見てエリオスは絶句した。
なるほどやけに正確に補給が来ると思ったら、オルウェイはこのレベルで征服先を把握していたのか。
……にしても度が過ぎているのでは?
「俺が何をしてきたか話す約束だったが、あなたがここで何をしていたかも一緒に聞かせてもらってもかまわないだろうか?」
オルウェイを世界有数の都市に発展させた女領主は、黒曜石のような目をキラキラさせて、たいそう嬉しそうにニンマリ笑った。
「私達、お互いに少しずつ話をするところから始めた方がいいみたいね」
お互いに語ることも知りたいことも、記憶していることも多すぎて、空が白む頃合いになっても、第一部が終わらなかった。
§§§
エリオスから前夜の顛末を聞いたゴドランの怒髪は天をついた。
「何をやっとるんだ、貴様はぁっ!!」
「しかし……」
「あああ、このバカ者めがぁ〜!」
奥様は、昨夜は少々無理をしたので、午前中は自室でお休みだったと屋敷の使用人から聞いた時には、まさかそんなつまらんことで徹夜したとは露ほどにも思わなかったと、ゴドランは頭を抱えた。
当人同士は充実していたので満足。




