紀行;クルムフィス4
黒ずんだ太い梁が歴史を感じさせる店内は、中二階のある吹き抜け構造で、少数ずつ段差の付いたフロアに分けられていた。観光客で満席だったが、席につくと視界は程よく区切られて、意外に落ち着けた。
「えーっと、ろくでなしの旅行代理店に乾杯?」
グラスを掲げて、彼女は小首を傾げた。私は苦笑して陶器製のジョッキを軽く上げた。
宿の方にはもう一度立ち寄ってみたが、やはりトリプルブッキングをやらかした旅行代理店に連絡はついていなかったし、相変わらず部屋に空きもなかった。
「少なくともレストランの予約は通っていてよかったわね」
「一テーブルだけだったがな」
「一人で食べるより、レディをエスコートできて良かったって思うのはどう?」
宿で小部屋を借りて着替えた彼女は、バックパッカー風から、やや大人びた落ち着いた服装になっていた。私もやや軽い色味の上着に換えたので、私達二人の見た目のチグハグさは多少は解消されていた。
「気分は学生の引率だが、変質者呼ばわりされなければ、この際、なんでもいい」
昼間のことを思い出して顔をしかめた私を見て、彼女はケラケラ笑った。
「そもそも、エスコートというのは、アストリアンレストランのコース料理での晩餐かなにかでの話だと思うがな」
テーブルの上にあるのは、ブルストとチーズの盛り合わせと揚げた芋だ。まごうことなきビールのつまみである。伝統的な大衆酒場でエスコートもへちまもあったもんじゃない。
「なんで未成年の一人旅で、夕食をここにしたんだ?」
「パックで決まってたのよ」
無能な旅行代理店め、顧客のことを考えろ。
私は、本日何回目かの悪態を飲み込んで、ビールで流し込んだ。
「でも、このお店のこういう雰囲気好きだわ。なんだか昔の人になった気分。料理もお皿も素朴でそれっぽいし」
「昔の物は素朴で、現代の物は洗練されているというのは傲慢な先入観だというのはオルウェイ研究者の常識だ。それから現代において大衆的であることはイコール過去における普及品であることを示さない」
「先生、ご講義を承ります」
「うむ」
私は、ビールをもう一口飲んでから、チーズを一片、手に取った。
「例えばこういう黄色いチーズが普及したのは意外に最近だ」
「乳製品なんて、それこそ古代からあるんじゃないの?」
「部分点で正解。アストリアスの初代領主は乳製品を好んで、専用の牧場を作らせたという文献が残っている。ジェリコの"冒険の書"にはチーズの一種に関する話と思われる記述も出てくる。だが、こういうチーズを庶民が食べるためには、経済活動と社会構造が適切に発達している必要があってね」
「貨幣経済?」
「惜しい。もう一息。各コミュニティ内の地産地消以外の、広域商品としての農産物加工品の生産と流通だ」
帝国衰退後の、西方教会の勢力が強かった時期、つまり暗黒の中世には、農地を保有する地方領主と教会の権力が強く、農民は農奴的な地位にあった。各コミュニティはその内部の生産物での自給自足で完結し、庶民が他領から贅沢品を購入することは、富の流出とみなされ領主に厭われた。
教会は質素倹約を奨励し、酒と嗜好品の売買を制限した。
「禁酒令?」
「いいや、専売だ。修道院で酒造を行い、酒場も付属施設で経営した」
「ええっ?」
「アトーラでは一般的だった居酒屋やカフェに相当する民間外食施設は享楽的だと言って禁じられてな。領主や教会が独占経営したんだ」
「嘘でしょ」
「たしかに中世は専門ではないので詳しくはないのだがね。人が集まる酒場というのは噂話と政治談義の温床だから、施政者が見張りたいと思うのももっともだと思うよ」
昼間に話の出た例の市長も、教会に市庁舎を接収されたとき、ブチ切れて決起集会を起こしたのは、行きつけの酒場だったと言われている。酒樽の上に乗って、大演説をぶったらしい。つくづく剛毅な男である。
その後、封建領主の中から、ローゼンベルク家のように、自領の農奴の囲い込みではなく、交易と金融を重視するものが現れて、変化が起きた。
自分の村で食べる以上の生産品を作って、日持ちする商品に加工して、遠方に売って貨幣を稼ぐことが可能になったのだ。
「それは村で作って食べていたチーズを、たくさん作って街に売りに行こうってこと?」
「もう少し根本的なところだ。もし君が農民だったら、自分たちで飲みきれない量の乳牛を飼うかい?ちなみに牛は高価で、飼育が大変で、牛乳は数日で腐る」
「ブタか羊を飼うわ」
私はブルストをかじって頷いた。
「その通り。山地ならヤギもいい。ヤギは乳も出すし、毛や肉もそれなりに取れるから」
だが、ヤギの乳よりもクセのない牛の乳で、ハードタイプのチーズを作ろうとすると大変だ。農耕労働力として使用するわけでもない牛を複数頭、飼う必要がある。
しかもそれは、単に各家庭が一頭ずつ飼っているというだけでは多少問題がある。
「私は、食品は門外漢なのだが、乳を凝固させるには凝乳剤というものが必要らしくてね。その成分は生後間もない子牛から採るんだ。子牛一頭分の凝乳剤で、大量のチーズが作れるのだが、逆に言うと、一個のチーズを作るためにもこいつが必要だ」
「大事な子牛と一個のチーズじゃ割に合わないわ」
「そう。手桶に一杯絞る程度の乳では割に合わない」
材料の問題だけではない。
絞って、丸めて、塩水で洗って、乾かして、カビないように拭いて、ひっくり返して……黄色いチーズができるまでには、手間と時間がかかる。
「しかし、それだけ手間をかけた分、チーズは牛乳よりも日持ちがして、バターよりもとけにくい。交易が盛んになって、街道が再び整備され始めると、そこを行き交う旅人にとって、チーズは貴重な食料となった」
「売れたのね」
「その通り」
食べても美味いが、商品としても大変うまみがあっただろう。
寒冷な気候の中央平原北方と山岳地帯でチーズづくりは大いに発展した。
「もちろん農地を持つ修道院でもチーズは作られ、巡礼が奨励された」
「現金な話だわ」
「同じ土地で作られたワインとチーズは相性がいいらしいよ」
彼女は微妙な顔をして、果汁割りの薄いワイン入りジュースを飲みながら、チーズを眺めた。
「修道院でも子牛を使ったのかしら?」
「聖典で生贄に子羊を捧げる話が出てくるくらいだから、禁忌ではないと思うよ」
彼女がちょっと嫌そうな顔をしたので、私は植物由来の凝乳剤の話をしてやった。
古い文献にはイチジクなどを使った話が出てくる。
「あとは日輪花のオシベも凝乳剤の働きがあったらしい」
「日輪花って、どんな花なの?聞いたことないわ」
「私も見たことがない」
日輪花はオルウェイ関連の文献で出てくる幻の花だ。金色の花弁のキクかアザミに似た花で、花型が太陽に似ていることからその名がついたと言われている。
場所を秘匿された島で栽培されていたらしく、どのような花だったのかは現在、伝わっていない。
「日輪花の種から取れる良質の油は、当時、高額で取引された」
「へーぇ、香油だったのかしら。金色の花の種から取れる油なら、いい匂いがしたのかも」
「いいや。むしろ無味無臭でクセのないサラサラの油だったようだよ」
私は笑って揚げた芋を摘んだ。
「フライが香料臭いのは嫌だろう」
「揚げ油に使ったの!?幻の花の油なんでしょ?」
「オルウェイの揚げ物料理は、魅惑の美食と絶賛されたんだ」
「よくわからなくなってきたわ」
オルウェイを専攻した考古学者の卵は、大抵みんな似たようなことで頭を抱える。自分は一体いつの時代の何を研究しているんだ?と当惑するようなことが次々出てくるのが古代オルウェイだ。
「うーん」
彼女は唸った末に、チーズを一欠片クラッカーに乗せた。
「よくわからないけれど、オルウェイの領主なら時代を気にせずに黄色いチーズだって食べていそうね。乳製品好きだったんでしょう?」
「ハッハッハ。流石にアストリアス地方はチーズを乾燥させるには温暖すぎるよ」
ビネガーで作るタイブや、ホエーを温めて凝固させるようなものが主流だったろうと、私は説明した。
南方から取り寄せた水牛も飼っていたらしいから、フレッシュタイプは今と遜色ないものを食べていた可能性はある。
「あら。でもアトーラの将軍で雪山を越えた英雄がいたんでしょ?高山地帯を含む中央平原一帯を勢力圏に収めて街道を整備していた帝国期には、大規模酪農も地域特産物の交易もやっていそう。帝国期には、街道沿いでの民間外食産業も盛んだったんじゃないの?」
彼女はチーズを乗せたクラッカーに美味しそうに食べた。
「もし私が、乳製品好きなアストリアスの領主なら、街道に早馬を走らせてでも、美味しいチーズを北から取り寄せるわ」
だって、美味しいフライの油をこっそり作るために、島一つ秘匿した人でしょ?と言われて私は唖然とした。
「その発想はなかった」
「金持ちの趣味への無駄遣いって時々常軌を逸しているから」
「ううむ……たしかに初代領主は贅沢品に傾倒した人物ではあるし、それに関する悪評にも事欠かないのは確かなんだが……」
つい眉根を寄せてしまった私を見て、彼女は「なんだか知り合いを貶されたみたいな顔をしている」と評した。
「エルマーレさん。その人、好きなの?」
「偉大な人物だとは思っているよ」
「ひょっとして歴史上の人物が恋人っていうタイプ?」
「バカを言うな」
私の恋愛観は至って常識的だ。
……ただ、偶然これまで適切な該当者が身近にいない環境だったにすぎない。
妙な誤解をされてはかなわないので、私は補足説明をした。
「オルウェイの食に関しては、様々な伝承や、与太話を含む逸話が残っているのだが、その中に"悪徳オムレツ"という料理がある」
「すごい名前ね」
「その命名がくだんの領主様だと言われているんだ。たっぷりのバターを使ったプレーンオムレツでね。当時としてはバターも卵も今よりは高価だったかもしれないが、しょせんはそれだけのシンプルな料理に"悪徳"なんて名前をつけた人物が、金にあかせて贅沢をした享楽主義の放蕩者だとはあまり思えなくてね」
「ふーん……バターたっぷりのオムレツか……美味しそう」
「食べたければオルウェイに行くと良い。あそこのホテル・ミラッジオの名物料理だよ」
「ホテル・ミラッジオって、シエラグループ傘下のものすごい高級ホテル?」
「そこの朝食メニューなんだ」
「朝食!」
シエラグループは、ホテルやカジノ、アミューズメント施設などを経営する複合巨大企業グループだ。実は元をたどるとアトーラの帝国初期に作られた療養施設にまで遡れるという恐ろしく歴史のあるところでもある。エンターテイメントとホスピタリティ一筋で、古代から連綿と生き残ってきただなんて悪い冗談のようだが、保養施設と宴席と賭博場を、ときの権力者に提供し続けたのだと考えると、なんともたくましいとしか言いようがない。
「うーん。超高級ホテルの朝食で、朝からバターたっぷりのオムレツかぁ……………十分に"悪徳"では?」
「そうなのか?」
真顔で頷く彼女に、私はとりあえず最後の1本のブルストを勧めた。食べ盛りの価値観では卵料理も悪徳に入るのかもしれない。
もう一、二品追加で注文して食べたところで、店内に賑やかな音楽が流れた。見ると階下の中央のフロアにあるステージで、民族衣装を着た店員が口上を述べている。
この店の名物のショータイムが始まるらしい。
司会に促されて、店内の客たちは皆、ジョッキやグラスを手に立ち上がった。
「さぁ、皆さん。ご唱和ください!」
地元の言葉による短い決まり文句と、1,2,3の掛け声とともに、全員で乾杯する。
その後はちょっとしたダンスタイムだ。にぎやかだがそれほどアップテンポではない曲に合わせて、希望者はステージで踊る事ができる。近くの席の夫婦連れは手を繋いでステージに降りて行った。
「私も参加したいわ」
「行っておいでよ」
「エルマーレさん!」
もう一杯ビールを頼もうかと思っていた私は、忙しそうな店員を捕まえるのを諦めた。
「では、お手をどうぞ」
「よろしい」
渋々、差し出した手に、彼女はちょっとすました顔で、嬉しそうに手を添えた。
「やった。実は観光ガイドで見て、参加したいと思っていたの。コレ」
そういえば……。
この店の名物のショータイムは好きで何度も来ているが、ダンスまでやるのは私も初めてだった。
ダンスと言っても、手を繋いで左右に揺れる程度のたいしたことのない代物ではあったが、まぁ、一度試しにやってみる分には、存外楽しかった。
もてない男、エルマーレさん。
理屈っぽくて、講釈が長くて、言い訳がましくて、素直じゃない。この色々とダメなところが書いていて楽しい。
え?身につまされるの間違いだろうって?……言うな。
というわけで、チーズとオムレツの話だけで一話終わってしまった。
まだまだ夜は長いです。




