留別
うん、待ってて。
見慣れた天井は、横に誰かがいるだけでまるで違う空間になった。
天井にぶら下がる安っぽい蛍光灯の照明に手を伸ばしても、寝転がったままでは届かずに唯の手は宙を浮く。
先程までの嵐のような余韻はまだ身体の奥底に残っていて、唯は横で考え込む蜂屋を覗き込む。
部屋は暗く、そして静かだ。
一度だけ離れた所にある道路を走る救急車の微かな音が聞こえ、クラクションの音が鳴っただけでそれ以外にはただ吐く息の微かな音しかしなかった。
何から話せばいいのだろう? 明らかに木坂を意識する蜂屋の行動は、唯が桜坂に感じる焦燥感に似ている。
嫉妬と、全てを明かして貰えないもどかしさ。恋人同士になったというのに背を向けて間逆の方向を向いて、それはまるで左右対称のようだ。
近くにいるのに、伝えない無音の「 」
器用なようでいて恋が絡むと途端に不器用になる私達は、気付くとどうにもならない所にまで流されて、たった一つや二つの言葉だけでは補いきれなくなっている。
決意は木坂と別れてからずっと、蜂屋に抱かれている間もそして今も心の中にある。
それは初めての決断の「 」中に入るのは、決して終りにはならない筈の言葉。
出来るのなら、ずっと傍にいたいけれどでも今はきっと無理だ。
「唯」
名前を呼ぶのはついさっきからだ、触れる指の熱さと一緒に蜂屋に囁かれた名前はまだ唯の奥を熱くして鮮烈な記憶に後戻りさせる。
同時に思い出したのはコンクリートにしゃがみ込んだ木坂の姿で、唯はベッドにうつ伏すとマットに顔を付けたまま「はい」とくぐもった返事をした。
蜂屋の横で考える事ではないような気がして、その歪む顔を見られたくない。
私がこの感情を消せば、全てが上手く収まると思っていた。
我慢をして、互いの心を荒らさないようにしたら皆は離れていかないものだと思っていた。
何度も、何度も繰り返す。無音の「 」
何度間違っても私は、どうしてもこっちを選んでしまってその度に壊れていく心を守る為に捨てたくないものを捨てなくてはいけなくなる。
それだけはもう、したくなくて。
この言葉を吐いてしまうと、彼はそんな表情をするんだろう?
怖いような何故か嬉しいようなそんな不思議な気持ちが心の中に生まれては、弾けて消える。
今ですら不安そうに私を見る目、初めてそんな顔を見たよ。捨てられた犬みたい。
「唯」
蜂屋主任?
勝手なのかもしれないけれど、やっぱり私は貴方の心の中にずっといた桜坂を汚したくはないの。
話してしまえば簡単な事は、分かっている。
きっと貴方はそんなことはないと、大きな声で否定して「お前だけだ」なんて言っちゃって抱き締めてくれるんだよ。
わざと桜坂とは距離を取って、打ち合わせもあるのに二人きりにはならない様にして、電話も直接はしない様にするんだ。
それは私が歪んだ顔を見せない様に、
心の中で傷ついていくのを守るために、
蜂屋主任?
五年間の私達の片想いを、そんなことで汚したくはないの。
何年も見てきた貴方が桜坂を見つめる視線に憧れてここまで、好きになった。
いつか、あの視線を自分に向けて欲しくて、ただそれだけでこの五年間の片想いを乗り切ってきたの。
本当にそれだけで何とか乗り切ってきたの。
明日以降きっとまだ続く桜坂の結婚式の打ち合わせは、同期のものだけでも五回ほど。サブ担当である唯が桜坂に会うのは必要その都度、同期との最終打ち合わせは今後一回のみ。
企画書に入っているタイムスケジュールにはそう書いてあった。
なら、私がすることは一つだけ。
うつ伏せたままの顔を上げて、そのまま横で寝転んだまま唯を見上げる蜂屋の頬に唯は両手を付ける。
正面から向かい合えば蜂屋の表情ははっきりと見えて、苦しそうに見上げてくる姿に唯は小さく肩を竦めて苦笑した。
ゆっくりと額を合わせれば、唯の額から蜂屋の熱が伝わってくる。
嫌がらずに黙って唯がするそのままに任せている蜂屋の手の平はそっと唯の腰に回り、唯はいつもとは違うその熱い蜂屋の手の平に安堵する。
大丈夫、絶対蜂屋主任はもう、離れていかないよ。
信じなくては、信じて貰ってからじゃなくては。
少し、この決断は互いにほんの少しだけど辛すぎて。
「ども」
「おう」
間髪いれずに返ってくるのが大好きだよ。
「蜂屋主任、少し会わないでいましょう?」
腰に当たった手の平が大きくぶれた。唯はそのまま蜂屋の顔を覗き込んで、笑う。やっぱり表情は全く読めない、ただ乾いた蜂屋の唇から「どうして」と震える声が聞こえる。
それには答えられないの、ごめんなさい。
どうしても今回だけは私一人で何とかしたいの。
無音の「 」の中に入る言葉を探してみるけれど、上手い言葉は入らなかった。
「ごめんなさい、少しだけ時間が欲しいの」
眉を顰める無愛想な顔、面白くなさそうに唯を見上げる蜂屋の視線を正面からしっかりと返して唯は言を継ぐ。
「電話もしない、仕事で会う時はあるかもしれないけどプライベートでは会わない」
唯の腰を抱く蜂屋の手の平と指に力が入って、唯の腰に食い込んでいく。
奥歯を噛み締める蜂屋の表情は初めて見たもので、唯はその苦しそうな頬に指を這わせた。奥歯が割れてしまいそうで、凄く心配になった。
「全部終わったら戻ってくるから、待ってて」
待ってて、その声に蜂屋の力が抜ける。
その代わりにうつ伏して蜂屋に乗り上がっている唯の頭の上に手が回って、胸に押し付けられる。心臓の動悸が直に聞こえる、早かった。
深呼吸? ため息? どちらか区別がつかないものが、蜂屋の口から出て唯の髪の毛を揺らす。腰と頭に回った蜂屋の手は包むように唯を蜂屋の身体に押し付けて、唯はそのままに任せた。
低く、感情を抑えた声が聞こえる。声の震動が胸を伝わって、唯の頬にぶつかる。
「期間は」
桜坂の結婚式まで。
「二カ月、十月の初めまで」
沈黙が続く、震える蜂屋の指は唯の腰の上で微動だにしない。
もう真っ暗な外と部屋を区切るカーテンに車のヘッドライトが当たった、走り抜けていく車の音。静かすぎてそんな些細な音までしっかり聞こえる。
「絶対に、戻ってくるんだな」
勿論、だから待ってて。
念押しする声に、声を出さずに小さく頷く。
絶対に戻るから、今は。
大きなため息、次はため息なのだとはっきり分かった。
本当に自分と付き合ってから、この人の返事にはいつもため息が標準装備されている気がする。
胸に手を当てて、唯はまた体を起こす。この言葉はきちんと目を見て言わなくては、分かってる。
「大丈夫、信じて。好きなのは、蜂屋主任だけだから」
その声に泣きそうな顔をするのは、おかしいと思う。もっと嬉しそうな表情をしてくれてもいいのに。泣かせるために言った訳じゃないんだよ。
少し噴き出して唯が蜂屋の頬に指を這わせると、その指が蜂屋に掴まれた。蜂屋のその指は小さく震えていて、唯は苦笑する。
「大丈夫、私がずっと好きなのは蜂屋主任だから」
その言葉に、蜂屋の一際大きなため息がぶつかった。
正面から向き合ったから、互いの視線が絡み合う。真意を探るように長く真っ直ぐ見詰めてくる蜂屋の視線を逸らさずに返して、唯はほほ笑んで見せる。
回った腕に少し力が入った。
沈黙を、掠れた低い声が破る。短い返事だった。
「分かった、待ってる」
うん、待ってて。




