伴走
壊れていくものを、ただ見ていることしかできないのか。
「大丈夫ですよ!」
「何言ってるんですか!」
「気にしないでください!」
いつの頃からかそういう声しか聞かなくなっていた。
時折、俯くらしくない顔。打ち消して、無理笑って見せるのをいつからか頻繁にするようになって、少しずつずれていくのを感じていた。
ただ離せば、笑顔を守れるのだと安易に考え過ぎて壊れていくのを黙って見ていた。背中に突き刺さる視線、振り返ればきっと淀みなく真っすぐとした視線でこちらを見ている。
今にも泣き出しそうな表情をして、奥歯はきっと噛み締めて。
笑う声、無邪気な表情。傍にいようとするだけでここまで壊れていく姿は、引き寄せるとどこまで突き進んでしまうのか。想像も出来ない恐怖は繊細な彼女へと向かう。
離れた方がいい。
離した方がいい。
今はきっと、泣いて誰かに救いを求めるのかもしれない。でもきっとそこで受け止めて貰えて、笑う姿は自分の前から決して消える事はないと、高を括っていた。
六歳下を甘く見ていた自分が、思わぬ姿で会社のパーティーにやってきた彼女を見た時に初めて感じるのは焼け付く独占欲だった。
深紅のワンピースから隠す事もなく見えるのは、白い項と鎖骨。横で設計課の同期が体を乗り出すのを、殺したいほど憎く思う。
少し肩を竦め、木坂に微笑む姿。
恥ずかしそうに、胸元を隠す姿。
ずっと守ってきた後輩のラインが崩れていくのを感じる、ただ誰にも触れさせたくはない。いつ話しかける、いつ時間をつくる? ただそれだけを考えて、落ち着くために煙草を吸い続ける。
どこかに連れ込んでもいい。気付くと彼女を探す視線は、時折絡むように感じる。
ただ、やっぱり絡む瞬間に、彼女は苦しげな今にも壊れてしまいそうな表情を浮かべる。
「……おう」
「ども」
グランドホールから控室の小ホール手前の廊下で、初めて顔を合わせて挨拶をする。視線があった瞬間にため息をつかれ、少し苛立った。
会いたくなかった、とでも思っているのかと思った。誰に見せるつもりだった? らしくない大人びた服装に、集まった男の視線を思い返す。全く分かっていない、ただ男勝りに見せているだけで十分眼を引ける女なのだということに気付いていないのがまた腹が立つ。
分かっている、ただの嫉妬だ。
どうして木坂に向ける様な、安心した笑顔を俺には絶対に見せない。
「その格好、どうした」
言葉を選ばない自分の言葉に怯えながら振り返る姿、見上げる表情は誰もいない廊下では少し抑えるのに枷が足りない。
せめて、目を逸らす。
傷ついた顔をされるのも知っている、どうしたらいい? 受け止めるべきか?
俺は壊れていくものを、ただ見ていることしかできないのか。
後輩という言葉は一番強かった、絶対に離れない。絶対に逃れない、知ってて引き寄せた。でも傍に寄せれば寄せるほどに、壊れていくのが分かる。
無理をして笑う。一体何を隠しているのか、隠される。
誤魔化される。絶対に見せない弱さの陰で引き裂かれていくのが見える。
時折俯く。望むのは恋愛感情なのか、それともただ安心できる上司としての俺なのか。
「へぇ、離したんだ」
鈴木に言われて苛立つ。だらだらとどちらにもつかず繋がったものを掴もうとする自分の姿が、奴の気に障ったらしい。
離すつもりはなかった。手離さないと思ったからこそ上司としての自分ではなくただ男として見て貰うつもりだった。彼女がどちらを望んでいるかは分からない、ただ近付き過ぎると泣きそうな顔をして見上げる。
その意味が知りたかった、はずだった。
『出向 春日 唯』
そのファックスと同時に、同僚の片岡からノートを渡される。無言で渡されたその中には、機械関係を細かく写真付きで説明してある丸い文字。
最後まで、ずっと書いてあるその文字。
どうして、何も言わなかった。
もう、出向してしまうと俺は上司でもなんでもないのか。
噛み締めた奥歯と、握り締めた拳が悲鳴を上げる。守ってきたはずの物が壊れる前に消える、その想いは桜坂の時にも経験していて、気付くと手から擦り抜けていくのは一種のトラウマに近かった。
お前は俺の物だ、とはっきり言ってしまう程自分にも自信が無く、振り返る度に泣き出しそうな彼女の表情を見る度に心が揺れる。
引き寄せたい、腕を払おうとはしてないか。
触れたい、また泣きそう泣顔をするんではないか。
歳の割に臆病で情けない心が躊躇を促してくる。死ぬ気で電話したものの、出る気配もなく途方に暮れた。会う為に、会えるようにきっかけを作るにはどうしたらいい、同じ会社だった時にはこんな簡単な事がこんなにも難しい。
本社を見上げてほほ笑む姿。
ただ毒気を抜かれて、それを十数秒見詰めた。たった一ヶ月ちょっとしか会っていないはずのその姿は、少し痩せて髪も少し伸びている。
小走りで掛けていく姿に、思わず声を掛けた。ただ顔が見たかった、それだけで。
一瞬立ち止まったかに見えた姿は、聞こえているはずなのに足を止めない。珍しく思いっきり走って、彼女の腕を掴んだ。
細い、このまま引き寄せるか?
突然噴き出した顔や話し始める顔は、離れる前よりもずっと大人びていて、置いてかれたのは自分だったと気付く。
「じゃあ、私もう帰りますね! 明日、展示会ブース設置で早く起きないといけないんです」
行くな、簡単な一言が言えない。
また、嘘を付いているのが分かる。無理やりここから逃げようとしている、すぐに分かった。
「蜂屋主任も、早く帰らないと遅刻しちゃいますよ!」
春日、どうして俺から離れようとする。
どうして、そうやって俺の前だけは顔を作るんだ。
「春日、俺は」
お前の事を。
春日に会ったのは、桜坂と別れてすぐの頃だった。
正直会社で相手を探すと色々あると知ったせいもあって、春日にあった時も最初はそんなつもりなんて皆無だった。面倒な仕事だ、営業の仕事に戻りたい。そればかりを考えながら、ずっと新入社員を見比べる。
どれも同じ感じだ、皆揃いも揃って紺かグレーのスーツ。真新しいスーツに光った靴。その横には鼠色の制服姿の女性社員、一番前にいる女だけが文句がありそうに制服のベストをいじっている。
ああ、男の俺から見ても全く色気のない制服だと思う。
そう言ってやろうかと、俯いた姿を見ると突然顔を上げた。
丸い目、驚いた表情で挨拶される。見上げた時に、ベストがそのまま上がって、スカートのファスナーが見える。
気のせいかも知れないと思いなおして、前を一度見る。
女は着替えた後に自分の姿を見たりしないんだろうか? どう考えてもファスナーは全開だ。
言ってやるべきか、躊躇しながらも指示してくる営業課の上司と少し話をする。新人を第一会議室、その前に社員バッジを渡すように、指示された言葉を復唱しながらも元の場所に戻って、また確認の為に視線を向ける。
やっぱり、開いているような気もする。
言わなければ良かった、後悔したのも初めてだった。人が気を使って小声で言ったのに大声で叫んできたせいで、後から数時間上司に大目玉をくらったのはこっちの方だった。
最初は、変な女。
男勝りで、妙に気さくで、時折吃驚するほど繊細な表情をする。前に勤めていた会社を人間関係で止めたと聞かされた時、似合わないと一瞬でも思ってしまうほどに被った仮面は強固なものだった。
嫌な事、面白くない事、辛い事は絶対に表面に出さず自分の中で消化しようとする。
それは、ただ感情的に別れを告げてきた桜坂とは全く間逆で、恋愛対象とではなく興味が湧いた。誘えば居酒屋にも着いてくる、仲がいいらしい自分の後輩の木坂と馬鹿をして騒ぐ姿は小型犬に似て微笑ましい。
笑う、騒ぐ。全てが真っすぐに向かう感情の中に負の物はない。
泣く、怒る、叫ぶ。本来であれば微かにでも見えるはずのそれは春日には見えなくて、いつのころからか心配になった。
そこまで内に秘めると壊れてしまう、守るつもりで引き寄せた。営業課の自分が傍にいれば前の会社の様に上司に嫌がらせを受けることもないだろう、本当に安易な考えだった。
もし、誰か好きな男でも出来たのなら手放せばいい。
そう思って、引き寄せ過ぎたのに気付いたのは五年後の事だ。
泣きそうな顔、苦しそうに歪ませる顔、何かを言いたげに俯く顔。
見たかった顔ではない表情ばかりが自分の記憶を侵していく、可愛い後輩だったはずの存在はいつの日か立場が変わり、日々幼さと男っぽさが抜けていく春日の姿に焦燥を感じる。
嫌がらせを受けないようにと傍にいた理由は、ただ男を近づけない為だけの牽制となって、背中を見つめてくる春日の手首だけを掴む。
泣きそうな顔。
ただ俺が受け止めるだけで、笑顔になるのか。
苦しそうに歪ませる顔。
恋愛感情に俺はもうとっくになっている事を伝えれば、壊れないのか。
何かを言いたげに俯く顔。
望んでいるのは、上司としての俺か。それとも男としての俺なのか。
図れない真意は言葉遊びの様にぶつかって、引き出せないもどかしさにただ悶える。
「……もう。いい加減、俺はやめろ」
お前が壊れてしまう、一瞬で苦しむだけなら木坂でもいいだろう?
「そんな辛いなら、止めろ」
嘘だ、離れるな。
声が聞きたい、触れたい、抱きたい、抱きしめたい。ただ躊躇するばかりで抑え込んできた想いがぶつかる、もう引き寄せたら離せない。
逃げるのなら、閉じ込めても構わない程の独占欲。
「そんな、簡単には行きませんよぅ」
知っている。
「責任、取って下さいよぅ!」
取れるものなら取りたい。
「じゃあ、なんで傍に置いておいたんですかぁ!」
俺のエゴだ。
「本当に恋愛対象には見れないんですか? 絶対にもう期待は出来ないんですか?」
「あと何年でも待ちます、もう五年も待ったんだから後五年でも十年でも!」
「諦めるなんて嫌だよぅ! もう後輩でも子供でもいいから」
ああ、振り切れる。
制御する脳みその管轄を離れて、手が春日に伸びる。振り切った反動はそのまま唇に向かって、切望した柔らかい唇を堪能する。垂れた唾液を舌で舐め取って、離れたくない衝動を自制心フル稼働させる。
「きっと、泣くぞ。俺は女の扱いは上手じゃない」
逃げを作る自分が情けない、先に言っておかないといけないと思った。桜坂に振られたのはそれが原因だ。
「不安に思って、離れたくなってももう無理だぞ」
今手に入ったら、逃がすつもりはない。
恋愛対象なんて、もうずっと前からそうだった。ただ、互いの言葉が上手じゃなくて伝わらなかっただけだ。もっと前から、互いに逃げなければもっと前に触れることが出来たかもしれないのに。
違う、まだ分かっていない事がある。
春日の俺に対する気持ちと、俺が春日に持つ感情は違う。
全てをさらけ出さない姿勢は変わらずに、きっと傍で春日は顔を歪ませる。
どうしたら、弱さを見せてくれる?
ずっと待っているのに。
ほら、また苦しそうに俯く。
声が聞きたい、全てを見せてくれないと受け止められない。
「どうか、したのか」
その声に、ただ首を振る春日の姿。
俺は壊れていくものを、ただ見ていることしかできないのか。
傍で守りたいと思うのは、俺のエゴか。




