黄都 その6
キアがイズノック王立高等学舎で学び始めて、大三ヶ月が経とうとしていた。
イータ樹海道という未踏の秘境の生まれであるキアは、今も奇異の目で見られることがある。
学校教育は本来、王族や貴族の子息子女のために設けられたものである。市民に教育の門戸を開きつつある黄都においても、学生は良家の人間が大半の割合を占める。
森人のキアは一回り下の初等部に通い、それでも同級よりも成績は悪かった。
加えて言えば、生まれ持った傍若無人の気質も変わることはなかった。
しかし……
「キア! 一緒にお昼にしましょう」
「さっきの問題を一人で解いたの、凄かったわ。キア」
正午休憩の時刻だ。今日も、何人もの女生徒がキアの席へと集まってくる。
無礼な森人の少女は、不思議なほどにこの新しい世界に受け入れられていた――あるいは、そこには別の理由があったのかもしれないが。
キアは、少女たちの一団の中に佇む一人を見た。
「……」
白銀に輝く滑らかな髪。得体の知れぬ深みを湛える、大きな瞳。
キアは人間の美醜の程度には無頓着だが、それでも彼女がこの年にして、他の少女とは全く異質の存在感を備えていることはわかる。
名を、セフィトという。
人族を統べる女王。あの日に見た天上の御殿に住む、いわば天女であった。
「ねえ」
頬杖を突いたまま、煩わしげに言った。この数日、キアはずっと機嫌が悪かった。
「女王様、迷惑してるんじゃないの? あたしと話したいわけじゃなさそうだもの」
――セフィトは思い描いていたような女王ではない。彼女が同級だと知ったときは嬉しかった。あの夢のような景色の主であるなら、どれほど輝かしく、どれほど幸せを与えてくれるのかと、期待を抱いてもいた。
しかし、彼女の大きな瞳を覗き見れば、そこにはいつも絶望の影があった。
彼女のような者が上に立つ国は、きっと滅びるとしか思えなかった。
セフィトは四つも上のキアよりも遥かに賢く、同級の誰よりも優秀であったが、キアにとっては、理想を裏切るほどに陰鬱で、表情に乏しく、気が滅入るような少女でしかなかった。
「そんなことないわよね、セフィトさん?」
「セフィト様は、森人のご学友を分け隔てられたりはしないわ」
「キアさん。女王様は物静かですけど、本当は、仲良くしたいと思われているのよ」
さらには……彼女の取り巻きが執拗にキアを輪の中に引き入れようとしているのも、どこか気味が悪かった。
それならば、当然の成り行きとしてそうであるように、同級の少女たちの中で孤立し、あるいは虐められていたほうが気は楽であったかもしれない。敵がどれだけ多くとも、戦えばキアは無敵の自信があるのだから。
学校がただ居場所がないだけの空間だったなら、キアは迷わず逃げていただろう。
「……ごめんなさいね、キア。よろしければ、一緒にお昼をいただきましょう」
「…………。女王様が、『ごめんなさい』なんて使わないでよ」
あるいは、エレアが裏で余計な気を回しているのではないか、と思うこともある。
この街での彼女は、黄都二十九官なる高い役職にあったことを、つい最近になって初めて知った。
それが具体的にどのような仕事をしているのか、キアが興味を抱くところではないが、ならば何故あのような境遇に甘んじているのだろうとも思う。
食堂へと向かいながら、帰る家のことを頭に浮かべないようにする。ますます機嫌が悪くなるからだ。
黄都の街には、まだ楽しい物事がいくらでもある。女王の取り巻きではない、新しい友人もいる。今日の帰りには移動遊園地に行こう。西区画のほうで砂人の見世物もあると聞いている。それにこの学校の配給食だって、量は少ないけれど、故郷のイータよりもずっと上等だ。
「女王様って、いつもそうなの?」
「……何かしら」
食事の手を止めて、白い首を小さく傾げて、キアを見る。
そういうところだ。キアは机に肘を突いているし、フォークすら手で握り込むように持っている。
「ずーっと、姿勢を伸ばしたままで。疲れないの? 女王様の食べかたなら、膝にナプキンを引かなくたっていいじゃない」
「そうね」
セフィトは殆ど表情を変えぬままで、長い睫毛をぱちぱちと瞬かせた。
落ち着いた口調で言った。
「疲れるわ。とても」
「……べつに、女王様がそれでいいなら、どうでもいいけど」
キアは自由でいたいと思う。その心はイータ樹海道の日々と、何も変わらない。
ポケットの中から三粒の果実を取り出して、一つを口に放る。
取り巻きの一人が、それを咎める。
「あの……キアさん、それは? 食べ物なの?」
「え? 中庭の黄柳草でしょ。食べるから育ててたんじゃないの?」
「黄柳草……って。食べていいのかしら」
「さあ……?」
イータでは普通のことだった。彼女たちにとってはそうではない。
顔を見合わせる少女たちを横目にして、隣に座るセフィトに、一粒を差し出す。
「……どうせ。女王様は、食べたことないでしょ」
「……」
じっと据わった目で、セフィトはキアを眺める。その視線が苦手だ。
薄桃色の果実を受け取って、首を少し傾げて微笑む。
「ありがとう。いただくわ」
キアは溜息を付く。やはり、そういうところだ。
(……本当は笑ってなんかないくせに)
そうしてしばらくの間、気まずい昼食が続いた。
料理は美味しく感じる。周囲の重圧くらいで、キアの感じる味は変えてやらない。
けれどそんな静けさの中、遠くで教師たちが話していた言葉を、キアは聞き取ることができた。
「……イータ樹海道? 本当か?」
「ああ、動くのは六合上覧が終わった頃らしい。軍が侵攻を……」
キアは席を立った。
故郷であるイータの名がこの黄都で挙がることは少ない。
ならば、聞き間違いなのだろう。それを確認しようと思った。
「キアさん? どうしたの?」
「悪いけど、席を外すわ!」
大丈夫だ。一言の断りを入れられるようになっただけでも、成長しているはずだ。イータにいた頃の彼女であれば、何も言わなかった。
食堂を抜けて、廊下を行く教師たちの背中を追う。彼らは話し続けている。
「つまりは、資源の開拓ということだろう」
「昔と違って、黄都に住む森人を奴隷に引き立てるのは、色々とうるさいだろうしなあ」
「待って!」
キアは、思わず叫んだ。二人の教師が止まる。
息が荒い。やはり、王女とは違う。礼儀や行儀などを身につけることはできない。
曲がり角に勢い余ってぶつけた脛を、僅かに擦りむいてもいた。
「イ、イータが……どうしたの?」
「君はどこの級だ? 廊下を走るのは感心しないぞ」
「はぁ、はぁ……せ、世界詞のキアよ! 今の、話って……」
「知らない名だな。それに今は正午休憩中だ。個人的な話題の詮索はやめなさい」
「ま、待って……待ってよ!」
きっと嘘だ。彼らは、キアの出自をきっと知っていた。
だから何も教えてくれなかった。本当のことだからだ。
「嘘……嘘でしょ……嘘……!」
素晴らしい街だと思った。今でもそう思っている。
学級には馴染めなくとも、笑顔で会話を交わすようになった市民は沢山いる。まだまだこの街を見ていたいと、昨日まではそう思っていた。
――黄都の軍が、彼女の故郷に攻め込むというのか?
キアには無敵の詞術がある。戦えば誰にも負けない。
黄都の全軍が相手でも、そうであるかもしれない。
けれど、本当にそんなことをしなければならないのか?
「う……うう……!」
学舎を飛び出す足を止められなかった。
話さなければ。エレアに、それが本当かどうかを確かめなければ――。
(……エレア、エレア! 本当に偉いなら、止めてよ……! あんたは、何をしてんのよ!)
きらびやかな日常の町並みが、走る視界を無機質に流れていく。
エレアが待つ、共同住宅の一つへと辿り着く。
イータは古臭くて、不便で、黄都に比べれば悪いことばかりの故郷だ。
それでも、彼女にとってはただ一つの……
「ふッざけんなエレア! ハハッ、簡単な言いつけ一つ守れねえのか、役立たず!」
部屋の中からは、机を蹴り倒す音が聞こえた。
幼いキアは、躊躇なくドアノブに手をかける。
剣幕に怯えることはない。どうせ、くだらない男だ。
「……ごめんなさい。揃えられるだけの剣は、揃えたのですけど……」
「言い訳するんじゃねェーよ……な? ただ頭下げりゃいいんだよ。いいか? 魔剣だよ。魔剣持ってこい。こんな程度の剣で、ロスクレイに勝てると思う? お前ごときの足りない頭じゃそう思うわけ?」
「けれど……準備を手助けするといっても、限度が……」
「おーっし、そりゃ、まだ仕置きが欲しいって言ってんのか。ハハハハッ!」
「やめなさいよ」
キアは、ずかずかと部屋に上がって、その男の前に立ちはだかった。
細身に見えるが、鍛え込まれた体と、歴戦を物語る酷薄な眼光をしている。
キアは人間の美醜の程度には無頓着だが、この男の下劣さに関してなら、この大一ヶ月で嫌というほどに理解していた。
「それ、楽しい? 怒りたいから怒ってるの? よく飽きないわね、ジヴラート」
「おーい……なんでキアがここにいるんだよ。ハハ! こんな時間にさ」
「別に。いつ帰ってきても、あたしの自由じゃない」
ギルド“日の大樹”首領、灰境ジヴラート。
彼こそは小一ヶ月先に控える六合上覧の参加者であり、エレアはその擁立者として、彼を同じ家に住まわせている。
子供を侮るニヤニヤとした笑いを浮かべながら、彼は肩をすくめた。
「安心しろ。俺はガキには怒らねェーよ。ガキは素直だからな。こいつみたいな、女の悪賢さとは違う」
「そういうこと、言ってるんじゃないんだけど」
「止めてほしいか?」
ジヴラートは、部屋の片隅にうずくまるエレアを一瞥した。
彼女の心に苛立ちが湧いた。毎日のようにこんな仕打ちを受けて――もしもキアだったなら、絶対に耐えたりはしない。
「どっか行きなさいよ」
「ああ。そうするか……なッ!」
エレアの背に、もう一度蹴りが叩き込まれた。濁った呻きが漏れる。
キアはすぐさま駆け寄った。
「ちょっとッ!」
「あーあ、楽しみの続きは外でやってくるか。いいよな? ……俺はガキの頼みは、聞いてやるのさ。優しいだろ?」
去っていく背中を前に、奥歯を噛んだ。もしも一言『破裂しろ』とさえ言えば、彼を痕跡も残さず抹消することができただろう。
けれど、それを止めるように教えてくれたのは、他でもないエレアだ。
「……ばか。何なの? 最低、最低、最低! あいつ……本ッ当に最低だわ!」
「……。大丈夫。先生は、大丈夫ですよ。けほっ! キアさん、し、心配かけて、ごめんなさいね……」
「また、ああ、もう……! なんで皆、あたしに謝るわけ!?」
罅の入った眼鏡を直して、エレアは無言でキアの背を撫でている。
それも腹立たしかった。彼女は無敵の力を持っていて、誰の慰めもいらなかった。
抱きしめる体温を感じながら、言葉を絞り出した。
「……ねえ……! ねえ、エレア……。イータが、侵略されるって……軍が来るって、本当なの……? あたしの育った村なの……あたし……!」
「それは……」
「本当なのね?」
「……」
美しいものばかりではない。この世界には、ジヴラートのような者もいる。
暴力を行使することに一切の躊躇を持たぬ者が。きっとそんな人間が、彼女の故郷を蹂躙しようとしている。
分かっている。彼女はもう、無学なただの森人ではない。世界の仕組みを学んできた。あまりにも大きな世界の流れの前では、彼女はただの無力な子供だ。
「……あたしを出してよ」
「何を……言うの」
「あ……あんな奴の代わりに、あたしを出せばいいじゃないって言ってるの! 六合上覧に出れば、どんな願いも叶うって言ってたわ! 負けないのに! エレアだって知ってるでしょ!? あたしは、あたしの力は……! 戦いなら、あたしは……絶対に、誰にも、負けないのに……!」
頭を強く抱き寄せられた。キアの顔は、エレアの柔らかな胸元に沈んだ。
ひどく傷つきながら、エレアはそれでも穏やかに諭した。
「……いけませんよ、キア。あなたは、先生の一番大切な……教え子なんですから。だからもう、そんな危ないことを言ってはいけません」
「でも……だって……悔しいよ……!」
「大丈夫。ジヴラートが勝てば、すべて上手く行きますから。あなたの故郷も……あなた自身のことも。だから、先生も頑張ってるの。分かってくれる?」
「分からない。分からないよ……!」
……きっと、そうなのだろう。
こんなにひどい扱いに耐えているのは、エレア自身も暮らした、あのイータを救うためだ。だからキアこそが、今は耐えなければならない。彼女は無敵なのだから、涙を流したりもしない。
どうしても考えてしまうことを、抑え続けなければならない。
戦えば勝てるのに。その機会があれば、ロスクレイすら倒せてしまうのに。
『死ね』と一言を告げるだけで、彼女に勝てる者などこの世にはいないのに。
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〈――第十七卿。獲物は上手く感づきました。昼頃、廊下で呼び止められましたよ〉
「ええ。ありがとう。任務は以上です。王城試合の終了まで、こちらとの連絡は断つこと。よいですね?」
〈はい。ふふ……いや、割のいい仕事でした。ありがとうございます〉
夜の闇が差し込む一室で、エレアはラヂオの通話を切る。
先日、対戦組み合わせも決定した。全てが、彼女の画策通りに推移している。
キアは決して愚鈍なだけの子供ではないが、長く付き合ってきたエレアであれば、彼女の思考の程度は、十分過ぎるほどに理解できている。ましてや彼女に教育を施したのは、そのエレア自身だ。
軍の襲撃目標など、本来は学校に漏れるはずのない重要機密であると気付くこともないだろう。それに思い当たるよりも先に、今日の会話で、彼女に確信を持たせることができた。
「……私は、母さんとは違う。資源は、形に見えるものだけじゃない」
黄都第十七卿、赤い紙箋のエレア。イータ襲撃の責任者は彼女自身だ。そして彼女ならば、イータが襲われるという情報自体をも、資源として利用することができる。
世界詞のキアが故郷を守る道筋を、そうしてただ一つに絞り込んでいく。
右頬の痣を撫でる。灰境ジヴラート――彼もまた、必要な駒だ。品性に劣る者であるほうが、むしろ動かしやすい。何よりもいずれ切り捨てる時に、一切の未練を持たずに済む。
(けれど、想像よりも賢すぎるかな……)
恐らく彼は、遠からず……あるいは既に、ロスクレイ陣営に懐柔されているはずだ。傍からはそれだけ与し易い相手に見え、事実そうである。
敗退することで、勝利した時以上の報酬を受け取り、最強の騎士を相手に渡り合ったという経歴の箔付けを行うつもりだろう。そうしたことを、強さと考えているような男だ。
魔剣などという無理難題を押し付けてきたのも、万一の場合に調達に成功したならば、それを手土産とするつもりと考えれば筋道が通る。
あるいはジヴラート以上に愚かな――絶対なるロスクレイを相手に、本気で勝利できると思い込むような者は居たのかもしれないが、十分な知名度と戦力を備え、僅かな時間で引き入れられる者となると、条件はさらに限られてくる。恐らくジヴラート以上の適任者は、エレアの自力では見つけることはできなかったであろう。
エレアは、また新たな相手への通信を開始する。
六合上覧が始まるその時まで、味方はいない。ただ一人で戦わなければならない。
(……だから、ジヴラートは捨てる想定にしないと。最初の試合には勝たないと……ロスクレイだけは負けさせないと……いけない)
それがたとえ表向きの建前であろうと、黄都二十九官は、本来はただ一人の出場者を支持している。
絶対なるロスクレイ。他の各々の擁立者を除いたとして、彼の支援者は、依然として最大の勢力である。
だからこそ、何よりも彼が与し易い相手を表向きに擁立した。
真っ先に最有力の候補を潰すことで、最大の派閥を崩して取り込む。
女王がキアの友人となるように、学校に手を回してもいる。教育機関はエレアの管轄などではないが、内に入り込み腐らせる赤い紙箋の力を以てすれば、容易いことだ。例えば今日、教師を介してキアに情報を流したように。
女王の一言があれば、公式の『勇者候補』など簡単に覆る。
圧倒的な力は、既に彼女の手の内にある。残るは後ろ盾のみ。
――残り小一ヶ月。味方はいない。
六合上覧の試合が始まる前に、一人で、全ての陰謀を整える。
(まずは、ロスクレイ)
星空の下で、エレアは静かに目を閉じる。暗闇の先にこそ、きっと光がある。




