距離を確保しましょう!
あの後、部屋へ転移した私たちを迎えたのは、チェリの声にならない悲鳴でした。
そういえば血まみれだったなと、そのわけを説明する前に、私は服をひんむかれました。早業でした。ガンガーラの服は脱がしやすかったようで、止める間もありませんでした。
下着姿の私をくまなく確認して、怪我がない事がわかると、チェリは茫然と彼女の行いを見ていたクラウドに蹴りを入れました。脛を押さえて蹲るクラウド。クラウドの方がもろに血を浴びていますので、怪我を心配すべきなのは、彼の方なのですが。
それからすぐに浴室へ連れていかれ、丁寧に全身を洗われました。いつも冷静なチェリが涙目だったので、何があったのかを話し、心配をかけたことを謝罪しました。
それから半月、何事もなく、いつも通りに過ごしています。
何事もない。
そう。王弟殿下からの呼び出しもなく、生殺しの日々が続いているという事です。
「はああぁぁぁぁ・・・・・・ああっ!」
ため息からの叫び声に、膝の上のオニキスが頭を上げました。その体の上に、私は倒れこみます。闇色の背に頬を押し付け、目の前にあった前脚の肉球をにぎにぎしました。
「癒される・・・」
オニキスはふんすと鼻を鳴らして、また私の膝の上に伏せます。いつもならこのまま穏やかに時が過ぎるのですが、数日前から様相が変わってしまいました。扉が開く音に、自然と眉間にしわが寄ります。
「何? どうしたの?」
許可もなく待機場所である廊下から、部屋に入ってきたレオン。私は顔も上げずに扉を指さしました。
「ハウス」
「ひどい! 僕たち、友達でしょう? ねぇ、カム?」
さらに許可なく、レオンは私の隣に腰かけました。
相手は伯爵令息であり、私に危害を加えようとしているわけでもないため、クラウドは扉横にむっつりと控えたままです。私が命じれば、即刻叩き出してくれるのでしょうけど。
「そんな覚えはありませんが・・・」
仕方なしに起き上がり、オニキスとは反対側に座るレオンに視線を向けます。無表情で見つめると、見る間に金の瞳が潤み、涙があふれました。
「なんでっ?! レグルスが静かでも、僕は嫌われたままなの?!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、私の腕に縋りついてきます。美少年が泣きながら上目遣いで見上げてくるため、事実を言っただけだというのに、罪悪感に苛まれてしまいました。
これ、護衛交渉の時の9歳児らしからぬ様子から演技だと思っていたのですが、オニキスによると本気で絶望しているらしいのです。幼少期に親や周囲から与えられなかったためか、貪欲なまでに愛情を求めていると言っていました。それを私に求めるのはやめていただきたい。
「嫌ってはいません」
「ほんと?! カム大好き!!」
仕方なしに慰めれば、レオンが飛びついてきました。ぎゅううっと私の脇の下に手を回して抱きしめてくるので、やれやれと思いながら頭を撫でます。この状況は不本意なのですが、オニキスが契約してくれなければ私もこうだったかもと思うと、レオンを拒絶しきれないのですよ。
私を見上げたレオンが、幸せそうに笑いました。
「やっぱりカムはいい匂いがするね」
「・・・」
母親というものはいい匂いがするものですが、私はレオンの母ではありません。ですから私に母性を求められても困ります。
だいたい友人であろうが、異性に対してこの馴れ馴れしい態度は問題です。
すでにこの数日間で何度も注意したのですが、レオンは何がいけないのかが理解できないようなのです。今まで親、兄弟、周囲の人間から必要以上に距離を置かれていたせいか、他者との適切な距離が計れないというか・・・レオンのパーソナルスペースが狭すぎる様なのです。
私の隣に座ればべったりと張り付き、喜ぶと抱き着いてくる。私といる限り、私以外の人間と接触することはほとんどありませんが、他の人にもやってしまう前に、これは早々に改善すべきだと思います。というか、常識くらいちゃんとしつけておいて欲しいものです。諜報活動スキルよりも優先的に!
「ねえ、カム? 何を悩んでいるの? 相談にのるよ?」
今の悩みは貴方です。って言ったら号泣しそうなので、黙り込みます。口をつぐんだ私の顔を覗き込んで、レオンが首を傾げました。
「ね? 僕に話してごらんよ。きっと役に立つよ? ううん。役に立ってみせるから!」
そうは言ってもですね、他の悩みを話せば私の秘密もばれてしまうのですから、ホイホイと相談なんてできません。
それにしても・・・レオンは9歳ですし、適度に私を見張るだけで普段は屋敷内をプラプラしたり、出かけるときは付いてくる程度の護衛任務だと思っていました。なのに一日中、真面目に扉外に控えているようで、やりにくくて仕方がありません。レオンが来てからというもの、自由が制限されてしまって、だいぶ私のストレスも溜まってきました。
「ねえ、カムはなんでガンガーラの王弟のことが知りたいの?」
「・・・なぜ?」
「だってこの前、侍女と話していたでしょう?」
どうやら聞き耳を立てていたようです。そんな薄い扉でもなく、壁もそれなりに厚いのですが、どんな聴力をしているのでしょうか。
・・・もういいかな。こう真面目に張り付かれては、どうせいつかバレてしまうでしょうし。うん。いいや。レオンには私に都合の悪いことは話せないよう、状態異常が付与済みですから大丈夫だと思います。
「ガンガーラの王弟に弱みを握られました。それを反故にする代わりに、望みをひとつ叶える約束です」
なんでそんなことになったのかとか、そもそもどうやって知り合ったのかをすっ飛ばして、結論だけ話してみました。隠そうとしたわけではなく、単に面倒だっただけです。その説明から始めなければならないのかと、うんざりした気持ちになっていると、レオンが嬉々として答えました。
「ガンガーラの王弟のお願いなら、予想できるかも!」
それまで私に抱き着いていたレオンが、居住まいを正してソファに座り直しました。まだ近いですけど。
「えっとね、ガンガーラ王の病を治して欲しいんじゃないかと思うんだ! 王弟は結構無欲な人だからね。王位も欲しがっていないし、金銭に興味もなければ、男色だって噂があるくらい女性にも関心がない。その彼が唯一気にかけているのが、兄王のことなんだよ」
王弟については噂にもありましたし、チェリもそう言っていましたので知っています。しかしガンガーラ王が病に伏しているとは知りませんでした。
考えていることが顔に出たのか、レオンが笑います。
「緘口令が敷かれているからね。これを機に戦争を!って騒ぎだす馬鹿もいるだろうし。ガンガーラ王はなんでも、治癒術師では何ともならない、不治の病にかかっているらしいよ。そのせいで跡継ぎもできないんだって」
「それは確かですか?」
「もちろん!! だって父上のとこに入ってきた情報だよ。父上は僕が時々、執務室に忍び込んでいたことや、盗み聞きしてたことに気付いてないんじゃないかな? 人から一定の距離を保てば、気配を察知されずに行動できたことも知らないだろうし」
さすがペンタクロム家の御令息と言うべきなのでしょうか。暗部の頭領であるお父上、ペンタクロム伯爵の執務室に忍び込んで情報を得ていたなんて。惜しげもなく機密事項を話してくれるのは、どうかと思いますが。
しかし今の話し方は私に治癒ができると思っているような口ぶりです。どこまでバレているのかな。
「どうしたの?」
「・・・いろいろ聞かないのかと思いまして」
「あぁ。諜報活動では、任務に関してすべての情報があたえられるわけではないし、それが当たり前だもの。カムに何ができるのかは、噂程度にしか知らないよ。暗器の扱いに長けているとか、目線で人を消せるとか、同性愛者だとか? 僕に話してくれるのなら、もちろん喜んで聞くけど」
性癖は能力ではありません。それに目線で人が消せるって・・・相変わらず、私の噂はひどいものですね。別に構いませんけど。
「ついでに言うと今、王弟がいるはずの直轄地からは、王都まで馬でも1月かかるよ。だから呼び出すとしたら、そのあたりだね」
それならあと半月はこのまま生殺しの日々が続くことになります。その間、どうやって暇を潰そうかとため息をつくと、レオンが嬉しそうにすり寄ってきました。
「うふふ。役に立ったでしょう?」
「・・・ところでレオン。レグルスがいた時に気配を察知されなかった距離とは、どのくらいですか? 私で実践してみてください」
「わかった」
レオンはソファから立ち上がると、扉の方へと向かいます。そして扉を開けて、廊下の窓の方まで離れました。距離にして10メートルくらいです。この距離で盗み聞きできるのですから、私の部屋の扉一枚くらい何の障害にもなりませんよね。
「このくらい」
「では、私との距離もそれで。」
「えっ! ちょっと待って!」
慌てるレオンを無視して、クラウドがすました顔で扉を閉めました。




