第二十五話 新天地の夜に ②
「ふう……みんなの無事な姿を見ると、生き残れたんだって改めて実感するわね」
バラディースに帰還した詩織は、強制避難から解放された人々で賑わう市街地の中央公園前にいた。
彼女の眼前では、無事に逃避行を終えたことを喜ぶ市民達が抱擁を交わす光景が繰り広げられており、それを目の当たりにした詩織は、漸く死線を越えて生き延びたのだと実感し、気怠い安堵感に身も心も委ねてしまう。
全ての護衛艦を失い、イェーガーをはじめ軍属には少なからぬ死者を出したものの、民間人から犠牲者が一人も出なかったのは不幸中の幸いだった。
負傷した者もいたが、命に係わる重傷者がいないのも、詩織の鬱積した心を軽くする一助になっている。
まだ士官候補生だった頃、航宙研修の最中に正体不明の敵との交戦に巻き込まれた事はあったが、それとは比較にならない濃密な戦いを今回経験した。
詩織にとっては正に初陣に他ならず、戦闘に直接関与したとはいえないものの、私淑する達也やエレオノーラ、そして経験豊富な先輩達の戦いを間近で見た経験は大きな収穫だったと言えるだろう。
今回の経験は間違いなく自分の血肉になる筈だと詩織は思うし、それを糧にしてもっと成長したいとの想いを強くしている。
だが、その一方で容赦ない悲劇にも遭遇し打ちのめさもした。
尊敬していたイェーガー准将の軍人としての覚悟と死を目の当りにし、人の命の儚さと辛く切ない悲しみを知ったのが、その最たるものだろう。
(いつか私も、イェーガー閣下と同じ選択をする日が来るのかしら……誰かを護る為に自分の命を投げ出す……それは崇高で軍人の本懐かもしれないけれど……)
己の死を想像した刹那に脳裏に浮かんだのは、屈託なく笑う幼馴染の顔であり、蓮も自分と同じ様に何時かは訪れる死について考えるのだろうか……。
そんな漠然とした疑問が脳裏に浮かんだが、詩織は軽く頭を振り暗い思考を打ち消す。
父である信一郎と蓮の母の春香が懐妊を機に再婚したお蔭で、ふたりは幼馴染で義兄妹という珍妙な間柄になってしまい、詩織は複雑な想いを持て余さざるにはいられなかった。
彼女にとって真宮寺蓮という存在は、この世でたったひとり心から愛した男性に他ならないのだから……。
関係を進めたいと考えてはいるのだが、自分から告白するよりも『愛している』と言われたい……。
そんな乙女心が邪魔をして中々素直になれない自分を歯痒くも思っている。
然も、当の義兄はそんな詩織の気持ちに気付きもせず、一向に色恋沙汰に興味を示す素振りさえないのだから、彼女の不満は募る一方だ。
(蓮の頭の中ではロボットが花嫁衣裳を着てウエディングベルを振り回しているに違いないわ。本当に鈍感馬鹿なんだから……いつになったら私の気持ちに気付いてくれるのよ? あの朴念仁はっ!?)
遣る瀬ない想いに胸を締め付けられて、苛立ち紛れに深々と溜息を吐いた瞬間、背後から軽く肩を叩かれた。
「詩織っ! 良かったぁ~~無事だったのね!」
「わっきゃぁぁ──っ!!」
物思いに耽っていた所に不意打ち同然に声を掛けられた詩織は、素っ頓狂な悲鳴を上げて飛び跳ねてしまう。
しかし、彼女の反応に仰天させられたのは、寧ろ声を掛けたアイラの方であり、親友が見せた突飛な狂態に戦きながらも、まるで珍妙な動物を見るような眼差しで恐る恐る問い質す。
「ちょっとぉ……本当に大丈夫ぅ? まさか戦闘中に何処かに頭をぶつけたんじゃないでしょうね?」
「し、失礼な事を言わないでよッ! アイラが急に声を掛けて来るから吃驚したんじゃないの!」
詩織は頬を膨らませて抗議するが、アイラは顔を赤く染めている親友を訝しむかの様な視線で見つめて詰問した。
「それにしても大袈裟すぎないかしら?」
「も、もうっ! 何でもないんだから、変な詮索をしないでよ! そ、それより、貴女も無事で安心したわ。お父様……ビンセント中佐も生還されたし、本当に良かったね」
これ以上追及されるのは不味いと思い、懸命に平静を装いながらも、さり気なく話題を変えようと試みる詩織。
父親の話を振られた事もあり、破顔して口元を綻ばせたアイラは、簡単に親友の思惑に乗せられてしまう。
「うん……志保のお陰だわ……あの時、彼女が父さんを叱り飛ばしてくれなかったら……そう思うと今でも怖くて震えが来るよ」
(日頃は『口煩い』とか『鬱陶しい』とかボヤいているくせに……アイラって、結構ファザコンの気があるよねぇ~~)
彼女の言葉に美少女然とした笑顔で頷く詩織だったが、今度ファザコンネタで揶揄ってやろうと、不謹慎にも心の中で画策して腹黒い笑みを浮かべる。
「それで、何か私に用事があったんじゃないの?」
しかし、このままアイラに喋らせておくと、志保に心酔している彼女の惚気にも似た自慢話に付き合わされてしまう……そう危惧した詩織は用件を急かした。
「あっ、そうだった……実はね……」
そう問われて真顔になったアイラは身体を寄せるや、詩織の耳元で急に声を潜めて囁く。
「実は蓮の事なんだけどさ……」
「何かあったの? まさか戦闘で怪我でもしたの!?」
想い人の名前が親友の口から零れたのに不安を覚えた詩織は、血相を変えて問い質してしまう。
バラディースの直掩任務に就いたティルファング隊の戦況報告はシルフィードにも逐一齎されており、蓮が無事生還したのは知っていたが、負傷の有無までは知る由もない。
それ故、真っ先に彼の身に不測の事態が起こったのかと心配したのだが、詩織の剣幕に面食らったアイラは一転して微苦笑を浮かべ小さく頭を振った。
「大丈夫よ。かすり傷さえ負わずにピンピンしているわ。然も、初陣にも拘わらず六機もの敵を撃墜してさ! 普段は口煩いベテラン連中も脱帽ものの大活躍だったのよ!」
「そう。それは良かったわ……でも、だったら何なのよ?」
蓮の無事と活躍を聞かされた詩織は安堵に胸を撫で下ろしたものの、それでは、一体全体何が問題なのか分からずに再度訊ね返す。
「う~~ん……実は私も上手く説明来ないんだけれど……さっきまで二人で民間人に温かい飲み物を配る手伝いをしていたのよ。でも奴さん心ここに在らずみたいな感じでさ……初陣で疲れているのかとも思ったのだけれど……」
そう告げたアイラも自分が懐いた違和感をどう言葉にすればいいのか分からず、何処か戸惑った様な物言いになってしまう。
だから今ひとつ状況が掴めない詩織は余計に困惑せざるを得ない。
「詩織の方が彼とは付き合いが長いし、確か二人とも同じマンションだったじゃない? 帰宅した時にでも様子を見て貰おうと思って声を掛けたのよ」
そう頼まれては断る理由もないし、彼女が不審を感じたという蓮の素振りも気になったので、詩織は軽く頷いて彼女の依頼を承諾した。
「いいわ……私も今日は帰宅して良いと言われているから、初陣祝いを口実にして蓮の部屋を覘いてみるわ。ありがとうね、アイラ」
詩織は笑顔で礼を言うや、踵を返して家路に着いた。
自宅マンションに向かう足取りが知らず知らずのうちに早くなる。
それは、心に蟠る得体の知れない不安と焦慮に心を搔き乱されたからに他ならなかった。
◇◆◇◆◇
退避シェルターから解放された民間人達は、無事に目的地に到達したのと、その新天地が美しい水惑星である事実を知って喜びあっている。
バラディースで一定期間生活を共にした彼らは、白銀達也と何かしらの縁が有る者達ばかりであり、家族ぐるみの良い関係を築いている者達も多い。
だから、今回の災難にも不平を口にする者はいなかった。
長時間に及んだ逃避行が民間人達に多大な精神的負担を強いた為、老若男女問わず疲弊してはいたが、僅かな軽傷者を除けば死者や重症者は皆無だ。
また、志保の母親である美緒や、戦闘で重傷を負ったラルフら軍属達も容体は重篤化せず回復に向かっており、まさに不幸中の幸いだと言えた。
凄惨な戦いの最中で懸命に奮戦したクレアも疲労の極みにあったが、喜びに沸く住人達に笑顔で話し掛けながら配給用のレーションを配っている。
生命維持カプセルに長時間拘束された彼らを慮ったラインハルトが、住民達の安否確認を兼ねてレーションの支給を許可したのだ。
「どうぞ。数は充分ありますからね。慌てずに順番に受け取って下さい」
並んでいる人々に特注品のレーションを配りながら、子供達には奮発してお菓子もオマケにつけてやる。
彼らの喜ぶ顔を見たクレアは、その笑顔に心が癒される想いだった。
そして彼女の周囲では、サクヤは勿論の事、由紀恵や正吾に秋江、アルエットやマリエッタ、そしてラインハルトの妻であるオリヴィアや船務担当の軍属までもが総出で配給を手伝っている。
親しい仲間達の中に志保やアイラの顔がないのは、身内の重傷者の看病を優先させるようにと、クレアが配慮したからだ。
作業に一時間ほど掛かったものの、漸く配布が終わろうかという時だ。
「お母さまッ!」
鈴が鳴るような愛らしい声で名を呼ばれたクレアは、振り向いた先に愛娘の姿を見つけて喜びに破顔する。
しかし、如何なる理由が在るのか、視線のさきで立ち尽くすユリアが、悲しみに顔を歪め涙を零しているのを見れば驚かずにはいられず、直感的に何か良くない事があったのだと察したクレアは、何よりも傷ついているであろう娘を労わり優しく抱きしめるのを優先した。
「お帰りなさい、ユリア。どうしたの? そんなに辛そうな顔をして? さくらやティグルは一緒じゃないの?」
「お、お母さまぁぁ~~~」
敬愛する母親の抱擁と温もり、そして優しい声音に触れたユリアは我慢できずにクレアにしがみ付くや、声を押し殺して咽び泣いてしまう。
泣き崩れる愛娘に戸惑い、さくらやティグル、何よりも最愛の夫の姿が見えない事に困惑するクレアは、一瞬最悪の事態を脳裏に思い描いてしまい身震いしたのだが、遅れて姿をみせたエレオノーラから事情を聞き、それが杞憂であるのを知って胸を撫で下ろした。
「ごめんねクレア……今回もユリアの力を借りてしまったの。この娘が頑強に志願したとはいえ、戦力として頼りにして容認したのは事実だわ。達也だけは最後まで反対したのだけど……私と殿下の説得で折れてくれた……怒らないでやってね……責めるなら強弁した私を責めて頂戴」
「そう。そうだったの……でも、誰もが与えられた場所で全力を尽くさざるを得なかったのだから、私に貴女を責める資格はないわ……それにユリアは無事に戻って来てくれたんですもの……それだけで充分よ」
親友の口から語られた事実に驚きながらも、娘が無事だったことに安堵し全てを容認するクレア。
そんな彼女とは裏腹に、泣き伏していたユリアは顔を上げ、何かを訴えるように濡れた瞳でエレオノーラを見つめる。
まだ幼い少女の哀切の視線を受け止めた彼女はその想いに感謝し、少しだけ口元を緩めて諭す様に言葉を掛けるのだった。
「何度も言うけど、これは私が為さなければならない事なの。軍人として、そして艦長を拝命した者として放棄できない責務なのよ。ユリア、貴女は充分に力を貸してくれたわ。心から感謝している……ありがとうね」
その言葉に少女は悲痛に顔を歪める他はなく、何も言葉を返せない。
エレオノーラはそんな少女の頭を軽く撫でるや、痛哭に強張った顔を上げ、その視線の先に佇むアルエットを見つめた。
普段の陽気なエレオノーラからは想像もつかない、暗澹たる表情を目の当たりにしたクレアは、彼女の心情に思い至り愕然として息を呑んでしまう。
「ま、まさか……」
その続きを言葉にできずに立ち尽くすクレアの傍を通り抜けたエレオノーラは、固い表情で自分を見つめているアルエットの前まで歩を進めた。
(ちゃんとお伝えしなければ……それが閣下に生かされた私の務めじゃないの!)
そう自分を叱咤するが、別れ際の恩師の穏やかな顔が脳裏にこびりつき、自責の念と悲痛な想いがグチャグチャに入り混じって肝心の言葉が出て来ない。
『御主人がお亡くなりになられました』
決意とは裏腹に、たったそれだけの台詞が言葉ならず身体は震えるばかり。
そんな自分を情けなく思いながらも、エレオノーラは青褪めた唇を微かに開けては閉じるのを繰り返し、遂には視線を落として俯いてしまうのだった。
その姿からは彼女の悔恨と葛藤する様がありありと見て取れ、アルエットの夫の身に何が起きたのか察した周囲の者達も言葉を失ってしまう。
そんな時だった。
「あの人は最後まで立派だったかしら?」
重苦しい沈黙の中、投げ掛けられた優しい声音にエレオノーラは思わず顔を上げて双眸を見開いていた。
彼女の視線の先に佇むアルエットは穏やかな笑みを浮かべており、何時もと変わらぬ優しげな瞳をエレオノーラへと向けている。
それは、まさに慈愛に満ちた母の顔に他ならない。
それを目にした瞬間懸命に我慢していた感情が決壊し、エレオノーラの両の瞳から滂沱の如く涙が溢れて頬を伝い落ちた。
もうこれ以上虚勢を張るのは無理だ……。
嫌でもそう理解した彼女は、想いを振り絞って頑なに引き結ばれた唇を開いた。
「あ、ありがとう……それだけ……それだけ伝えてくれと……も、申し訳、申し訳ありませんッ! もう……しっ……うっ、うぅぅ──ッ!!」
それだけの言葉を絞り出すのが精一杯だった……両手で顔を覆ったエレオノーラは、嗚咽を漏らしながら膝から崩れ落ちてしまう。
恩人を死なせてしまった事が悔やまれて……。
今日、死ねなかった自分が歯痒くて……。
そんな自責の念に苛まれて心が折れそうになった時……泣き伏すエレオノーラを抱擁したのは他ならぬアルエットだった。
「本当にあの人ときたら……最後まで気の利かない人だったわねぇ……貴女に辛い役目を押し付けて、自分だけさっさとあの世に行ってしまうなんて……本当にどうしようもない人ね」
軽口を叩くような物言いだったが、そこにはエレオノーラを労わる想いと共に、遺された者の悲哀が確かに滲んでいた。
悲しみを共有する彼女の温もりに包まれたエレオノーラは、人目も憚らずにアルエットにしがみ付くや、声を上げて泣き伏す。
「ありがとうね、エレン。でも、きっと夫は満足していたと思うわよ……達也さんや貴女。そしてバラディースの人々を生かし、未来という希望を残せたのだから。私はそんな夫を……フレデリックを誇りに思うわ。だから貴女も悲しむのは今日だけにしてあげて……でないと、夫も安心して眠れないでしょうから……ねっ?」
泣きじゃくるエレオノーラを慰めるアルエットの双眸にも、いつしか涙の雫が 溢れ頬を伝い落ちていた。
そんなふたりの姿を遣る瀬ない想いで見つめていたクレアは、最愛の夫の心情を想って顔を曇らせてしまう。
大切な近しい者を失った達也が、今どんな想いでいるのか……そう考えただけで、哀憐の情で胸の中がいっぱいになるのだった。




