第八十一話 譲れない想い ⑥
厨房の出入り口に佇んでいる母親から冷めた視線を向けられた子供達は、困惑した面持ちで立ち尽くすしかなかった。
ユリアもさくらも、そしてティグルも、叱責は覚悟した上で行動を起こしたはずだったが、クレアの険しい視線に射竦められれば、まるで蛇に睨まれたカエル同然の体たらくで、当初の意気込みは既に雲散霧消しつつある。
「お、お母さん……どうして此処に……」
「あなた達の魂胆なんか全部お見通しよ……思い上がるのもいい加減にしなさい。これから向かおうとしているのは戦場なのよ? 子供が首を突っ込んで良い場所ではないわ」
狼狽するユリアが辛うじて漏らした問いへの返答は、普段の母親からは到底想像できない冷淡なものだった。
その厳しい叱責を受けた子供達は、先程までの意気込みが嘘だったかの様に消沈して項垂れてしまう。
そんな彼らを更に厳しい言葉の鞭が打ち据えた。
「達也さんは言った筈よね? ジュリアンは必ず連れて帰るから心配するな……と。それとも、お父さんの言葉が信じられないのかしら? お父さん達では頼りにもならないから、自分達で何とかすると?」
その淡々とした語り口はクレアの怒りを如実に物語っており、さくらとティグルは罪悪感も相俟って震えあがってしまう。
しかし、恐懼してしり込みする弟妹とは違い、その表情に譲れない決意を滲ませたユリアは、毅然とした表情で母親の視線を真っ向から見つめ返す。
「お父さんとお母さんに対する信頼が揺らぐことなど、天と地が逆さまになっても有り得ないわ……でも、じっとしていられないの!」
必死の形相で語気を強める愛娘の言葉を無言で受け止めるクレア。
そして、そんな母親へユリアは偽りなき心情をぶつけたのである。
「少し前までならば、お父さんやお母さんの不興を買うのを恐れて無茶な真似はしなかったと思う。さくらやティグルまで巻き込んで我儘を押し通すなんて、今でも自分が信じられない……でも! それでもッ! 私が行かなければならないの! もう、待っているだけなんて耐えられないっ! だからッ!!」
己の言い分が支離滅裂な感情論でしかないのはユリア自身も分かっている。
クレアの主張が正しいのは明らかだし、全てを達也に任せた方が良いという忠告は至極真っ当なものだとも思う。
だが、それでも、恋人の安否を思えば焦燥はつのるばかりで、とてもではないがじっとしてはいられないのだ。
すると、母親が相手でも臆さずに己の意思を貫く姉の必死さに感化されたのか、すっかり気落ちして沈黙していた弟妹達も再起動する。
「ママさん……今更だけどさ、俺を養子にしてくれてありがとうな……パパさんに出逢って家族になれた。そうでなきゃ、今頃は何処かの研究所でモルモットとして飼われていたかもしれない……本当に感謝しているよ。皆とは違って俺は竜種だけどさ……貰った縁は大切にしたいんだ。ユリア姉やさくらは必ず俺が護るから……だから、今回だけ目を瞑ってくれよ!」
その冷めた表情を微動だにしないクレアへ、珍しくも真剣な面持ちのティグルが懇願すれば、思いつめた様な瞳で母親の眼を真っ直ぐに見つめるさくらは、誰にも言えなかった秘事を告白して自らの正当性を言い募った。
「あのね……最近聞こえるの……泣いている女の子の悲しい声が……」
その突飛で意味不明なさくらの物言いにクレアは訝し気な表情をしたが、敢えて口を挟まずに無言を貫く。
「聞こえるの、『お兄ちゃん、もうやめて』って声が何度も……それに、はっきりとは分からないけれど、その子の近くにジュリアンお兄さんが居る様な感じがするんだ……だから、だから、さくらも行かないと駄目なのッ!」
切羽詰まった想いに煽られたからか、一気呵成に言い切った妹の懇願が終わるや否や、腰を折って深々と頭を下げたユリアが必死の想いを吐露する。
「お願いだから見逃して下さいッ! 今回だけ……今回だけ我儘を許して戴けるのならば、ユリは二度とお母様に逆らったりはしませんからッ! だから、今回だけは……あっ、お、お母様……」
以前の堅苦しい物言いに戻っている事にさえ気づかないユリアは無我夢中で説得を続けようとしたが、唐突に華奢な身体をクレアから抱擁されれば、その心地よい温もりに陶然として口籠るしかなかった。
すると、戸惑う愛娘の耳元でクレアが囁く。
「子供の成長は早いと言うけれど、もう少し私の可愛い娘でいて欲しかったわね。達也さんも嘆いていたわよ、『ジュリアンに出逢ってから急に大人びてしまった』って……」
「お、お母さん……」
クレアの表情からは先程まであった怜悧さは雲散霧消しており、何時もの優しげな微笑みに取って変わっている。
そんな彼女は今度はティグルを抱き締めるや、一転して物憂い口調で嗜めた。
「皆と違うなんて悲しい事は言わないで……譬え血の繋がりがなくても、あなたは私にとって掛け替えのない息子なのよ……マーヤも蒼也も頼りになるお兄ちゃんが大好きだし、勿論、私もあなたを愛している……それだけは忘れないでね」
その言葉が胸に染みたのか、ティグルは頬を赤らめて顔を背けたが……。
「お、おう……忘れないよ……ありがと、ママさん」
素っ気ない物言いではあったが、それが彼の照れ臭さの裏返しだと知るクレアは、満足げに口元を綻ばせてから抱擁を解く。
そして、さくらと向き合うや、他の姉兄と同様に優しく抱き締めてやった。
「さくらは達也さんと出逢ってから他人を気遣える様になったわね……その優しさを大切にしなさい。あなたに力を託してくれたセレーネ様の願いを忘れないでね」
「う、うん! 分かってるよ! さくら絶対に忘れない!」
母親が怒っている訳ではない様だと理解した愛娘が声を弾ませるや、さくらから身体を離して立ち上がったクレアが驚くべき提案を口にした。
「さあ! 急がないと目的の船に乗り遅れてしまうわよ。ダネルに降下する部隊は、主力艦隊に先駆けて〇三:〇〇出港予定なの。部隊の一翼を指揮するのは志保だから、同行できるように私から頼んであげるわ。だから、コソコソと密航したりしない。いいわね?」
その突然の変貌に動揺したのはユリアだけではなく、驚いて互いに顔を見合わせるさくらとティグルも母親の真意を測りかねてしまう。
絶対に引き止められると思っていたのに大した叱責もなく、寧ろ積極的に容認して協力すると言うのだから、子供達が戸惑うのも無理はないだろう。
しかし、ユリアとさくらにしてみれば、最大の関門である母親の協力的な態度は歓迎すべき事であり、下手に藪を突いて蛇を出す様な真似はしたくないとの思いもある。
だから、この想定外の状況を甘んじて受け入れるつもりだったが、普段のクレアからは考えられない行動に疑念を懐いたティグルは、猜疑心に満ちた視線で敬愛する母親を見つめるや、ボソッと呟くのだった。
「まさか、ママさんも密航する気じゃねえよな?」
その言葉に目を丸くしたユリアとさくらが非難の色を滲ませた視線を向けるが、フイっと端正なその顔を背けたクレアは、何の事やらと言わんばかりに澄まし顔でしらばっくれる。
すると……。
「全く困ったものだよん。暴走する子供達を止めるどころか、自分が便乗する為に焚きつけるなんてね……然も、御役御免のボクまで巻き込むなんてあんまりじゃないかい?」
如何にも不満タラタラといった風情のヒルデガルドが厨房に入って来るや、唇を尖らせて投げ遣りな口調で文句を並べだして子供らを驚かせた。
「君は常識人だとボクは思っていたけれど、今回の事で認識を改める事にしたよ。あんな方法で口煩い御両親を蚊帳の外に置くなんて、これはもう立派な職権乱用じゃないのかい?」
その嫌味っぽい物言いに子供達は一様に首を傾げてしまう。
祖父母であるアルバートと美沙緒は、マーヤと蒼也の保護者として南半球にあるファーレン王国領へ行っており、三日前から一週間は不在の予定だ。
海洋生物の調査を目的とした研究施設と、隣接する巨大な水族館が新規オープンしたのを記念して、幼年組に属する全ての子供達を対象にした修学旅行をアマテラス行政府が企画したのである。
勿論、費用はその全額を政府が負担する事になっており、保護者同伴という必須条件も好意的に受け入れられていた。
そんな事情とヒルデガルドの言葉から、ある結論へと至ったユリアが恐る恐るといった風情で母親を問い質す。
「職権乱用って……まさか、お爺様やお婆様を遠ざける為に大統領権限を行使して修学旅行を強行したの? ふたりがマーヤと蒼也には甘いのを利用したのね?」
愛娘の指摘にも知らぬ顔の半兵衛を決め込むクレアへ、ジト目のヒルデガルドが呆れ果てた口調で追撃を加える。
「御両親に知られたら達也へ告げ口されると思ったんだろう? 出撃前にバレれば全てがパーだよ。況してや、可愛い子供達まで戦場へ連れていくなんて暴挙を彼が承知する筈がないからね。大統領令まで持ち出して計画の障害になる人物を排除するなんて、君は頭脳派のボクも真っ青の策士だよ、クレア君」
流石に知らぬ存ぜぬで通すのは無理だと観念したクレアは、どこか達観した柔らかい微笑みをヒルデガルドへ向けた。
「誰にでも譲れない想いの一つや二つはあるものですわ……アマテラスの大統領としての使命は果たしたつもりです。ならば、大切な家族を護り、人々の未来を勝ち取る為に私もできる事をやる……それだけの事ですわ、殿下」
その双眸に揺るぎない決意を見て取ったヒルデガルドは、説得は時間の無駄だと判断するのと同時に、クレアの意図を察して深い溜め息を零すしかなかった。
「本当に君達は似たもの夫婦だよん……平気な顔をして無理難題を吹っ掛けて来るから性質が悪い……」
「ふふっ……お褒め戴き光栄ですわ」
「誰も褒めてなんかいないよん! まあ……最後まで出番があるのは喜ぶべきなのかもしれないねぇ。良いだろう……この子達のバックアップとガードは任しておき給え! かすり傷一つ負わせないと約束するよん!」
「感謝いたします……これで心置きなく戦えますわ」
気心が知れた仲であり、互いに揺るぎない信頼関係を築いているクレアとヒルデガルドが、いとも容易く無謀な決断をした事に驚いたユリアは、母親を諫めるべく慌てて言い募る。
「危険すぎるわ! 大統領であるお母さんの仕事は、寧ろ戦後にこそある筈です。お母さんの身に万が一の事があったら、私は、いいえっ! アマテラス共生共和国の国民がどれほど悲しむか……戦場に出るなんて無茶な真似はしないで!」
血相を変えて語気を荒げるユリアだったが、そんな彼女の言葉はクレアの一言で粉砕されてしまう。
「だったら、あなた達もダネルへ行くのは諦めて此処からお家へ帰りなさい」
「そ、それは……うぅ~~~お母さんは卑怯だわ……ずるい!」
身を裂かれるような葛藤に苛まれて地団太を踏む愛娘に微笑み返したクレアは、小さく左右に頭を振って言葉を重ねた。
「うふふ……そんな風に拗ねているユリアも可愛いわ。でもね、あなたも分かっているのでしょう? 一番大切な人の隣にいたい。そして、その人にとっての一番でいたい。達也さんへの想いならば誰にも負けない……その程度の自信がなければ、あの人の妻でいる資格はないのよ」
その揺るぎない信念に圧倒されたユリアは、二の句が継げなくなってしまう。
消沈して項垂れる愛娘の頭を優しく撫でてから決然と顔を上げたクレアは、凛とした声で愛しい子供達を鼓舞するのだった。
「さあ、何時までも愚図愚図してはいられないわ。志保も共犯者に仕立て上げなければならないのだから急ぐわよ! 私について来なさい」
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