第七十四話 外交デビュー ③
(は、恥ずかし過ぎるぅ~~狼狽えて声を裏返らせてしまうなんて……クレア様も呆れられたに違いないわ)
不意を衝かれたとはいえ無様な醜態を晒したと己を卑下するシレーヌは、羞恥に顔を朱に染めた儘ノックされたドアへと歩を早めた。
(〝期待に応えてみせます” と大見得を切っておきながら、この期に及んで緊張していますなんて言える訳がないでしょう!)
そう己を叱咤するシレーヌだったが、胸の中から込み上げて来る不安は時を重ねる毎に大きく、そして重くなっていくばかりだ。
只でさえ、その重圧を撥ね退けんとして躍起になっているのに、似合いもしない華美な衣装を纏った己の姿を目の当たりにして怖じ気付いたのでは、使節団の一員に抜擢してくれたクレアに顔向けができないと考えるのも仕方がないだろう。
然も、同族から寄せられる期待を一身に背負っているとなれば、その重圧は未だ人生経験が浅いシレーヌには酷だという他はなかった。
だが、自分から買って出た使命に背を向けるという選択は、責任感が強い彼女には有り得ないものだ。
(強がりでも何でもいい。落ち着いて……平気なフリをするの……そうでないと、皆の願いまでもが駄目になっちゃう)
千五百年もの間、他の世界から隔絶されたセレーネで血脈を繋いで来たアルカディーナ達にとって、銀河系世界という大海原へ漕ぎ出すと決断するには並々ならぬ葛藤があったのは確かだ。
嘗て、ランツェとセレーネ、そして祖先達が味わった辛酸と不幸な結末を考えれば、それも已むを得ないのかもしれない。
だが、達也とクレアという敬愛に足る人間の存在を知った彼らは、長きに亘って懐いて来た恩讐を捨て去り、他種族との調和に重きを置く共生社会の実現へと舵を切ったのである。
その夢を叶えるための第一歩が今回の新同盟への参加であり、その使節団に選ばれたシレーヌへ託されたアルカディーナ達の期待は大きかった。
(だからこそ無様な真似はできないッ! 美しいドレスや装飾品など何一つ似合わない私だけれど、だからといって今更逃げ出す訳にはいかないのよ!)
そう己に言い聞かせるシレーヌだったが、同胞の悲願という重圧以上に厄介なのは、彼女自身の自己評価の低さだろう。
凡そ、己を知らないというのはマイナス要因でしかなく、何をするにも陸な結果を齎さないものだ。
挙句に本人にその自覚がないとなれば、事態が如何様な結果になるかは想像するに容易い。
そして、それは今のシレーヌも例外ではなかった。
「お待たせして申し訳ありません。準備に手間取っ……て……しま……えっ!?」
ドアをノックしたのは共に迎賓館へ向かうクレア以外にはない。
そう思い込んでいたシレーヌは直前に心を乱していた所為もあり、迂闊にも何の確認もせずにドアを開けてしまった。
そこに立っているのが敬愛するクレアだったならば、何の問題もなかっただろうし、葛藤に揺れる胸の中を隠して平静を装えた筈だ。
だが、運命の女神は彼女に対して少しだけ意地悪だったようで、想定外の人物をその瞳で捉えたシレーヌは吃驚して言葉を失うのだった。
「へえ! 随分と見違えてしまったな。凄く綺麗だぜ、シレーヌ」
そして、整った精悍な顔を綻ばせた相手が口にした台詞によって、彼女の羞恥心は一気に燃え上がったのである。
※※※
眼前で立ち尽くしているシレーヌの美しさは、普段の職務一筋の彼女からは到底考えられないレベルまで昇華されており、思わず見惚れてしまったヨハンを責める事はできないだろう。
夜会の間シレーヌの専属護衛官を務める様にとクレアから直々に命令されたが、煩わしい政治的駆け引きが苦手なヨハンにとっては、厄介事は勘弁して欲しいというのが偽らざる心境だった。
だが、不承不承ながらも訪れた部屋でドレスアップされたシレーヌの姿を目にすれば、そんな鬱屈した思いも一瞬で消し飛んでしまうのだから、我ながら現金なものだと苦笑いするしかない。
しかし、柄にも無い賛辞の言葉が思わず口を衝いて出たまでは良かったのだが、自他共に認める恋愛音痴の彼には、微妙な女心の機微を察せよと求めるのは流石に荷が重かったようで……。
「みっ、見ないでぇッ! お願いだから滑稽な私を見ないでッ! ヨハンッ!」
茫然としていたシレーヌの表情が火を噴いたかの様に朱色に染まったかと思えば、華奢な両腕でドレスアップされた肢体を抱き締めた彼女は、両膝を床に付いて身体を丸めるのだった。
だが、ヨハンにしてみれば唐突に取り乱したシレーヌの様子に面喰うしかなく、何が彼女を悩乱させているのか皆目見当がつかない。
「お、おい……一体全体どうしたんだよ?」
「お願いだから出て行ってッ! お願いよ、ヨハン!」
「だから落ち着けって! 俺が何か気に障る事を言ったのなら謝るから」
「ち、違うの! そうじゃないの! こんな無様な私の姿を貴方にだけは見られたくないのよ! 分かって頂戴!」
全く埒が明かない状況にヨハンの困惑は深まるばかりだ。
しかし、彼女が取り乱している原因が、艶やかな姿を見られるのが恥ずかしいという単純なものではないと確信できる程には、シレーヌの為人を理解している。
だからこそ、『無様な私の姿を貴方にだけは見られたくない』との彼女の言葉を聞いた彼は、朧気ながらも彼女が何に悩んでいるのか気付けたのだ。
(そうか……人間と亜人種が共生する社会の実現という理想が、周囲からの期待も相俟って、いつの間にか重荷になっていたんだな)
まだ知り合ってから間がないとはいえ、互いに時間が許せば食事を共にする機会も増えており、楽しい会話を交わす程度の間柄にはなっていた。
その席で何度も聞かされた彼女の理想と夢。
『この宇宙に生きている人々が皆で手を取りあって助け合える世界が実現すれば、どんなに素晴らしいかしら。私は非力な存在だけれど、そんな夢を叶える為に働きたいの。クレア様の下でそれが成せるのならば、それ以上の幸せはないと思う』
そう聞かされる度に悪意のない言葉で揶揄ったものだが、シレーヌの希望に満ちた笑顔を見るのが堪らなく嬉しかったのも確かだ。
また、素直で一途な性格と努力を惜しまない真摯な彼女の実直さに魅かれ、その無邪気で優しい心根に触れるうちに好意を懐く様にもなっていた。
勿論、短気で粗野な自分をシレーヌがどう思っているかは分からないし、異性として好感を持たれている等と自惚れるつもりもない。
ただ、純粋な理想を夢見て頑張っている彼女の力になりたい……。
それだけがヨハンの素直な願いであり、偽らざる気持ちだった。
ならば、今の自分が成すべき事は、ひとつしかないではないか……。
そう思い定めたヨハンは、床の上に蹲って身体を小さくしているシレーヌの前に片膝をつくや、その震える華奢な両肩に手を添え、彼女が拒絶の言葉を口にするよりも早く語り掛けたのである。
※※※
「お世辞でも何でもない……君はとても綺麗だ。俺は素直にそう思う。だからさ、“見られたくない” なんて悲しい事は言わないでくれ」
その言葉は耳朶を通じて確かにシレーヌの心に届いた。
しかし、それを素直に受け入れられるか如何かは別の話だ。
乱暴な言動ばかりが目立つものの、ヨハン・ヴラーグという人間の本質は内面に秘めた優しさにあるのだと彼女は気付いている。
無理難題の要求を突き付けて来た人間達とトラブルになった時には窮地を救って貰ったし、それが縁となって度々会うようになった今では、その淡い想いは憧憬にも似た好意へと変化していた。
だからこそ、醜態を晒して嘆いている相手に対して彼が取る行動は慰撫する一択であり、相手が誰であれ、それは変わらないと分かってしまうのだ。
だが、それが単なる同情から発せられた行為である以上、今のシレーヌにとっては何よりも辛いものに他ならない。
然も、その相手がヨハンであるだけに、彼女が感じた惨めさは尋常なものではなく、激しい痛苦となって心を苛んだのである。
だから、自分でも思ってもいなかった醜い言葉が唇から零れ落ちたのだ。
「心にもない慰めなんて言わないで! 着飾った事なんかない獣人の私が、煌びやかな衣装を身に纏っても滑稽なだけじゃない!」
「そんな事はない。君は充分に魅力的だし、今回の役目を果すに足る力も身につけているじゃないか」
「それは、ヨハン……貴方の買い被りよ! やっぱり私なんかが選ばれるべきではなかったの……いいえっ、自ら辞退するべきだったのよッ!」
「既に夜会の準備は整い、会場である迎賓館には各国の首脳らが参集し始めている頃だろう。今更辞退など許される筈がないじゃないか。第一、ここで尻込みしたら君が成そうとしている夢はどうなる? 全ての種が手を取り合って生きていく世界の実現という夢はッ!?」
興奮して言葉をぶつけ合ったものの、自身が思い描いた夢を持ち出されたのではシレーヌの方が分が悪いのは明らかだ。
着飾った己の姿に違和感しか感じられず、羞恥と落胆の中で自暴自棄になってしまったとはいえ、心から希った未来まで手放そうとは夢にも思っていない。
しかし、失われた自信と情熱を取り戻すのは容易ではなく、おまけにヨハンから叩きつけられた言葉に進退窮まったシレーヌは、何をどうすれば良いのか分からなくなり、彼女自身も思ってもみなかった言葉を口走ってしまったのである。
「そんな大それた大望を叶える力なんて私には無かったのよ! 私なんかを認めてくれる人間なんて何処にもいやしないわッ! 貴方だってクレア様に言われたから私の所へ来たのでしょう!? そうでなければ、貴方が……あっ!???」
只々激情に任せて絶望を吐露するシレーヌだったが、その朱色の唇は唐突に役割を果たせなくなってしまう。
両肩に添えられていたヨハンの手が背中と腰に廻されたかと思えば、次の瞬間には温かく柔らかいもので唇を塞がれてしまったからだ。
(キ、キスされてる……)
そう気付くまでに五秒は要したであろうか。
我に返ったシレーヌは束縛から逃れようと抗ったが、如何に獣人とはいえ、女性の細腕ではどうにかできるものではなかった。
だが、強引に唇を奪われたにも拘わらず嫌悪感は微塵も湧いて来ない。
それどころか心地良い温もりが全身に拡がっていくのを感じたシレーヌは、何時しか抵抗を止めてヨハンを受け入れていたのである。
そして、更に数秒の時間が過ぎ、漸く解放された彼女の瞳が捉えた男の顔には、どうにも気まずくて仕方がないといった風情が見て取れ、ヨハンの真意を図りかねたシレーヌも困惑せざるを得なかった。
だが、そんな切ない時間は長くは続かない。
「大統領から君の護衛につく様にと命令されたのは事実だよ……でも、シレーヌを素敵な女性だと思っているのは俺の本心だ。嫌われるのを覚悟でキスしたいと思うほどには……本気のつもりだ」
「う……うそ……どうして……私なんかを……」
「その……私なんかっての止めろよ。人間達に獣人の存在と価値を認めさせるんだろう? 対等の相手として付き合っていくんだろう? だったら、自らを卑下するんじゃない……胸を張って前を向け。笑顔を絶やすな。そうでないと、人間達との融和なんて夢のまた夢になってしまうぞ」
その言葉にはヨハンの真摯な想いが滲んでおり、その温もりによって心に巣食った不安と葛藤が溶けていくのをシレーヌは感じていた。
「君一人で全てを背負う必要はない。白銀総帥もクレア大統領もいるし、何よりも君の後ろには大勢の仲間達がいるじゃないか……皆で力を合わせて夢を手に入れれば良いんだ。俺や蓮達だって助力は惜しまないぜ」
その助言が止めとなって胸の中に蟠っていた仄暗い感情が雲散霧消していく。
(あぁ……そうだわ、私は一人じゃなかった……夢の実現を共有できるセレーネの仲間達がいる……そんな当たり前のことをどうして忘れていたんだろう)
そう気付けば、見失っていた希望と情熱を取り戻せた気がして心が軽くなったのだが、当然ながら、それで万事解決とはいかなかった。
それまで立派な台詞を宣っていたヨハンが徐に後退って土下座したものだから、シレーヌとしては、何とも気恥ずかしい事この上ない。
だが、そんな彼女にはお構いなしのヨハンは、両手と額を床に擦りつける様にして謝罪の言葉を口にしたのだ。
「俺の本気を証明したかったとはいえ、不埒な真似をして済まなかった……謝って許される事じゃないが、煮るなり焼くなり、君の気が済む様にしてくれ!」
見れば、そう畏まって謝罪するヨハンの顔は蒼白になっており、これが先程まで威勢の良い啖呵を切っていた人間と同一人物だとは到底思えなかった。
だが、その謝罪を受け入れたのでは何も始まらないと覚悟を決めたシレーヌは、高鳴る胸の鼓動を懸命に抑えて自らの願いを口にしたのである。
「私の好きにして良いのね?」
「勿論だ。どんな罰でも甘んじて受ける」
「いいわ。罰を与えてあげるわ……でも、その前にもう一度だけ聞かせて頂戴……強引にキスする程に私の事が好きだったって本当?」
そう問うと狼狽えるヨハンの顔があからさまに変化して朱を帯びたが、それでも観念したかのように胸に秘めていた想いを告白した。
「は、恥ずかしい事を何度も言わせるなよ……くそっ……あぁ、そうだ。俺は君を一目見た時から魅かれていたし、何時の間にか好きになっていたよ」
その言葉を受けたシレーヌは胸の中に込み上げて来る喜びに破顔してしまう。
ヨハンも自分を好いていてくれたという事実が、何よりも嬉しかったからだ。
だから、もう何も考えられなくなったシレーヌは、万感の想いに身を焦がしながら素直な想いを吐露したのである。
「だったら……これからも私の傍に居てくれる? 非力で弱い私の力になってくれる? そして、私が貴方を愛する事を許してくれる?」
シレーヌの心からの懇願がヨハンの心に染み入るのに時間は掛からなかった。
その顔が狼狽から驚きへ、そして生真面目なものへと変わった時、互いに身体を寄せ合ったふたりは、再度くちづけを交わそうとしたのだが……。
「はいはいッ! 恋人同士の逢瀬を邪魔するのは野暮だって分かっているけどね、生憎と時間がないのよ……夜会に遅刻する訳にはいかないから、涙とキスで崩れたメイクを何とかするのが先よ、シレーヌ」
不意打ち同然に響いた台詞に吃驚したふたりは、慌てふためいて身体を離すや、揃って声のした方へと視線を向けた。
そこにはクレアと志保が並んで立っており、困惑して取り乱す恋人たちを見下ろしているではないか。
尤も、真っ当な理由を口にして説教しながらも揶揄する気満々の志保の視線と、嬉しそうに微笑んでいるクレアの視線が射貫いているのはシレーヌ一択だ。
その四つの目が、『ちゃんと最初から報告しなさいよ』と言っているのを悟ったシレーヌは、間違いなく本日一番の朱色に顔を染めて悲鳴を上げたのである。
「や、やっぱり! 恥ずかしい私なんかを見ないでくださぁ──いッッ!!」
そして、志保に知られた事でシレーヌとの顛末が蓮や詩織らにも暴露されるのは避けられないと観念したヨハンは、親友達からの厳しい追及を受ける己の姿を幻視して盛大な溜息を零すのだった。




