第六十六話 兄と弟 ②
「こっ、こんな遅くにどうかとも思ったのだけれど、明日は早朝から出撃だと聞いていますし……少しだけ時間を貰ってもいいかしら?」
ドアを開けてみれば、そこにはサクヤが立っており、如何にも申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。
遅い時間だからか、寝間着の上に踝まであるロングナイトガウンを羽織った姿からは、清楚な色香が感じられてセリスは少々戸惑ってしまった。
だが、そんな内心の動揺を馬鹿正直に口にするほど、彼は粗忽者ではない。
とは言うものの、気持ちが昂って眠れない今の状況を思えば、話し相手ができたのは渡りに船だとも言える。
そう納得すれば自然と心が弾み、想い人の懇願に頷いて微笑み返していた。
「僕は構わないけれど、時間も遅いから、廊下で立ち話をしていては子供たちにも迷惑になる。君さえ良かったら部屋の中で話さないかい?」
サクヤとセリスの私室は白銀邸の二階にあるのだが、間に空き部屋を挟んでいるとはいえ、子供らの部屋も同じフロアーにあり、常識的に考えれば、深夜に廊下で立ち話など迷惑でしかないだろう。
因みにユリアとティグルは一人部屋、さくらとマーヤは一部屋を仲良く共有しており、蒼也は祖父母と両親の部屋を根城にしていた。
どの部屋も防音は完璧で、室外の話し声が耳に付くなどという事はない。
つまり、セリスの言葉は生真面目なサクヤを揶揄おうとした軽口の類であって、憤慨しながらも頬を朱に染める彼女の様子を見たいが故の悪戯だったのだが……。
「えぇ……そうね。御言葉に甘えさせて貰うわ。ありがとう、セリス」
動じた気配も見せずに微笑むサクヤは、その誘いに首肯する。
この時点で脳内にクエスチョンマークが点灯し『あれっ?』と思考不能に陥った帝国元第十皇子だったが、憤慨するどころか、嬉しそうに笑みを浮かべて礼を言う皇女殿下が、躊躇いもせずに室内へ足を踏み入れたものだから、彼の困惑は深まるばかり。
深夜に異性の部屋を訪問するなど、普段のサクヤならば絶対に有り得ない暴挙だが、それだけに彼女の真意を計り兼ねたセリスの方が大いに戸惑ってしまう。
しかし、自分から招き入れて於いて今更冗談だったとも言えず、ドアを少しだけ開けた儘にしてから彼女を追ったものの、何と声を掛ければ良いのか分からずに逡巡する他はなかった。
すると、振り向いたサクヤが先に口を開く。
「最近は貴方も私も忙しかったから、ゆっくり話す機会もなくて……本当は夕食の時にと思っていたのだけれど、蒼也ちゃんが泣いちゃったから……」
そう言って口元を綻ばせた彼女の微笑みに釣られたセリスも、相好を崩して含み笑いを漏らしてしまう。
「そうだね。あれには吃驚したよ……」
思い出されるのは、本日の夕食時の出来事。
明日早朝に軌道要塞へ移って待機ともなれば、達也とセリスは当分の間帰宅さえ儘ならなくなるのは確実で、然も赴くのが危険な戦地だというのは子供達も知っていた。
そんな事情もあって、壮行会を兼ねたささやかなパーティーが催されたのだが、その最中に蒼也がセリスに抱きついて大泣きしてしまい、他の家族らを大いに驚かせたのである。
今回の戦いがセリスの人生を大きく左右するものであるのは皆が分かっていた。
実の兄と事を構えるのだから、それが如何に辛く苦しいものかは言葉にする迄もないだろう。
だからこそ、殊更に深刻にならないようにと、達也やクレアをはじめアルバートや美沙緒、そして子供達までもが務めて明るく振る舞っていたのだが、幼くてまだ分別に乏しい蒼也は直感で何かを感じ取ったのかもしれない。
なんの前触れもなく泣き出した幼子はセリスから離れようとはせず、それを見たさくらやマーヤまでもが泣き出す始末で、てんやわんやの騒ぎになってしまった。
最後には『絶対に帰って来て』という子供らの懇願にセリスが笑顔で頷いて一件落着と相成ったのだが、その騒動の御蔭でサクヤは用件を切り出せず仕舞いだったという訳だ。
「あの子達の貴方に対する想いが嬉しくて……私も感動していたから、つい……」
照れ臭そうな言葉を口にしながらも、サクヤはガウンのポケットから美しい赤い雫石が付いたネックレスを取り出すや、それをセリスの首へと掛けて微笑んだ。
「こ、これは?」
「想いを伝える貴石……エルフィン・クィーンというの。ランズベルグでは成人する皇女へ護り石として贈られる風習があるのです……そして……」
突然の贈り物に驚くセリスだったが、次にサクヤがとった行動によって、更なる混乱へと突き落とされてしまう。
ネックレスを掛け終えた両手が背中へと廻されたかと思うと、そのまま抱き締められてしまい、ふたりの距離は一瞬でゼロになる。
「サ、サクヤ? ど、どうしたのさ?」
思わず言葉が震えてしまう程に動揺したのも無理はないだろう。
相手はこの世で誰よりも大切に想っている女性なのだから。
出逢った時に一目惚れしたものの、それぞれの立場の差から叶わぬ恋だと自分に言いきかせ、見守るだけで良いと想い続けた日々。
しかし、己の未熟さから引き起こしてしまった過ちを切っ掛けにして、少しだけ関係を進展させる事ができた。
未だに告白への明確な返事は貰えていないが、それでも、潰えてはいない希望を胸にサクヤと接する日々は、セリスにとって喜び以外の何ものでもなかった。
それがどうだろう。
あの告白の日から今日まで、それらしい素振りさえ見せずに自然体で振る舞っていた憧憬の相手が、自分に縋りついて小刻みに肩を震わせているのだ。
その温もりと微かに鼻孔を擽る甘い香りに眩暈を覚えながらも、セリスはそれが当然の様に華奢な身体を抱き締めていた。
夜の静寂に満たされた室内に響くのは、微かに漏れるふたりの息づかいだけ。
そんな、相手の温もりを確かめ合う時間がどれほど続いたのだろうか……。
やはり、これは夢の中での出来事に過ぎないのでは……陶然とする頭でセリスがそう思った時、腕の中のサクヤが消え入りそうな声を零した。
「散々素っ気ない態度を取っておきながら、今更図々しいと言われても仕方がないけれど、明日出撃する貴方にどうしても伝えたくて……」
サクヤは意を決したかの様に顔を上向けるや、その濡れた瞳でセリスを見つめ、途切れ途切れに哀切の言葉を漏らす。
「どんな結果になっても良いから帰って来てください……私の下に帰って来て……それだけで充分ですから……」
その言葉を耳にした瞬間、サクヤを抱く両腕に力が入るのを自覚したセリスは、彼女の美しい顔から目が離せずに泣き笑いの様な表情を浮かべてしまう。
「変だな……凄く嬉しい筈なのに、何だか現実じゃないみたいで……僕は勘違いしても良いのかな? 貴女も僕を好いてくれているのだと?」
そう問われたサクヤも、その美しい顔をほんのりと朱に染めて同じ様に切なげな微笑みを以て応えた。
「えぇ、夢なのかも知れないわ……でも、私が貴方を愛しているという気持ちだけは幻ではありません。ずっと待たせてしまってごめんなさい……こんな優柔不断な私ですが、今でもセリスの気持ちは変わりませんか?」
そう告白するサクヤの頬を涙の雫が伝うのを見たセリスは、居ても立っても居られず、高揚する感情の儘に彼女を強く抱き締めてその唇を奪う。
サクヤもそれを拒まず、寧ろ、積極的に想い人の気持ちに応えるのだった。
◇◆◇◆◇
一糸纏わぬ姿で愛しい男と肌を重ねているサクヤは、何処かフワフワした感覚の中で、想いを言葉にするのは大切な事なのだと改めて胸に刻んだ。
すると、今日までの心の変遷が鮮やかに脳裏に蘇る。
好きだと告白された時に『何も約束できない』と言いはしたが、それはセリスと生活を共にする中で徐々に変化していった。
達也に対する恋慕の情を、叶わないものだと理解しながらも引き摺っていた時とは違い、意識するにせよ、しないにせよ、日々の何気ないシーンで目にするセリスの表情や、その裏表のない一本気な言動が気になりだしたのは確かだ。
そんな感情の変化に気付けば、益々彼に惹かれていく自分を自覚して気恥ずかしくさえあったが、曖昧な気持ちの儘に時間を重ねるのは許されなかった。
帝国の実権をその手中に収めた実兄リオンとの対決はセリスにとって必然であり、譬え、どのような結果を迎えるにしても、想い人が深い傷を負うのは避けられないだろう。
その現実を突き付けられた時にサクヤが懐いたのは、狂おしいまでの愛しさと、その情愛を向ける相手を喪うかもしれないという恐怖に他ならない。
そんな想いに衝き動かされて深夜の訪問となったのだが、無事に想いを重ね合わせられた事に、サクヤは身体中に満ちる喜びを強く感じていた。
くちづけを交わし、昴まる感情の儘に情と身体を重ねてしまったが、それを微塵も後悔していない自分にサクヤは安堵する。
今も優しい手で背中を撫でられるのが心地よく、これは夢ではないのだと思えば自然と嬉し涙が瞳に滲んだ。
「まるで夢の様だ……貴女に想いが届く日が来るなんて……それに、こんな風に、ひとつになれるなんて、夢にしても出来過ぎな気がするよ」
陶然とした声で呟くセリスの言葉で耳を擽られれば、やはり気恥ずかしくなり、顔を赤らめたサクヤは拗ねた様に文句を言った。
「そ、そんな言い方をしないで……婚前交渉なんて皇女としては有るまじき行為なのですからぁ……」
「んっ? それは、そうだけれど……嫌だった?」
何やら意地悪な顔をして問うてくる年下の恋人の物言いが妙に腹立たしく思えたサクヤは、愛しさと照れ臭さが入り混じった不思議な感情を持て余してしまう。
だから……。
「うぅぅ~~~知りませんっ! いいえ、嫌い! 嫌いです!」
そう言ってそっぽを向けば、慌てて謝り出したセリスの様子が可笑しくて……。
「許して欲しかったら絶対に帰って来てくださいね……貴方と御兄様との間に何があっても、私は……私だけはセリスを信じていますから……あっ……」
答えの代わりに返って来たのは甘美で切ないくちづけ。
それが、何よりもセリスの決意を示しているのだと感じたサクヤは、離れるのを惜しむかの様にその想いに応えたのだった。
◇◆◇◆◇
「護りたい大切な女性……」
クラウスに問われてそう呟いたセリスの脳裏を、あの夜に涙を滲ませ自分を見ていたサクヤの顔が過ぎる。
『信じている』そう言ってくれた彼女の想いが胸に染み入り、セリスは胸を衝かれて想いを新たにした。
(そうだ……彼女の下へ帰らなければならないんだ。その為ならば、リオン兄さんとも戦える……そして、サクヤや大切な仲間達と共に望む未来を掴むんだ!)
そう決意して迷いを振り切ったセリスは、クラウスへ顔を向けて微笑むや、短い言葉を返す。
「えぇ……いますよ、大切な女性が……」
その短い言葉から何を感じ取ったのかは分からないが、クラウスが満足げに口元を綻ばせたのを見たセリスは、それ以上は一言も発せずスクリーンに映る帝国艦隊へ視線を向けるのだった。




