第五十九話 一擲乾坤を賭す ③
「はぁ……全然集中できなかった……」
そんな呟きが唇から零れて冷たい風に溶けていく。
我が家へと続く河川敷の遊歩道をトボトボと歩くユリアは、暗く沈んだ儘の気分を立て直せないでいた。
ジュリアンとの口論の末、居た堪れなくなって自宅を飛び出したものの、後悔の念と焦燥感に苛まれた儘では講義に集中できる筈もない。
己の不甲斐なさに切歯扼腕すると同時に、指導してくれるアナスタシアにも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
だが、そんな悔恨の情とは別に、胸を突き刺さす痛みに苛まれているユリアは、その苦しみが重石となって両足に絡みついているかの様な錯覚を覚えてしまう。
(帰りたくないな……こんな見苦しい顔で彼に会いたくない……)
帰宅すれば嫌でもジュリアンと顔を合わせない訳にはいかず、醜態を晒した上に逃げ出した自分が、今更どんな顔をして彼の前に立てば良いのか分からない。
そう考えるだけで益々気分が滅入って、足取りは重くなるばかりだった。
既に、黄昏時といってもいい時間だけに周囲に人影はなく、等間隔で並ぶ外灯の明かりに照らされる道を歩くユリアは、後悔の念ばかりを持て余してしまう。
(彼は本当に素晴らしい働きをしてくれたわ……ジュリアン・ロックモンドだからこそ成し得た……そう言っても過言ではないのに、私は何の疑問も持たず、それを当然の事だと思って感謝の言葉一つ掛けなかった……)
どれほど後悔しても今となっては後の祭りだと言う他はないが、己の不誠実さが悔やまれてならない。
父に力添えしたばかりに、彼と彼が率いる財閥が司直の手に落ちる……。
そんな当然の帰結は少し考えれば分かる筈だったのに、新しく得た生活に浮かれて気付きもしなかったのだ。
そんな不様な自分に変わらない愛情を向けてくれるジュリアンの真意を理解できないユリアは、彼の一途な想いに懊悩するしかない。
「その名を銀河系に轟かせる大財閥総帥が、なにを好き好んで私なんかを……」
昨日までの何も理解しなかった自分ならば、繰り返される彼の『愛している』という言葉に呆れ、そう揶揄しただろう。
しかし、今は同じ台詞を口にしているにも拘わらず、そこには確かに哀切の情が滲んでいるのを自覚せざるを得なかった。
それはジュリアンに対する恋慕の情に他ならず、それを知ったからこそユリアは苦しんでいるのだ。
(今更本当の気持ちに気付いたところで……)
そう胸の中で呟いた瞬間、歩を進める気力も尽きたユリアは、傍にあったベンチに腰を下ろすや深い溜息をついた。
白く煙った吐息が瞬時に拡散し、外灯の明かりの中に消えていく様子を見れば、自然と目線は天を向き、冬の静謐な空気の中で燦然と煌めくニーニャを捉える。
「私の想いも、あの星の光に溶けてしまえば良いのに。そうすれば、みっともなく悩まなくても済むのにね」
不意に川面から吹き上げて来た冷たい風が、無防備な頬を撫でるのと同時に唇から零れた言葉をも攫っていく。
後に残ったのは、夜気によって熱を奪われた身体と心だけだったのだが……。
「何を悩まなくて済むって?」
「!? きゃあっ!??」
不意に背後から聞き覚えのある声がしたかと思えば、ふわりとした感触とともに厚手のダウンジャケットが肩に掛けられた。
驚いたユリアは思わず短い悲鳴を漏らして肩を跳ねさせてしまう。
「そんなに驚かなくても良いじゃないか」
慌てて振り向いた先には、如何にも不本意だ、と言いたげな表情のジュリアンが立っており、ユリアは思いもよらぬ再会に狼狽せずにはいられなかった。
「なっ、なんで!? あなたが此処にいるのよ!?」
激しく脈打つ心臓を懸命に宥めながらそう問うたのだが……。
「クレアさんから君のお出迎え役を拝命してね。愛用のジャケット共々に推参したという次第です。我が姫君」
気障な台詞を口にする財閥総帥がニコニコと笑み崩れるものだから、虚を衝かれたユリアは、ニーニャの明かりに照らされる彼の柔らかい表情に見惚れてしまう。
だが、そのほんの僅かな隙を逃さなかったジュリアンは、まんまとユリアの隣に腰を下ろすや、困惑する彼女に立ち直る間を与えずに口を開いた。
「昼間は随分と驚かせてしまって悪かったと思っている。でもさ、恩に着せる様で嫌だった。“これだけの事をしたのだから、僕を認めて欲しい”……そんな浅ましい気持ちで君に接したくはない……そう思ったんだ」
その言葉に込められた熱量と真摯な想いに胸を打たれたユリアは、まるで釘付けにされたかの様にジュリアンの顔から視線を外せなくなってしまう。
「実績も何も関係ないし、君が望むのならば今の地位にも未練はない……だから、隣に立つ許しを貰えないだろうか? 君を愛している。それだけが僕の真実だよ」
それは、何時もの何処か飄々とした雰囲気を纏う少年のものではなく、強い想いを宿した男の顔だった。
だから、ユリアは圧倒されて息を呑まざるを得なかったのだ。
今までも顔を合わせる度に『愛している』と言われ続けて来たが、今日のそれは、同じ言葉でありながら感情の重みが違い過ぎて戸惑いは大きくなるばかり。
(ほ、本気なの? 本気で私なんかを?)
ジュリアンの想いに嘘偽りがないのは容易に理解できたが、その対象が自分なのが信じられない。
(だって、私は一度は死んだ人間だわ……この身体だって作り物でしかない)
その事実は否定しようもなく、だからこそユリアは、自身の未来に過度な希望は懐くまいと頑なに思い込んで来たし、実際にその様に振る舞っても来た。
しかし、過去の悲惨な境遇も含め、全てを承知の上でジュリアンはプロポーズの言葉を口にしたのだ。
それは、ユリアにとって信じられない暴挙に違いはなかったが、彼女の心の奥底で未だ凍り付いた儘の小さな欠片を溶かすには、充分な熱量を持っていた。
だからこそ、胸に込み上げて来る恋慕の情に縋ろうとしたユリアだったが、その途端に懊悩し続けて来た想いに苛まれた少女は、本心に反した自虐的な言葉を口にしていた。
「馬鹿な事を言わないで……あなた、自分が何者なのか本当に分かっているの? 天下の大財閥総帥が、こんな人間でもない魔女に『愛している』だなんて、最低のジョークだわっ!? きゃあ!??」
しかし、全てを言い終わらぬうちにジュリアンに両肩を掴まれ、強引に正面から向き合う姿勢を取らされる。
「なっ、何をするの!? ジュ、ジュリア……ン?」
思わず声を荒げて抗議したのだが、強い視線に射竦められたユリアは、それ以上の言葉を口にはできなかった。
「自分が人間じゃないなんて、馬鹿な事を言うんじゃないッ! それは達也さんやクレアさん、そして君を慈しんでくれる全ての人への冒涜だッ!」
この言葉には彼自身の純粋なまでの怒りが滲んでいる……。
そう悟った瞬間、長年に亘ってユリアの心を覆っていた壁が崩壊し、その奥から感情を露にした言葉が口を衝いて出た。
「そんなの分かっているわよッ! でも仕方がないじゃないッ! 私が一度死んだのは事実だし、この身体だってヒルデガルド殿下に戴いた依代に過ぎないわッ! それでもあなたは、私を人間だというのッ!?」
一旦口を開けば、積もりに積った暗く鬱屈した想いが溢れて止まらなくなる。
「あなただって薄気味悪いと思っているでしょう!? 出逢って二年しか経たないのに、あの頃の面影も薄れる程に成長してしまったのよ? そんな人間がいる訳がないじゃないのッ!」
己が口にした言葉で自らの心を斬り刻まれ、その痛みに苛まれて知らず知らずのうちに涙が両の瞳に滲む。
「なのにっ……それなのにぃッ! こんな人間モドキの為に今の地位を捨てる? それこそ馬鹿げた話だわッ! 名だたる大財閥総帥のくせに血迷うのもいい加減にしなさい!」
一気呵成に捲し立てながらも、頬を伝い落ちる涙は止まらず、それが情けなくて、恥ずかしくて……。
そして一刻も早く逃げ出したいと願う感情の儘にユリアは叫んでいた。
「もう充分楽しんだでしょうッ!? 未練に憑りつかれた亡者の滑稽な姿をッ! だったら、もう私には構わないで……期待させないで……夢から覚めて、何ひとつ手に入らない現実はもう嫌なの……だから、だから……あっ!??」
自分はジュリアンには相応しくはないという負の感情が口にさせた諦念は、予想だにしなかった温もりによって遮られてしまう。
線の細い外観からは想像もできない強い力で抱き締められたのを知ったユリアは困惑し、その束縛から逃れようとジュリアンの腕の中で藻掻いたのだが……。
「誰もが一生懸命に生きているんだ……それを滑稽だと嗤う奴には嗤わせておけばいいじゃないか。それに、僕は美しく成長していく君を見ているのが嬉しかった。こんな風に君を抱き締めたいと何度思った事か……」
その安堵に満ちた言葉は確かにユリアの心を打った。
「夢はこれから幾らでも叶えて手に入れられる。いや、手にして見せる。その時に僕の隣に居て欲しいのはユリア、君だけだ」
「ジュリアン……でも、私の身体は……」
彼の強い想いに感極まって、思わず抱き締め返そうとした刹那、最後の躊躇いがユリアの心に枷を嵌める。
だがそれは、春の陽射しを思わせる温もりで溶かされてしまうのだった。
「自分を卑下しちゃ駄目だ……君が今こうして僕の腕の中に居るのは、達也さんやクレアさん、そしてヒルデガルド殿下の想いの結実に他ならない……だから、僕は全ての人々に感謝しているよ。ユリアに出逢わせてくれてありがとう……とね」
そう言って微笑むジュリアンの顔は涙で滲んだ瞳では形を成さず、何とかちゃんと顔を見たいと思うのだが、溢れ出る涙は増すばかりでどうにもならない。
(ちゃんと伝えなければならない……私の本当の気持ち)
そんな切実な願いに衝き動かされ、ジュリアンの身体を抱き締め返したユリアは、その胸に顔を伏せ、ずっと胸の奥に隠して来た想いを吐露する。
「馬鹿ね……草葉の陰で御爺様方が泣いておられるわよ……でも、馬鹿なのは私も同じだわ……だって嬉しいもの。あなたに愛していると言われて、とても嬉しい」
「あぁ……」
感極まった声に誘われるかの様にユリアは顔を上向け、間近にあるジュリアンの優しさに満ちた顔を見て確信する。
「私も愛しているわ、ジュリアン……あなたを愛しています」
それ以上の言葉はふたりには必要なかった。
僅かな距離は一瞬で無になり、ニーニャからの淡い光の中で口づけを交わす。
その至福の時間が未来永劫続けば良いと願いながら……。
◇◆◇◆◇
「ふう。楽しい夕食会になったね」
寝室のソファーで寛ぐ達也がそう言えば、お風呂を済ませて戻って来たクレアが相好を崩して同意する。
「えぇ。ユリアも漸く素直になれたみたいで、本当に良かったわ」
だが、無邪気でいられる妻とは違い、達也としては心中複雑だと言う他はない。
ふたり揃って帰宅してからというもの、これまでに感じられた距離感がすっかり消え失せており、交わす会話からも、ジュリアンとユリアが想いを通じ合わせたと察するのは容易だった。
それは愛娘にとって素晴らしい出来事に違いないし、祝福するのは吝かでないと思う反面で一抹の寂寥感も禁じ得ず、どうにも心穏やかという訳にはいかない。
すると、そんな夫の心境を見透かしたのか、如何にも『困った人ね』と言いたげな表情のクレアが揶揄って来た。
「たった二年で娘を奪われる父親の悲哀に浸るのはいいけれど、泣くのは私の前だけにして下さいね。ユリアとは違って、まだまだ幼いさくらやマーヤにそんな顔を見せちゃ駄目ですよ、達也さん」
「な、何を馬鹿な事を……泣かないからな俺は……」
気恥ずかしくて憮然とした表情を取り繕った達也は、そそくさと立ち上がるや、ベビーベッドの傍に移動して可愛らしい寝顔で横たわる蒼也を見つめる。
そして、隣に並んで共に我が子を見守る愛妻の肩を抱いて想いを吐露した。
「皆が幸せになって欲しい……そう願う気持ちは強くなるばかりだ。だから絶対に勝たなければならないんだ」
「出撃が決まったの?」
「あぁ……三日後の午前零時を以て……俺が直卒する奇襲艦隊が軌道要塞を発つ。正に『一擲乾坤を賭す』の言葉通り、全てを手にするか、それとも失うかの大博打だ」
「でも……それでも、私達は勝たなければならないのでしょう? だったら勝って下さい。私も自分に課せられた使命を果たしてみせますから……必ず」
この戦いが今後如何なる変化をこの世界に齎すか、神ではない達也やクレアには想像すらできない。
ならば、自分が思い定めた信念に従って全力を尽くせばいいし、それしかないとふたりは決めているのだ。
だから、愛妻からの願いを受け止めた達也は同じく願いを返す。
「必ず勝つ。だから、この星の未来は君達に託す……皆が助け合って生きていける世界の実現……楽しみにしているよ、クレア」
言葉が落ちるや、お互いの温もりを確かめ合うかのように、ふたりは抱擁を交わすのだった。




