第五十五話 比翼連理 ⑤
『達也が無理だと言うのならば、貴女が初代国家元首になれば良いのです』
突拍子もないアナスタシアからの提案に驚いたクレアだったが、取り乱して醜態を晒すような真似はしなかった。
今日この場に来るまでの自分ならば、間違いなく狼狽して尻込みしただろうし、彼是と理由を並べて固辞したに違いない。
だが、無謀だと言われても仕方がないこの提案が、セレーネとそこに住まう人々の活路を開く唯一の解答に他ならないとクレアは直感で確信したのだ。
だから、アナスタシアを真っすぐに見つめて問うたのである。
「大切な人々の運命を左右しかねない大役が、私に務まるでしょうか?」
僅かばかりの軍務経験しかない世間知らずの自分が、選りにも選って国家元首として政治に携わる……。
そんな御伽噺が通用するほど銀河世界は甘くはないし、それはクレア自身も充分承知していた。
だからこそ、荒唐無稽な提案をしたアナスタシアに、その暴挙を成す起死回生の妙手が有るのか否かを問うたのだ。
それは、ほんの僅かでも可能性があるのならば、最愛の夫の力になるべく困難に立ち向かうのも辞さないという決意表明に他ならなかった。
そんなクレアの想いを過たずに理解したアナスタシアは、口元を綻ばせて華やいだ笑みを浮かべる。
「勿論です。あらゆる種が協力して共生社会実現を目指す新国家……その初代元首には、政治力云々を問う以前に、人並み外れたカリスマ性がなければ話になりません。その一点で貴女以上の適任者はいないのです。英雄ランツェと竜母セレーネの直系である貴女こそが、この星の指導者に最も相応しいと私は確信していますよ」
興奮を隠そうともしない伯母の台詞にソフィアも同意する。
「伯母上様の仰る通りですよ。先日御披露目された新教団の象徴たる聖母像は其方に瓜二つ……そして入信者は列を為し、毎日大勢の参拝者が訪れているとも聞いています。私が命じて調査した者の報告では、今や嘗ての英雄様よりも貴女に対する信望が勝っているとか……彼ら住民の想いは仇や疎かにはできませんよ」
クレアにとって雲上人からの言葉は、俄かには納得し難い内容だったが、同時にエリザベート女王から投げ掛けられた意味深な台詞が脳裏に蘇り、“あっ!”と短い声を漏らしてしまう。
『やはり其方しか居らぬであろうなぁ……』
断定するかの様に嘯いたあの時の女王も、アナスタシアやソフィアと同じ考えを懐き、この日があるのを確信していたに違いない。
これから踏み出すべき道の険しさと責任の重さを痛感せざるを得ないクレアは、運命という名の必然に翻弄される未来に慄然として身が竦む思いだった。
「過分な評価を賜り、非才の身には恐縮する他ありませんが、この星の礎を築いた英霊の方々の恩寵に縋るだけで、全てが上手くいくとも思えないのですが?」
軍人としての訓練を受けて来たクレアも達也同様に徹底した現実主義者であり、その理念が行動の根拠になっているのに変わりはない。
だからこそ、憧憬と人気頼りの指導者では国家運営など覚束ないと危惧して疑問を口にする。
しかし、そんな彼女の不安など織り込み済みのアナスタシアは、当然だとばかりに頷いた。
「それはそうでしょう。偉大な御先祖様の血が妙案を授けてくれる訳ではないし、その子孫らが立派だとは限りませんからねぇ。寧ろ、代を重ねる毎に高邁な理念は劣化し堕落していくのが常ですから、その不安は当然です……ですが、私は貴女に関しては心配はしていませんよ」
そう言って言葉を切った老淑女は、不安げに眉根を寄せているクレアに微笑んで見せ、真摯で素直な心情を吐露する。
「先ほども言いましたが……行政などの三権に関する実務は官僚らに丸投げしても構わないのです。指導者の役割は、自身の手足となる彼らを信頼して仕事を任せ、そして彼らから上げられる案件に対して最終的な決断を下す……それ以外にはありません。あとは如何に信頼関係を築くかが問題になるのですが、既に絶大な信任を得ている貴女ならば、その点は杞憂だと言わざるを得ないでしょう」
「そんなっ!? 私が信任されているなどと……私は達也さんの後ろを歩いているだけで……」
殊更に特別な事をしたという記憶がないクレアにとって、アナスタシアの言葉は大袈裟に過ぎると恐懼せざるを得ず、狼狽して否定の言葉を返したのだが、それは違うとアナスタシアから諭されてしまう。
「達也の同意も得て官僚の養成講座を開設しましたが、アルカディーナの長老衆は元より、若手のリーダー格やこれまで政治などに興味もなかった者達が多数押しかけています。その者達が異口同音に語るのが貴女に対する感謝の念と信頼の情なのよ? それは貴女が勇者の血を引くからではなく、この星に来てからの行動を皆が見て評価した結果に他ならないのです。だから、皆の想いを貴女自身が否定してはなりません。そして応えてあげなさい。それが、この星の未来を切り開く力になる筈ですから」
その温かい激励の言葉に感極まったクレアは、両の瞳に涙を滲ませて何度も頷くしかなかった。
そんな彼女に優しげな視線を向けるソフィアは、湿っぽくなった雰囲気を変えようと華やいだ声でクレアを励ます。
「元首たるに相応しい立ち居振る舞いや教養は、私達が仕込んでさしあげますから心配しなくても大丈夫ですよ。ファーレンのエリザベート女王陛下も意欲満々でしたし、貴女の御屋敷に日参しますので宜しくお願いしますわね」
皇后様の口から零れた不穏な内容は兎も角。
困難が予想される茨の道を行くと決めたクレアには、願ったり叶ったりの申し出である。
畏れ多くはあるが、政治向きの事や必要な知識、そして教養等を学ぶには最高の御手本であり、心から感謝せざるを得なかった。
「未熟者ではありますが、必要なものを取得する為ならば如何に厳しい指導であっても甘んじて受ける覚悟です。ですから、どうか皆様方の御厚情を賜りますよう。伏してお願いいたします」
その言葉を聞いて破顔したソフィアは何度も頷き、全力でサポートすると約束したのである。
しかし、そんな浮かれる母親に猜疑に満ちた視線を向けたサクヤがぼそりと呟けば、これまた訝しげに目を眇めるアナスタシアが、身も蓋もない慨嘆をその口から零す。
「お母様? まさか外出したさに指導役を買って出た訳ではありませんわよね?」
「それ以外に何がありますか? 軟禁同然の生活に退屈を持て余した挙句。同じく辟易している側妃達と愚痴を零しあっては、何とか自由を勝ち得たい、と密談していたのを私が知らないとでも思っているのかねぇ?」
身内からの容赦ない追及を受けたソフィアは辛うじて笑みを取り繕ったものの、動揺しているのは一目瞭然だ。
「ま、まぁ! おほほ! そ、それは言い掛かりですわ。私は心からクレアさんに助力できればという純粋な気持ちで……ね、ねぇ! 信じてくれますわよね!? クレアさん!」
しどろもどろの抗弁の後、最後は泣き落としにでた皇后様に懇願されたクレアは、微妙な面持ちで苦笑いするしかなかった。
だが、鬱屈しているであろうソフィアの心情を慮れば、何とかしてあげたいと思うのが人情だろう。
だから、クレアは心のメモ帳に必須事項を書き込んだのである。
……美味しいものと観光プランを早急に用意するべし……と。
◇◆◇◆◇
「なるほどね……つまり、言い包められて厄介事を引き受けてしまったと?」
他の家族が寝静まって寂然とした屋敷に、何処か諦念を含んだ達也の声が力なく響いた。
深夜に帰宅してみれば、待ち受けていた愛妻から話があると言われてリビングに強制連行され、そのまま長ソファーに並んで座らされたのだ。
そして、皇王家の面々と会談した詳細を告白された達也は驚くやら呆れるやらで、冒頭の台詞を溜息と共に口から零したという次第だった。
そもそも、クレアを元首に据えるというプランは、達也自身も考えないではなかったのだ。
だが、強い正義感の持ち主ではあるが心根が優しい彼女には、生き馬の目を抜く政治の世界は針の筵になりかねない……。
それが分かっているだけに断念せざるを得なかったという経緯がある。
今もその考えに変わりはないのだが、手と手を絡め合わせてニコニコ微笑んでいる愛妻を見れば、既に覚悟を決めたのが容易に察せられてしまい、頭ごなしに反対するのも躊躇われてしまう。
そんな達也の逡巡を察してか、態と唇を尖らせたクレアは拗ねて見せた。
「あら! 随分とひどい言い種ね。あなたの可愛い妻が一大決心をしたというのに、応援してはくれないのですか?」
「可愛い奥さんだからこそ辛い思いをさせたくはない……そう願うのは俺の我儘なのかな? そうだとしたら、応援するしかない……だろう?」
今更反対しても無駄だと分かるからこそ、半ば容認したかの様な言葉が口を衝く達也とは裏腹に、クレアは喜びに顔を赤らめて夫に寄り添うや、その肩に頭を乗せて囁いた。
「身勝手な事ばかり言ってごめんなさいね……でも、私はあなたを支えたいのよ。たとえ微力でも達也さんの役に立ちたいの……」
そう言い切られれば達也に拒む術はなく、自らの完敗を素直に認める他はない。
「君には充分助けられているよ。これからも比翼連理となって共に生きていこう」
「嬉しい……私もずっとあなたの隣で生きていきたいわ……」
目尻に涙を滲ませたクレアが顔を上げると、解かれた達也の手が腰に廻された。
そして当然の如くに抱き寄せられれば夫の顔が間近にあって……。
ふわふわした心地良い浮遊感の中で唇を重ねようとしたのだが……。
「あぁ──ッ!? 夜中にイチャイチャしちゃダメなのぉッ!!」
まさに唇が触れるか否かというタイミングで険悪な叱声に夜の静寂は切り裂かれ、甘い雰囲気など雲散霧消してしまう。
既に日付が変わっていた為か、達也もクレアも全く油断しており、慌てて身体を離してリビングの入り口に目をやると……。
そこには両腕を胸の前で組んで憤慨するさくらを筆頭に、何とも言えない表情のユリアと如何にも寝惚けていますといった風情のティグルとマーヤが立ち尽くして此方を見ているではないか。
おまけに子供たちの後ろには、野次馬根性丸出しのアルバートと美沙緒までもがおり、ニコニコ……いや、ニヤニヤと言った方が適切な表情で自分達を見ているという最悪の状況を呈していた。
クレアは羞恥に顔を赤らめて大いに取り乱し、何とかその場をと取り繕おうとしたのだが、愛娘の怒りの一撃の前に言葉を呑み込まざるを得ない。
「ママはいつもお父さんに『子供達を甘やかし過ぎる』って文句を言うけどさ! 一番甘やかされているのはママだよね!? 不公平だよぉ! ママばっかり甘やかしてぇぇ─ッ! やっぱり達也お父さんは意地悪だぁ!」
ぶんむくれ状態のさくらから鼻息も荒く追及されたクレアは顔を赤くする他はなく、返す言葉が無い達也も愛娘の叱責に甘んじるしかなかった。
すると止せば良いのに、調子に乗った両親がものの見事に地雷を踏み抜いてしまい、深夜の白銀家のリビングは、その混沌を深くしたのである。
「わしらの事は気にせずに続きをして良いんだよ」
「そうよぉ~~~。蒼也ちゃんだって弟や妹は欲しいでしょうし。あなた達夫婦もまだまだ若いのですから頑張りなさいな」
朱に染まったクレアの顔が急速にその色を失っていく。
ユリアは呆れて溜息をつくや、夢見心地のティグルとマーヤの手を引いてその場から離脱。
だが憤慨しきりのさくらと浮かれた老父母は完全に撤退時期を見誤り、超特大の音響爆弾を喰らう羽目に陥ったのである。
「こんな時間に何をしているのぉぉ─ッ! そこに正座しなさいッ! 今日という今日は絶対に許しませんからねッ! お父さんとお母さんもよッ!」
その後さくらが反発して説教が長引いた所為で、達也は寝不足を余儀なくされてしまい、翌日の会議では欠伸を連発しては、ラインハルトやエレオノーラから散々叱られたのは言うまでもない。
まさに自業自得。
間もなく本格的な春が訪れる前の晩冬の出来事だった。
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