第五十五話 比翼連理 ④
『貴女は達也を殺す気ですか?』
刃の如き言葉の切っ先を喉元に突き付けられたクレアは、余りの衝撃に茫然として言葉を失い、微笑む皇后から視線を逸らせなくなってしまう。
穏やかな雰囲気を纏ってはいるものの、ソフィアが強く憤っているのは明白であり、何がこの貴人を憤慨させたのか理解できないクレアにしてみれば、困惑して口籠るしかない。
しかし、その重い言葉には必ず意味がある筈だと思い至った彼女は、真摯に頭を下げて教えを乞うたのだ。
「皇后様のお叱りに理解が及ばず、この身の浅学非才を恥じ入るばかりですが……なにとぞ御真意をお聞かせくださいますよう、伏してお願い致します」
クレアの為人はアナスタシアから聞かされていたので、この成り行きは予想の範疇だったが、その潔い態度に感嘆したソフィアは、親愛の情を滲ませた笑みを浮かべた。
「クレアさん。貴女は立派です。昨今はプライドばかりが高い暗愚な輩が闊歩していて、少々ウンザリしていたのですが、貴女の様な素敵な方に出逢えて鬱屈が晴れた思いです。達也に対するその想いをずっと大切にして下さいね」
重ねて叱責されるのも覚悟していただけに、一転して称賛されたクレアは面食らい、ひどく曖昧な微笑みを浮かべてしまう。
そんな姿さえ初々しく思った皇后は、益々その笑みを深くして話題を戻す。
「なにも難しい話ではありません。先程も言いましたが、千五百年前のランツェ・シュヴェールト殿の境遇とその悲劇が、そのまま今の達也にも当て嵌まると言っているのです」
「そっ、それは……たとえ勝利して戦後を迎えたとしても、主人は戦争犯罪人として裁かれる可能性が高いという事でしょうか?」」
勘の良いクレアは皇后の言葉から推測して問い返したが、幾ら何でもそこまではという思いが強く、半信半疑といった体は否めない。
しかし、その表情から笑みを消したソフィアは小さく頷いてその反問を肯定するや、嚙んで含める様に言い聞かせた。
「国家という存在は魑魅魍魎が跋扈する魔窟も同然だと心得なさい。今後勃発する大戦で、どれだけの国や団体が達也の味方になるのかは分かりませんが、その行動原理が安っぽい正義感や義憤に根差したものだとは努々思わない様に……風向きが変われば、平然と裏切り行為を働くのも国家の常なのだと胸に刻んでおくのです」
活躍する場は違うとはいえ、ランズベルグの利を護るという一点で、ソフィアはアナスタシア同様に己の領分で最善を尽くしており、その言葉には万金の重みがあると言っても過言ではない。
「変革と戦いの最中にあって英雄は掛け替えのない存在ですが……勝利して戦後を迎えた暁には同盟国もその扱いには気を使わざるを得ず、下手に高邁な理念を盾にされ様ものなら、自国の利すら儘ならない事態になるのは明白……捨扶持を与えられて満足するならばまだしも、戦後の新しい枠組みに嘴を挟まれては厄介と考える国は存外多いものなのですよ」
「つ、つまり我々が掲げる『共生』の理念は、他の国々には受け入れられないと仰るのですか?」
未来に起こり得る不穏な可能性を突き付けられたクレアは、ソフィアのその懸念を憂慮して問い返したが、理知的な皇后が小さな息を吐いて頷く姿を見て暗澹たる想いに駆られてしまう。
「そうですね……絶対君主制や封建制度を敷いている国は元より、議会制民主主義を標榜する国々でさえ差別の根絶は為されていません。その様な中で、英雄を擁する国が夢の様な理念を掲げてその実現に邁進すれば、それを知った他国の民がどう思うか……旧来の為政者達にとって国民の反応は無視できないもの。混乱を避ける為にも、貴女達が掲げる理念は絵空事だと断じる国家指導者は多いでしょう」
すると、面罵されて消沈していたサクヤが再起動して口を挟んだ。
「つまり、戦後の主導権を握る為に裁きの場を利用し、達也様を戦争犯罪人に貶めて失脚させる……そうなる可能性が高いとお母様は御考えなのですか?」
自ら口にしていながらその唾棄すべき内容に嫌悪するサクヤだったが、ソフィアは顔色ひとつ変えずに我が子の言葉を肯定した。
「達也自らが審判を望んで裁きの場に立つ以上、自国の打算を優先させる為政者達には格好の言い分を与えるに等しいわ……この好機を利用して英雄の追い落としを図るなど当然と考えるべきです。その際に達也がセレーネの国家元首であったならば、最悪の事態も覚悟しなければならないでしょう……ねぇ伯母上様。そうですわよね?」
政治の裏側の醜い部分を語る役を押し付けられたアナスタシアは眉を顰めたが、仕方がないと割り切って口を開く。
「もしも私が達也と敵対し、自国の利害を優先して彼の失脚を狙うのならば、戦争責任を達也ひとりのものとはせず、国家の責任として追及するでしょう。その方が得られる利は大きく、英雄を貶める効果は絶大。上手く世論を誘導すれば、被害を受けた国や個人に対する賠償は元より、梁山泊軍が有している戦力の無償譲渡や、機密に当たる新技術の供与さえ和解の条件に織り込むのも可能でしょう」
政治には疎いクレアでさえ、アナスタシアを敵に廻すと想像しただけで恐懼して背筋に冷たいものが走るのだから、その大伯母を知り尽くすサクヤが顔を真っ青にして言葉を失うのも無理はなかった。
そんなふたりに斟酌しない老淑女は構わずに言葉を重ねる。
「譬え、その要求がどんなに理不尽だったとしても、国家元首たる達也を護ろうと思えば涙を呑んで妥協せざるを得ないでしょう? でも、それを国民が望んだとしても国力が疲弊するのは避けられないし、新しい秩序の下で再構築される銀河世界での地位や発言力は暴落して共生社会の実現も大きく遠のくでしょうね……それでは、多くの血を流してまで戦う意味がないわ」
厳しい未来予想図を突き付けられたクレアは、頑なに政治への介入を拒み続ける達也の真意を理解して唖然とするしかなかった。
(譬え、どの様な結果に終わったとしても、他の勢力からの横槍は避けられないと分かっているのね……その時にセレーネを害する口実を与えないために、ひとりで批判の矢面に立って裁きを甘受するつもりなんだわ)
夫は既に戦後の趨勢をも見据えて何がベストなのか考えている。
そう気付いたクレアは、自身の見識の甘さを痛感して臍を噛むしかなかった。
達也の身を案じるあまり、梁山泊軍の母体でもあるセレーネや、延いては未来に希望を託して戦おうとしている人々の想いにまで考えが至らず、視野狭窄に陥っていた感は否めないだろう。
それはセレーネを豊かにして幸福な未来を手にするべく、懸命に日々を生きているこの星の人々の願いすら無にしかねない愚かな思い込みだったと気付き、クレアは身震いする思いだった。
しかし、その一方で、達也ひとりに犠牲を強いるのが正しいとは思えないのも、偽らざる本心なのだ。
如何にストイックで自己犠牲を厭わないといっても、全ての責を達也が負う必要が一体全体何処にあるというのか?
どれだけ考えても納得できる理由に思い至らないクレアは、そう遠くない未来に理不尽な仕打ちを甘受しなければならない夫に対し、哀切の情を禁じ得なかった。
だが、同時に考えてしまうのだ……。
『なぜ我々が……いや、白銀達也が戦争責任を問われねばならないのか』……と。
現状自分達が置かれている状況は、銀河連邦側が仕掛けて来た謀略によるものに他ならないし、達也を含めて仲間の全員が生存権を懸けて戦った結果に過ぎない。
なのに何故、迫害され虐げられた方が責任を負わねばならないのか?
如何に夫が清廉で立派な志の持ち主だとはいえ、その全てに妻として同意はできないとクレアは改めて気付いてしまった。
(そうよ。それが達也さんの信念だというのならば、私にも譲れない想いがあるわ……それは子供達も同じはず)
脳裏に愛して已まない子供達の笑顔が次々と浮かぶ。
自分達が何を望んでいるのか改めて確信したクレアは眦を決し、それまでの悄然とした雰囲気を打ち払って決然と顔を上げた。
(達也さんに無事でいて欲しい……それが私達の願いだわ。たとえあの人の想いに反するとしても、私と子供達の気持ちは変わらない)
そう思い定めれば、今までウジウジと悩んでいたのが馬鹿らしく思えてしまい、自然と心が軽くなって口元が綻んでしまう。
そんな様変わりしたクレアの表情を見たアナスタシアとソフィアは、共に相好を崩して意味深な含み笑いを漏らす。
そして、待ち望んでいた言葉をクレアの口から聞かされたふたりは、その笑みを深く、そして強くしたのである。
「ならば。この星の未来も潰させず、尚且つ夫の身も護れる良き方策があるのでしたら、私に御教授戴けないでしょうか?」
その決意の言葉に満足して頷いたアナスタシアはクレアを柔和な視線で見つめ、普段の彼女にしては珍しく弾んだ声を上げた。
「漸く覚悟が決まったようですね。私達はそれを待っていたのです」
嬉々とする伯母に追随するかの様にソフィアも微笑んで言葉を重ねる。
「それでこそ白銀達也の御内儀ね……貴女の決断を私達は全面的に支持し、助力を惜しまないと約束しましょう」
ふたりの言葉に感激したクレアは、深く頭を下げて謝意を示す他はなかったが、そんな礼は不要だと言わんばかりにアナスタシアは左右に首を振った。
「そもそもが。自分と大切な者達の命を護ろうとして戦う行為を非難される謂れはないでしょう? 然も、自身の責任を詳らかにして謝罪しようとする達也の真摯な想いを逆手に取り、邪な我欲を剥き出しにして利を得ようとする連中に何の遠慮がいりますか?」
辛辣な物言いだったがクレア自身も全く同感であり、気が付けばアナスタシアの言に大きく頷いていた。
そして、これだけ明確に断言する以上は、起死回生の一手が老淑女の胸の内にはある筈だと期待せずにはいられず、クレアは瞳を輝かせて息を呑んだ。
そして、その切望にも似たクレアの想いは、次にアナスタシアの口から飛び出した台詞によって確かな形を成したのである。
「達也が無理だと言うのならば、貴女が初代の国家元首になれば良いだけの事です……クレアさん。貴女自身がねぇ」
隣でサクヤが息を呑んだのが空気の揺らぎで分かってしまう。
勿論、クレア自身も驚きはしたが、不思議と心は凪いでいた。
そして、熱を持った想いが胸中に広がるのを自覚した彼女は、希う未来を手にするべく、新たな決意を固めたのである。




