第五十二話 埋火(うずみび) ⑤
(ふんっ……やっと心に火が入ったか)
両の瞳に決意の色を滲ませて立ち上がったセリスを見た達也は、その覚悟の程を察して唇の端を軽く上げた。
先ほどまでの煮え切らない風情は既になく、自分に向けられている木刀の切っ先からは、勝利を掴まんとする切望が犇々と伝わって来る。
(ここからが本番……と言いたいが、余り長くは続けられそうにないな)
気力は充実していても、これまでに打ち据えられて蓄積したダメージは如何ともし難く、セリスの限界が近いのは一目瞭然だった。
そもそもが、達也にしてみればセリスの告白を聞いて嚇怒した訳ではないし、懲罰的な意味合いで剣戟訓練を申し込んだ訳でもない。
ただ、彼の本気を見たかっただけなのだ。
だが、サクヤを泣かせたという一点に於いて憤慨し、少々本気を出してしまった感は否めず、内心では反省してもいた。
しかし、両名の間には隔絶した実力差がある訳ではないにも拘わらず、それでも勝負が一方的な展開になっているのは、慚愧の念に心を乱したセリスが本来の実力を出せずにいるからに他ならない。
だがそれも、彼の目の色が変わったことで解消されたと察した達也は、セリスの視線を正面から受け止めながら、武道場全体を監視しているカメラの作動ランプが点灯しているのを確認してほくそ笑んだ。
(どうやら観客は揃った様だな……ならば仕上げといくか)
セリスの体力が尽き果てる前にクレアとサクヤが到着したと知った達也は、木刀を構え直して不敵な微笑みを口元に浮かべた。
「やっと何時もの目に戻ったな。だが、それでも俺には及ばない。それは君自身が一番分かっているのだろう?」
挑発めいたその台詞にセリスは表情を歪めたが、ムキになって言葉を荒げる程には激しておらず、向けられた木刀に注意を払いながら言葉を返す。
「貴方の強さは身に染みていますからね……だから勝ち負けなんかどうでもいいのです! でも、譬え相打ちになっても、私の木刀を届かせてみせますよ!」
我ながら情けない言い分だとの自覚はあるが、達也が相手ではそれすらも至難の業だと言わざるを得ないのだ。
散々打ち据えられた身体では、全力で動けるのはあと僅かだと分かっているし、その上でサクヤに負担を強いない為にも、屋敷を出るという要望を受け入れさせなければならない。
その想いに拘泥するセリスは残った力を一撃に懸け、玉砕覚悟で達也に打ち掛かる決意をしたのだが……。
「理解できないな……それがサクヤに対する贖罪から出たものだと本気で思っているのかい? 今の言葉に君自身の想いは欠片も含まれてはいないのかな?」
極力感情を抑えているとはいえ、その問い掛けに滲む憤懣の情は隠しようもなく、肌を刺す圧に呑まれたセリスは足を止めざるを得なかった。
然も、ひた隠しにしていた恋慕の情まで見透かされた挙句、『サクヤへの想いを言い訳にするな』と叱責されたのだから、狼狽するのも無理はないだろう。
改めてそう問われれば、自分が如何に未熟で子供だったかが分かる。
どんなに美辞麗句で取り繕ったとしても、不意打ちでサクヤの唇を奪った事実が消える訳ではないし、許される筈もないのだ。
譬え、それが衝動的なものでなく、己の心に巣食う未熟な感情が発露した結果だったとしても、言い訳にすらならないとセリスは悟っていた。
だからこそ、自分がサクヤの前から消えさえすれば、少しでも彼女の心が安んじられるのではないかと思い定めたのだ。
しかし、今の自分にとっての精一杯を言下に否定されたとなれば、如何に相手が敬愛する恩人であっても、胸の中に蟠る憤りを我慢できる筈もなかった。
だから、そんな憤懣遣る方ない想いに駆られたセリスは、苛立ちに騒めく心の儘に激情を露にする。
「私の想いなど問題ではないでしょう! 愚かな私の行為が姫様を傷つけたのですから……正式な処罰を待つにしても、取り敢えずは距離を置いてサクヤ様の御心を安んじるのが先決ではありませんか!?」
決して偽りではない想いを吐露したのだが、それは達也の剣呑な声で一蹴されてしまう。
「問題は大アリだ馬鹿者め! 俺が問うたのは君の想いだ! サクヤに対する偽りのない感情を曝け出せと言っているんだッ! 陸に恋愛も経験していない子供が、一人前を気取って御託を並べるんじゃない!」
その大喝に気圧されたセリスは唇を噛んで押し黙るしかない。
「いいかセリス! これだけは誤解するな! サクヤは決して弱い女性ではない。ただ君と同じで恋愛慣れしていないだけなんだよ。だから、迂遠な言い回しの愛情に気付けないだけなんだ」
そう言われれば、セリス自身思い当たる節は幾つもあった。
何度も会議や仕事場で席を同じくしたが、サクヤは凛然とした物腰で周囲の者達を従え、驚異的な手際で仕事を片付けていく反面、プライベートの場で蓮や詩織達と会話する時は年相応の幼さを見せるのも屡々であり、その度に驚き戸惑った覚えがある。
(私は間違っていたのか? サクヤ様の為に良かれと思ったのに……)
心を占めていく不安に苛まれるセリスは、その葛藤に答えを出せない儘に呆然と立ち尽くしてしまう。
そして、そんな彼を達也の叱咤が打ち据えた。
「君だって覚悟を決めて彼女の唇を奪ったのだろう? 決して褒められた方法ではなかったにせよ、それが君の本心だった筈だ。ならば! たとえ想いを拒まれて手酷くフラれるとしても、それを甘受するのが男としての責任の取り方ではないのか? 逃げ廻って解決する筈もないし、第一それでは余りにも彼女が惨めだ」
「あっ……くぅ……」
全くの正論にセリスは返す言葉もなかった。
きちんと謝罪した上で、甘んじて彼女からの罵詈雑言を受けるべきだったのだ。
その勇気がなかったばかりに彼女を苦しめてしまったと、セリスは漸く気付いたのである。
(その通りだ……意気地がない私が招いた結果だ。私の身勝手な想いにサクヤ様を巻き込んでしまった以上。ケジメはつけなければならない)
脱力した身体に鞭打って姿勢を正すや、セリスは再び木刀の切っ先を上げて目の前の敵に意識を集中する。
その迷いの消えた表情を見た達也は満足げな微笑みを浮かべるや、自身も木刀を構え直して再度セリスに問うた。
「どうやら覚悟は決まったか……ならばもう一度だけ問うぞ。サクヤに対する君の想いは本物かい?」
険しい視線を達也に向けた儘のセリスは、今度こそ躊躇う素振りもなく己の本心を吐露したのである。
「愛しています。その気持ちに偽りはありません。だから、謝罪した上で甘んじて恨み言を聞くつもりです……ですが、それとは別に私は自分自身が許せない。処罰を受けた後は御屋敷を退去させて戴きます。その為にも……」
それ以上の言葉は不要だと断じたセリスは唇を引き結ぶや、腰を落として木刀を正眼から腰溜めへと変化させる。
最早余力のない彼に残されたのは乾坤一擲の突撃しかない。
(小手先の技や小細工が通用する人ではない。提督の初撃を躱して懐に飛び込んでの一撃に賭けるッ!)
その想いと勝負への覚悟を察し正面から受けて立つと決めた達也は、まるで誘うかの様に右片手上段に木刀を構えた。
「よかろう……約束は約束だ。君の一撃が掠りでもすれば、屋敷を出るなり何なり好きにすればいいさ。但し、俺を殺す位の覚悟がなければ、それも絵に描いた餅でしかない……遠慮はいらないよ。命懸けで来なさい」
明らかな挑発だが、今のセリスに言葉遊びに付き合う余力はない。
だから、達也を見据えるや、間髪入れずに床を蹴って疾駆した。
もとより二人の間に大した距離がある訳ではなく、セリスは一瞬で懐に飛び込むや、全神経を集中させて達也からの攻撃を待ち受ける。
有利なポジションを確保したとしても、ただ漫然と攻撃したのでは、簡単に躱されて手痛い反撃を喰らうのは確実だ。
事実これまでも同じパターンで何度も辛酸を舐めさせられてきた。
(だったら先に攻撃させてそれを躱すしかない! 大上段からの打ち下ろしならば僅かでも体勢が崩れる筈だ!)
セリスの捨て身の攻撃は、所謂『後の先』という奥義に通じるものであり、彼の宮本武蔵が得意とした技に他ならない。
然も、木刀が振り下ろされる場所は十中八九左右の肩の何方かだ。
如何に木刀とはいえ、防具なしの頭部への攻撃では命に係わるし、事実今に至るまで散々打ち据えられたものの、頭への攻撃は只の一度もない。
だからこそ、達也の木刀が振り下ろされる瞬間を察知するべく、セリスは全神経を集中させて只一度の機会を待ったのだ。
(来たァッ!!)
木刀の切っ先が空を切り裂く風切り音に耳を衝かれた瞬間、セリスは懐に飛び込んだ勢いの儘、強引に右足一本で床を蹴った。
無理な体勢からの急速転舵に下半身が悲鳴を上げたが構っている余裕はない。
耳の横を抜けた空気の渦が彼の肩口を捉える刹那!
体を入れ替えたセリスの真横を疾風が駆け抜けて床を穿ち、武道場に甲高い音が響いた。
目論見通りに攻撃を躱した高揚感もそこそこに、セリスは全力を振り絞って両脚で床を蹴るや、達也目掛けて突撃を敢行する。
中段からの一文字突き。狙いは体勢を崩した達也のガラ空きの腹部。
(勝ったッ!!)
己の木刀の切っ先が過たずに狙い通りの場所へと吸い込まれていく。
だが、有ろう事か、勝利を確信したセリスの耳に楽しげな達也の声が響いた。
「良い動きだ……しかし、その程度じゃ俺には届かないよ」
同時に視界いっぱいに捉えていた筈の達也の姿が掻き消え、当然の如くにセリスの木刀は虚しくも空を斬る。
その刹那に感じた悪寒に背筋を震わせたセリスは、後方に飛び退ろうとしたが、既に手遅れだった。
疾風の如き突きを身体を回転させて躱した達也は、その回転のスピードを利してセリスの脇腹を打ち据えたのである。
「ぐうふぅぅッッ!!」
激痛に顔が歪み悲鳴が漏れた口からは、同時に大量の息までもが吐き出されてしまう。
攻撃の際に深く息を吸い込んで突貫すれば、決着が付くか間合いを取るまでは、息を止めて力を維持しなければならない。
しかし、一撃を受けた激痛に呼吸を余儀なくされたセリスにとって、それは自身の敗北に他ならず、不本意極まる結末に唯々無念を噛み締めるしかなかった。
「良く健闘したが残念だったな。賭けは俺の勝ちだ。転居は許さない」
両膝から崩れ落ちて床に蹲るしかないセリスに、容赦ない言葉と共に止めの一撃が見舞われる。
しかし、その切っ先がセリスの肩を打つ直前、甲高い懇願の叫びが武道場を揺るがし、達也は木刀を直前で止めた。
「もう止めてくださいぃッッ! もう充分ですからぁぁッ!」
血相を変えたサクヤが飛び込んで来るや、倒れ伏すセリスを庇う様に抱きつき、涙で濡れた両の瞳に非難の色を滲ませて達也を睨んだ。
「どうしてこんな酷い真似を! 達也兄さまと彼では実力差は歴然としているではありませんか!? 弱者を一方的に叩き伏せて何が面白いのですッ!」
それはあの反乱した賊徒を達也が討ち果たした時に見せた怒りと同じだった。
だから、あの時と同じく冷然とした口調で言い放ったのである。
「ひとつだけ忠告しておくよ。年下だからとセリスを侮るのはやめなさい。それは男にとって侮辱以外の何ものでもないのだからね」
厳しい言葉で叱責されたサクヤは唖然とする他はなく、達也は表情を和らげ諭すかのように語り掛けた。
「女性から見ればつまらない見栄に過ぎないとしても、男にとってはささやかながらも大切な矜持に他ならない……こういうのはね、理屈じゃないんだ」
そう言うや木刀を一振りして息を吐いたのと同時に、軽い失神状態から回復し、自身の置かれている状況を察したセリスが慌てて上半身を起こした……しかし。
「ぐっぅぅ~~~」
「だっ、大丈夫なのッ!? 無理をしては駄目よ!」
腹部に走った鈍痛に呻くセリスを気遣うサクヤは血相を変えて寄り添う。
そんなふたりに微笑ましげな視線を向けた達也は踵を返し、最後の言葉を残して武道場を後にするのだった。
「地球の言葉に『合縁奇縁』というものがある。人と人の気が合うか否かは不思議な縁による……そういった意味だが、この星で出逢ったのも縁によるものじゃないのかい? 生き急ぐ必要はないんだ……ふたりでゆっくり考えてみればいいさ」
その台詞を聞いて己が知らず知らずのうちに焦っていたのだと悟ったセリスは、悄然とした面持ちでサクヤに詫びた。
「今更許してくれとは言えないけれど……根無し草の私には貴女は眩しすぎます。叶わぬ想いならば胸に秘めた儘の方がいい……そう決めていたのに、身勝手な我が儘を堪えられずに貴女を傷つけてしまった……本当にすまない」
真摯に頭を垂れるセリスを見たサクヤは、その美し顔を苦悶に歪めてしまう。
だが、それは目の前で項垂れている少年に対する憤りからではなくて、彼女自身の負い目に他ならなかった。
だから、サクヤは懺悔するかのように正直な気持ちを吐露したのだ。
「あなたに好意を向けて戴ける価値など今の私にはありません……達也さんの事は諦めたと言いながらも、心の奥底では未だに未練を引き摺っているし、クレア様に対する嫉妬心がないと言えば、それも嘘になります」
思わぬ告白を聞いて困惑を露にするセリスを見つるサクヤは、悲しげな微笑みを浮かべて言葉を続けた。
「そんな弱い自分が嫌で堪らなかったわ……だから、精一杯の虚勢を張って笑顔を取り繕い、自分を騙してきました。でもその所為で周囲が見えず、あなたを何度も傷つけた挙句に、私に向けてくれた過分な想いにも気づけなかった……」
「しかし……それは!?」
血相を変えたセリスが言い募る前に、彼女は小さく頭を振ってその言葉を口にさせない。
「今更とは私が言うべき言葉です。許しを乞わねばならないのは私の方……だから、こんなみっともない女の事など忘れてしまいなさい……」
そう結論付けたサクヤの瞳には薄く涙が滲んでおり、それを見て焦慮に心を乱されたセリスは、居ても立っても居られずに彼女の両肩を掴んでいた。
そして、涙に濡れた双眸を丸くする彼女へ偽らざる想いを告たのだ。
「そう言われて『ハイそうですか』と納得できる筈がないでしょう! 私は貴女に魅かれています。死の淵から目覚めた時に貴女を見て以来ずっと……今は足元にも及びませんが、何時か必ず白銀提督に追いついて見せます! 軍人としてもひとりの男としても! だから、貴女の心の隅に私が居る事を許してくれませんか?」
その剣幕に意表を突かれたサクヤは困惑するしかなかったが、不思議と嫌だとは思えなかった。
だから、口づけされた時と同じく、判然としない自分自身の感情に狼狽しながらも、胸の中に芽生えた小さな期待感に縋ったのかもしれない。
「何も約束できませんよ?」
「充分です」
「結果的に、あなたを愛せないかもしれませんよ?」
「チャンスを頂けるのならば、結果は自分で勝ち取るものだと心得ています」
「……これからも姉貴風を吹かせてあなたを傷つけ、嫌な思いをさせてしまうかも……」
「嫌な思いをした事などありませんし、それで貴女を嫌う事など有り得ません」
「…………」
サクヤの表情が泣き笑いに変わり、綻んだ唇から喜びとも呆れとも取れる言葉が零れた。
「本当に馬鹿ですねぇ……こんな年上の行き遅れに執心するなどセンスを疑うしかありません……だから許してあげます。私があなたを知って心を決めるまで……」
それを聞いたセリスの瞳にも涙が滲んだが、それは喜びの発露に他ならない。
こうして、セリスとサクヤは、新しい関係へと一歩を踏み出したのである。
※※※
ふたりの様子を入り口の壁に隠れて窺っていた達也は満足げに頷いていた。
すると、モニタールームから出て来たクレアが、夫の締まりのない顔を見て含み笑いを漏らす。
「盗み聞きはマナー違反よ? 後でふたりに叱られても、私は助けてあげませんからね」
「構わないさ……まぁ、この先どうなるかは分からないが、埋火の儘でいるよりはずっと良い。秘めた想いなどは熱が冷めれば消え去るしかないんだ。だったら想いは正しく伝えるべきだよ。叶うならばサクヤにもセリスにも幸せになって欲しい。それが正直な俺の気持ちだ」
夫のその言葉にクレアは微笑むだけで何も言わない。
だが、それは失望したからではなく、達也が望む未来はきっと叶うと彼女自身も強く信じていたからだった。
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