第五十二話 埋火(うずみび) ②
「セリス君にキスされて、思いっきり引っ叩いたぁ──ッ!?」
サクヤの告白は全く想定していなかったものであり、吃驚して思わず素っ頓狂な声を上げてしまったが、周囲を慮ったクレアは慌てて口を押えた。
場所は一階のリビング。
応接用の瀟洒なテーブルには、お手製の蜂蜜入りホットミルクと朝食代わりにと用意したサンドイッチが乗っている。
平日の昼前でもあり、屋敷に居るのは彼女達ふたりを除けばメイド達だけだ。
然も、主人の会話を盗み聞きする様な不調法者はいないので、相談事が他に漏れる心配はない。
とは言え、サクヤの悩みが艶っぽい男女の葛藤だとは思わなかったクレアは、流石にどうしたものかと戸惑うしかなかった。
(迂闊だったなぁ……てっきり仕事の悩みだとばかり思っていたから……それにしても、あのセリス君がねぇ……)
帝国皇子という出自は伊達ではなく、極めて常識人で礼儀正しい彼が女性の唇を強引に奪うという暴挙に及んだとは到底信じられないが、サクヤも大国の第一皇女に相応しい良識の持ち主であり、相手を貶めかねない破廉恥な話を、譬え冗談でも口にするとは思えない。
対面に座るサクヤを見れば、その小さな両手を握り締めて膝の上に置き、華奢な身を小さくして俯いている。
顔は良く見えないが、恐らく羞恥に真っ赤に染まっているのが容易に想像できてしまい、クレアは益々困惑を深くするしかなかった。
だが、惚けていても事態は好転しないし、何よりも早急に問題を解決しなければ、厄介な事態に陥るのは目に見えている。
万が一にもこの事をユリアが知ったならば、激怒した彼女によってセリスが断罪されるのは必至だろう。
(せっかく皇王家の揉め事が片付いたというのに……今度は我が家でトラブル勃発だなんて……何としても穏便に解決しないと……)
そう覚悟したクレアは、努めて穏やかな声で俯くサクヤに言葉を掛けた。
「貴女が思い出したくないと言うのなら無理には聞かないけれど、セリス君だって常識を弁えている筈だし……どういった経緯でそんな事になったのか、話してくれないかしら?」
断られるかもと思いながら、そう促したクレアだったが、意外にも素直に頷いたサクヤは、昨夜のセリスとのやり取りを語りだしたのである。
◇◆◇◆◇
就寝前に剣の鍛錬をするのはセリスの日課であり、少なくとも怪我が治ってからは、毎晩欠かさず続けているのをサクヤは知っていた。
レーザー兵器を含む携帯火器の現状性能は、脆弱な兵士を容易く屈強な戦士へと変えてしまう程の域にまで昇華されている。
その様な状況下で、剣戟の訓練などナンセンスではないか?
何の他意もなくそう訊ねた自分に、顔を真っ赤にして反論した彼の言葉は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いていた。
『攻撃力向上という事象は同時に新しい防御手段の開発をも促してしまいます! だが、高出力のビームソードの一撃を完全に相殺するガードシステムは現在も存在しない。膠着する戦況を打破する切り札として、そして、何よりも己の鍛錬の為に……今の自分にできる事は全てやらなければならないのです! そうでなければ白銀提督に追い付くなど夢のまた夢ですから!』
実兄に裏切られたばかりか、偉大な父皇を含む血縁者の全てを喪ったセリスだが、彼自身も殺されかけた所を詩織らに救われて命を拾い、達也に保護されて現在に至るのはサクヤもよく知っている。
達也とセリスに面識があったという経緯は後日聞かされて驚いたものだが、その時の経験からか、達也に対するセリスの傾倒ぶりは尋常なものではなく、心酔の域に達していると言っても過言ではなかった。
怪我が完治するや、衰えた体力を取り戻すためのトレーニングに没頭する傍ら、蓮や詩織と共に軍事訓練にも取り組んだ。
勿論、彼らの教導官を務めたのは達也自身であり、的確な指導によってその実力を大いに伸ばしたのである。
そんな自己鍛錬の日々の中にあって、セリスは積極的に梁山泊軍の仕事にも汗を流すのを厭わなかった。
陸に休みを取らない彼の健康を心配し、苦言を呈したのも一度や二度ではない。
だが、その都度『白銀提督は膨大な仕事をこなした上で、私たちの訓練も御指導してくださるのです! 先に音を上げて恥を晒すなど真っ平御免です!』と邪気のない笑顔で何時も同じ台詞を口にするセリスに何度呆れた事か……。
しかし、銀河連邦に巣食う敵を欺く為にも死亡を装わねばならないサクヤにとって、弟妹達を含む家族に会えないのは結構なストレスであり、その寂しさをセリスとの日々の会話で癒していたのも事実だった。
(それなのに……私はセリスに酷い言葉を……家族を喪った彼の気持ちも考えずにあんな不躾な物言いをしてしまった)
今更悔いた所で後の祭りだが、きちんと謝罪だけはしたいと思い、周囲に誰もいなくなるこの鍛錬の時間を狙って足を運んだのだ。
しかし、いざ二人っきりで向かい合うと気後れして上手く言葉が出てこず、焦れば焦るほど逡巡は深まるばかり。
すると……。
「サ、サクヤ様? こんな時間にどうしたのですか?」
如何にも驚いたと言わんばかりのセリスからそう訊ねられたサクヤは、その問いに返す形で漸く言葉を絞り出した。
「あっ、あの……その……ごめんなさいッ! ずっと昼間のことを謝りたくて! あなたを傷つけるような酷い台詞を……謝ったからと言って許される事ではないけれど……本当にごめんなさいッ!!」
上手く回らない口を懸命に動かして謝罪し深々と頭を下げるサクヤ。
呆れられるか、叱責されるか、それとも嫌味のひとつでも言われるか……。
当然セリスからは厳しい反応が返って来ると覚悟していたのだが、何処か安堵した様な声に耳朶を打たれたサクヤは、驚いて思わず顔を上げていた。
「まだそんな事を気にしていたのですか? 兄君に対する貴女の鬱屈は理解できますし、他人の私が口を差し挿むのは確かに僭越でした……貴女が憤るのも道理ですからね。どうかお気になさらずに」
思惑が外れた所か、あっけらかんとしたセリスの顔には笑みすら浮かんでおり、サクヤは半ば惚けたまま彼の顔を見つめるしかない。
「で、でも! 私はあなたの家族の不幸を知りながら……」
「それも自業自得でしょう……私の身内は自分の欲求に正直な者ばかりでした……正妃も側妃も己の子を担いで権力闘争に血道を上げる有り様でしたし、その所為もあってか、兄姉同士も仲が良かったとはいえない有り様だった……」
寂寥感を滲ませたその台詞が胸に染み、サクヤは改めて己の浅慮を恥じた。
だが、そんな彼女に真っ直ぐな視線を向けたセリスは、それでも、悲しいまでに健気な微笑みを浮かべて言い切ったのだ。
「でも、憎しみ合っていたわけじゃなかった……失ったものは取り戻せないけれど、だからこそ生き残った私は、兄の愚挙を正そうと決めたのです。家族と生きた時間を無にしない為にもね」
その決意に胸を衝かれたサクヤは思わず問い返してしまう。
「以前あなたは御兄様を憎まないと言っていましたが、今もその気持ちに変わりはありませんか?」
「甘い考えだ……そう言われるのは承知しています。ですが、憎しみで汚れた剣では何も解決しない……同じ過ちを繰り返すのは愚かですから。貴女の御忠告は将来新しい家族ができた時に役立てますよ。だからもう謝らないでください。でないと却って恐縮してしまいますから」
最後は照れ臭そうに口元を綻ばせたセリスの言葉に、許されたと知ったサクヤは、安堵すると同時に胸の中を清々しい風が吹き抜けた様な気がして思わず微笑んでいた。
「分かりました。では……本当にありがとう。あなたの説得のお蔭で大事に至らずに問題が解決しました。心から感謝致します」
だから、もう一度だけ頭を垂れたサクヤは、深甚なる謝意を伝えたのである。
一方のセリスは、殊更に話が大袈裟にならずに済んで良かったと胸を撫で下ろしていた。
理不尽にも命を奪われた家族の末路を想えば胸が痛まない訳はないし、その不幸が幼い弟妹達にも等しく及んだともなれば尚更だ。
『後悔先に立たず』とはよく言ったもので、喪われた者はどんなに嘆き悲しんでも生き返りはしない……。
だったら、その想いだけを胸に懐いて生きて行く。
それが残された者の務めだと自分自身に言い聞かせたセリスは、同時に目の前で笑顔を取り戻した少女にだけは幸せになって欲しい……。
そう強く願わずにはいられなかった。
サクヤが如何なる経緯で達也の傍にいるのかを、セリスは蓮や詩織から聞かされており、その結末も承知している。
現在の彼女がどのような想いで日々を過ごしているのか、未熟な自分には察する術もないが、それでもこの笑顔ができるのならば大丈夫だとセリスは信じたかったのだ。
譬え自分の慕情が報われなくても、サクヤさえ幸せならばそれで充分……。
そう心から思っていた……筈だった。
その純粋だと信じていた願いが実はひどく脆いものだったと、今の今までセリスは知り得なかったのである。
そして、その己の奥底に潜む本心を露にする無情な言葉が、楔となって打ち込まれたのだ。
「新しい家族ですか……でも、その前に人生を共にする伴侶が必要ですね。あなたには許嫁などは居ませんの?」
柔らかい笑みを浮かべたサクヤの無邪気な言葉が、ひどく酷薄なものに聞こえたセリスは、知らず知らずのうちに表情を硬くするのだった。




