第五十一話 殿下たちの憂鬱 ④
「あれぇ? こんな寒い場所に寝っ転がって何をしているの?」
何の前触れもなく頭上から声を掛けられたマーカスは、吃驚して飛び起きた。
傍仕えの女官達には近づかない様に厳命してあるし、他の兄弟姉妹らが部屋から出て来る筈もない。
一体全体何者かと訝しんで周囲を窺うが、それなりに広い庭園には他者の姿は確認できなかった。
「何をきょろきょろしているの? 私は此処だよぉ!」
すると、然も楽しげな明るい声音が再度投げ掛けられ、マーカスは今度こそ声の主を見つける。
ほんの数メートルほど離れた植込みの隙間から此方を見ている黒髪の少女。
その吸い込まれそうな漆黒の瞳に無邪気な光を宿す見知らぬ女の子が、如何にも興味津々といった風情で此方を見ていた。
(おかしい……正門も裏門も衛士が警備している筈なのに、この娘は一体どこから入ってきたんだろう?)
女官も衛士も遠ざけている今、不測の事態から彼を護ってくれる者はいない。
声を上げて近習を呼ぶか、それとも逃げ出すか……。
二番目のプランは他の兄弟達から笑われる可能性が高いので却下し、身構えながら声を上げようとしたのだが……。
「もう! 黙っていたら分からないよぉ。私はさくら。白銀さくらっていうの! あなたは何ていうお名前なの?」
ワンピースの上に厚手のジャケットを羽織った少女が駆け寄って来るや、有無も言わせずに自分の手を取って自己紹介するものだから、マーカスは面食らってしまい、助けを呼ぶどころか、唖然として立ち尽くすしかなかった。
しかし、七歳とはいえ将来を期待される皇族の一員としては、無様に騒いで醜態を晒す訳にはいかないと虚勢を張ろうとしたのだが……。
「んっ? し、白銀? 君は白銀達也提督の娘さんなのか?」
「そうだよっ! でも、私が聞いているのは、あなたの名前なのっ!」
記憶の片隅に引っ掛かっていた『白銀』という単語から、少女の正体に思い至ったものの、頬を膨らませた少女から文句を返されてしまい、マーカスの困惑は深まるばかりだ。
贔屓目に見ても皇族に対する敬意などは微塵も感じられず、その物言いに唖然とする第四皇子は、目の前で憤慨している少女を見つめるしかなかった。
他人から傅かれるのが当たりまえだったマーカスにとって、赤の他人、然も同じ年齢ぐらいの女の子から、叱責混じりに名前を問われるなど想定外の珍事であり、それでも釣られて名乗ってしまったのは、彼の温厚な人柄故だろう。
「ぼ、僕はマーカス……マーカス・ランズベルグ。皇王家の第四皇子だ」
そう自己紹介した瞬間、不機嫌そうに眉根を寄せていた少女が破顔したかと思うと、全力で抱きつかれてしまいマーカスは目を白黒させるしかなかった。
「わあぁ──ッ! 素敵な名前だね! それに君は皇子様なんだ! それじゃあ、サクヤお姉さんの弟さんなの?」
「うっ、うん……ぼ、僕は十人兄姉妹の八番目」
「うわぁっ! すっごぉぉいッ! 私の家の倍だぁ! いいな! いいなぁ!」
一体全体なにが良いのか皆目見当がつかず、マーカスの思考は迷走するばかり。
皇族としての威厳を保ち、何時如何なる場合でも取り乱してはならないと躾けられてきたが、不意打ち同然に抱きつかれた挙句、羨ましがられた場合の対処法などは学んでおらず、次に取るべき行動がとんと分からない。
しかし、不思議にも、この状況が不快だとは到底思えなかった。
それは、笑顔で燥ぐ少女の快活さが心地良いものであり、鬱屈した心に陽が射したかの様で、そんな彼女に釣られて口元を綻ばせている己に気付いたからだ。
マーカスはそれが嬉しくて、一頻り声を上げて笑うのだった。
幼いふたりはやがて身体を離したが、その顔の笑みは消えはしない。
身分という鎖に縛られない関係など初めての経験だが、存外に悪くはないと思ったマーカスは、恐る恐るといった風情でさくらへ話しかけた。
「ね、ねぇ、さくら。君はこんな場所で何をしていたんだい?」
「あのねぇ……こっちに来て、マーカス」
そう問われてニマニマと笑みを漏らすさくらは、少年の手を引いて植込みの奥のスペースへと案内する。
「こ、これは?」
そこには植樹されたと分かる、ふたりの身長と同じ程度の幼木があった。
葉は全て落ちていて冬枯れの物寂しさを感じたマーカスだったが、それは違うとさくらが声を弾ませる。
「これはね。私と同じ名前の木なの! もっともっと大きくなったら、凄く綺麗な花をいっぱい咲かせるんだよ! 地球から持って来て貰って此処に植えたんだけど、もう少し大きくなったら今住んでいる家の庭に引っ越しさせるの! だから、それまで枯れない様に見に来ているんだよ!」
そう説明してくれる間も、さくらはずっと笑顔の儘だった。
それがマーカスには眩しくて、そして羨ましくて仕方がない。
だから、つい愚痴めいた言葉が零れてしまったのだ。
「さくらは楽しそうで良いね……それに引き換え僕は……」
さくらが表情を曇らせるのが分かるが、言葉を止められない。
「ケイン兄上は君のお父さんがした事が気に入らなくて、毎日イライラして怒鳴り散らすばかりだ……お蔭で他の兄や姉達も部屋に籠って顔も見せやしないし、僕もこんな所で空を見ているしかなくて……つまらないよ」
初対面の、然もこんな幼い少女に泣き言を聞かせるなんて恥だと思いながらも、胸の中で燻ぶっていた蟠りを吐き出したからか、少しだけ気分がスッキリした。
だから、気を取り直したマーカスは礼を言おうとしたのだが……。
「なぁ~~んだっ! そんなの簡単だよっ! さあっ! さくらに掴まって!」
如何にも妙案がありますとでも言いたげな少女に促されたマーカスは、急かされる儘に、その手を握ったのだが……。
「オッケー! みんなのいる公園までジャンプするよぉ──ッ!!」
「へっ?」
ニコニコ顔のさくらが発した歓声の意味が分からないマーカスは、生まれて初めて経験する浮遊感に驚愕するしかない。
そして、彼の間抜けな声を最後にふたりの姿は掻き消えて、辺りは何事もなかったかのように静寂を取り戻したのである。
この日ランズベルグ皇国第四皇子マーカス・ランズベルグは、生身で次空間転移をするという稀有な体験をしたのだった。
◇◆◇◆◇
「何度も申し上げましたが、殿下の御要望に副う事は出来かねます」
一体全体何度同じ台詞を口にしただろうか。
努めて平静を装う達也だったが、その端正な顔を憤怒に歪めるケインを見れば、弥が上にも罪悪感を覚えずにはいられなかった。
銀河連邦との無用な軋轢を避け、武力紛争から皇国と国民を守る為に一計を案じたのだが、事前に何も知らされなかった第一皇子は激しく憤り、身内にまで当たり散らす始末。
おまけに『国に帰せ!』の一点張りで、呆れ果てたソフィア皇后やアナスタシアも、完全に匙を投げる事態になっている。
だが如何に同情できる点が多々あるとはいえ、この儘では今後の計画にも支障がでるし、何よりも弟妹達が気の毒でならない。
理知的で温厚なケインは日頃から弟や妹を大切にしており、その誰からも慕われる良き兄だ。
それが日がな一日殺気立って剣呑な雰囲気を撒き散らしているのだから、彼らが部屋に閉じ籠ってしまうのも無理からぬ事だった。
『次期皇王としての自覚もなく、醜態を晒して恥じ入りもしない! 頭が冷えれば少しはマシになろう故、それまで放っておけばよいッ!』
アナスタシアは激怒して突き放したが、流石にその言葉を額面通りには受け取れず、達也はケインを説得する為に日参しているのだ。
「レイモンド陛下やルドルフ老公が貴方様に託された想いを無駄になさってはいけません……反攻の時まで今暫く御辛抱ください」
そう達也は懇願するのだが、真面に顔を合わせ様ともしないケインは、只々同じ言葉を繰り返すのみだ。
「父上と御爺様を生贄にして生き延びるなど、断じてあってはならない! 人質として残るべきは私であり、それが皇太子たる私の責務ではないか!?」
「次代を担うべき貴方様を残すという選択肢はありませんでした……仮に私がそう進言しても、レイモンド陛下は決して受け入れはしなかったでしょう」
「出すぎるなッッ! 皇国の臣でもない貴公に、嘴を差し挟む権利はないッ! それに、私が説得すれば、父上もきっと御承知くだされたに違いない!」
双方の主張は平行線を辿って嚙み合いもしない。
それは妥協点すら見いだせない不毛な行為に他ならず、達也も言葉を呑み込むしかなかった。
すると、そんな彼から視線を外したケインは、達也の隣で黙したまま一言も語ろうとしない妹を睨みつける。
「サクヤっ! 軽々としたお前の行動も赦し難い! ランズベルグの第一皇女としての自覚があるのかっ!?」
流石に言い過ぎだと思った達也がケインを諫めようとしたのだが……。
「第一皇女の自覚ですか……ふっ、ふふ……ふふっ……」
兄の言葉をオウム返しに呟いたサクヤは、その場の雰囲気には似つかわしくない忍び笑いを漏らす。
普段の妹からは考えられない不遜な態度にケインは面食うしかなかったが、怒りに任せて思わず怒鳴っていた。
「なっ、何が可笑しいのだっ!? 私を愚弄する気かッ!?」
だが、泰然として小揺るぎもしない姫君は、その口元に笑みすら浮かべており、冷然とした視線で実兄を見つめ返す。
「それは笑いもしましょう……皇女の自覚どころか、他者への思いやりや配慮にも欠ける私に何を問うのかと思えば……愚弄する気などありません。それどころか、ランズベルグの長兄長女は揃って愚か者だったと気づいてしまい……それが可笑しかっただけですわ」
昨夜のセリスとのやり取りを知る達也は、彼女の忸怩たる心中に思い至ったが、その場にいなかったケインには理解できる筈もない。
その何処か投げやりな妹の物言いに、彼は一瞬だが怯んで言葉を失ってしまい、まるで初対面の人間を見る様な視線を実の妹に向ける他はなかった。
ケインが十八年間見てきたサクヤという妹は、優れた才に恵まれながらも控えめな性格で、決して皮肉で他者を愚弄する人間ではない。
それがどうだ……。
まるで人変わりしたかの様な酷薄な笑みを浮かべ、軽蔑の意志をその瞳に宿しているのだから、その真意を計り兼ねて戸惑うのも無理はないだろう。
だから、唖然として沈黙せざるを得なかったのだが……。
そんな彼にはお構いなしにサクヤは言葉を続ける。
「この星に匿われているのは、ランズベルグ皇国家の者ばかりではありませんわ。グランローデン帝国前皇帝の遺児もおられるのですよ……兄君が主導した謀反の中で父皇陛下や御家族を悉く喪ったばかりか、国を追われ、自らも傷ついて生死の境を彷徨われました……」
その事実にケインは驚きを禁じ得なかったが、それ以上に長年の仮想敵であった相手の話が妹の口から語られた事に違和感を覚えた。
「そんな残酷な運命に翻弄されたにも拘わらず、彼……セリス殿下は、一切の怨み言も口にせず、只々祖国の解放と兄君の真意を確かめたいと願って、日々精進しています……だというのにっ!」
急に言葉に力が籠ったかと思えば、険しい視線に射竦められたケインは、思わず身構えてしまう。
そして、そんな実兄にサクヤは想いの全てをぶつけた。
「同じ皇族でありながら、陛下の深い想いも理解せずに癇癪を起すだけの兄様と、セリス殿下の御気持ちも考えずに上から目線で傲慢に振る舞った私……こんな無様な人間が皇太子? 第一皇女? お笑い種とは正にこの事でしょう。この先、皇国の未来が潰える様な事態になれば、それは間違いなく、ものの道理すら弁えぬ兄様と私の責任ですっ! それだけは胸に刻んで忘れないでくださいッ!」
妹から想定外の叱責を受けたケインだったが、それでも怒りは収まらず、更なる反論をしようとしたのだが……。
ドアを激しく叩く音と共に明らかに狼狽している女官長の声が響き、兄妹は互いに矛を収めるしかなかった。
「た、大変でございます! 御歓談中に無礼とは思いますが、一刻を争いますので御容赦下さいませッ!」
そう叫んで入室して来た彼女から告げられた報告に、達也らは驚きを露にしたのである。




