第四十話 ハッピーバースデーと意外な来訪者 ③
「あ~~まずは元気そうで何より。テロの標的にされて爆死したと聞いて心配していたが、奥様共々無事で良かったよ」
散々懊悩した挙句に、口にした第一声があまりにもありきたりに思えた達也は、己の語彙の乏しさが嘆かわしくて、そっと溜息を吐く。
しかし、ソファーで寛いでいるクラウス・リューグナーは、相手の都合には斟酌する気もないらしく、何を考えているのか窺い知れない微笑みを浮かべて泰然としているのだから、腹立たしい事この上なかった。
然も、百面相が得意と嘯くだけはあり、これまで見て来たものとは似ても似つかない顔立ちを曝しているのだ。
名乗りを受けなければ、到底クラウス本人だとは気付けないだろう。
だが、その事が更に達也を苛立たせてしまうのだ。
「いやいや、神将白銀閣下に御心配して戴けるとは光栄の極みですねぇ。しかし、そういう閣下も中々にしぶとい。乗艦が爆散した映像を見た時には、二度と御逢いできないと絶望して打ち拉がれたものですがねぇ。本当に御無事で何よりですよ。心からお祝い申し上げます」
そう言って笑みを深めるクラウスのふてぶてしい態度を目の当たりにした達也は、まさに開いた口が塞がらない心境だった。
(こ、こいつ、平然とした顔で、すっ惚けやがって……今の状況を本当に理解しているのか?)
常日頃から沈着冷静を以て知られる達也でさえ、現在の白銀邸リビングの混沌とした雰囲気に平静ではいられなかった。
瀟洒なクリスタル製のテーブルを挟んで、達也とクレア、そしてクラウスとその奥方であるエリザ・リューグナーという二組の夫婦が向かい合っているのだから、それも無理はないだろう。
そして、普段の陽気さを何処かに置きわすれたヒルデガルドが、何とも居心地が悪そうに上座のソファーに鎮座しており、室内には微妙に重い空気が漂っている。
そもそもが、ファーレン王国エリザベート女王からの密使が到着したという知らせだけでも仰天させられたのに、表向きはロックモンド財閥に属している輸送艦に密航して来たと聞けば、一体全体何の冗談かと達也が訝しんだのも当然だった。
尤も、衛兵に引き立てられて来た密使の正体を知った途端、一気に脱力したのも事実だったのだが……。
しかし、最大の問題はそんな些末な事情ではない。
向かい合って顔を突き合わせている二組の夫婦のそれぞれの片割れ……。
クラウスとクレアは短い間だったとはいえ結婚生活を共にし、さくらという愛娘まで儲けた元夫婦だ。
それは互いに愛情を育んだ末の結果ではなく、任務を達成する過程でクラウスがクレアの恋慕の情を利用したが故の悲劇でもあった。
幸い傷心のクレアは達也と出逢って幸せを得たが、だからと言って、辛い過去を全て水に流せるかといえば、そう簡単に割り切れるものではないだろう。
事実彼女は、クラウスの妻であるエリザに儀礼的な挨拶をした以外は、いっさい口を開こうとはせず、内心の感情が読み取れない複雑な面持ちで俯いた儘だ。
片や夫の不貞に憤慨し、その相手であるクレアへ文句の一つも浴びせてもおかしくないエリザは泰然自若としており、今も静かに紅茶を嗜む様子は、傍から見ていても不気味だとしか言いようがなかった。
膠着した状況を打破するべく、達也はヒルデガルドに視線で合図を送るのだが、日頃の図々しさは何処へやら……。
彼女はツ──と目を逸らしてイヤイヤと首を振って匙を投げてしまい、全く役に立たない置物と化している。
此の儘では埒が明かないと悟った達也は、自らが仲裁役を買って出るしかないと覚悟するしかなかった。
(全ては不幸な過去の出来事だ……とは言え、クレアやエリザさんには不愉快な話だろうな……気は進まないが仕方がない。それに、どうせ貧乏くじを引かされるのならば、俺の好きに振舞ってもいいだろう……)
そう開き直ってしまえば随分と心も軽くなり、気を取り直して口調を改めた達也は語気を強めてクラウスに訊ねた。
「そこまで気に掛けて頂いていたとは心底驚いているよ。だが久闊を叙するほどの間柄ではないし、初見の御面相では愛着も湧かなくて残念だ。一応聞いておくが、それも御得意の百面相のひとつなのかい?」
もしもクラウスが、臆面もなく久藤悠也のペルソナを被って対面の場に臨んでいたならば、躊躇なく拳の一つや二つはお見舞いしていただろう。
そんな厚顔無恥な真似をしなかったのは評価できるが、だからと言って、それで全てを水に流せる筈もない。
何と言っても、あの練習艦の甲板上で邂逅を果して以降、クラウスは唯の一言もクレアに謝罪してはいないのだ。
譬え、それが、所属する組織から与えられた任務だったとしても、最低限の筋は通さなければ話は進まない……達也はそう考えたのである。
そんな思惑を知ってか知らずか、クラウスは飄々とした風情で答えた。
「銀河連邦情報局局員だった頃ならばいざ知らず、今は唯の失業者ですからねぇ。これは正真正銘の私の素顔ですよ。少なくともお願いがあって参上した身では、正体を偽るのは無礼に過ぎるでしょう。とりたてて特徴のない貧相なものですが、この顔を知るのは妻のエリザ以外にはいません……そこの所の事情をを酌んで戴ければ嬉しいのですがねぇ」
妻であるエリザの手前『素顔を晒す事で勘弁してくれ』というクラウスの本心を達也は理解できたが、クレアの心情を想えば安易に承服する訳にもいかない。
するとどうした事か、そのクレアが無言で立ち上がるや、足早にリビングを出て行ってしまったのだ。
引き留める暇もなく、達也は唖然とした顔で愛妻の背中を見送るしかなかった。
「……残念ながら、彼女に理解して貰うのは無理なようですねぇ……」
何処か達観した物言いのクラウスと肩を落とす達也。
だが意外にも、それまで我関せずとばかりに沈黙していたエリザが、冷たい視線を夫へ向けて呆れ果てたと言わんばかりに詰ったのだ。
「やはりあなたは女心を解さない野暮天ですわね。曲がりなりにも一度は夫婦として結ばれたのでしょうに……あの御方の器の大きさも見抜けないなんて……本当に男という生き物は愚かな存在ですわ」
妻からの皮肉に滅多打ちにされたクラウスは渋い顔をし、言葉の後半部分に自分も含まれている様に感じた達也も閉口せざるを得ない。
だが、今はクレアを説得して連れ戻すのが先だと思い、愛妻の後を追うべく立ち上がろうとしたのだが……。
「さあ、さくら。いらっしゃい」
先程までとは打って変わって快活な声がしたかと思えば、愛娘を伴なったクレアがリビングへと戻って来た。
愛妻の真意を計り兼ねた達也は、不安げな眼差しをふたりへ向ける。
リューグナー夫妻の来訪を知った時は、本当の父親は既に他界していると信じているさくらを慮って、挨拶すらさせなかったのに……。
真意が見えないクレアの突飛な行動に達也は面食らってしまい、言葉もなく妻と愛娘を見守るしかなかった。
それはクラウスも同じだったらしく、歩み寄って来る母娘を疑念を滲ませた瞳で見つめていたが、ふたりが彼の直ぐ隣に立った事で我に返るや、慌てて立ち上がって彼女達に正対する。
一体全体何が起こるのかと男共が身がまえていると、さくらの背中に手を添えたクレアが、優しげな声音で愛娘に促した。
「さくら。この人達はクラウスさん、そして奥様のエリザさんというのよ。あなたがまだ赤ん坊だった頃、とても可愛がってくれた人達なの。さあ、ちゃんと御挨拶しなさい」
そう説明されて納得がいったのか、見知らぬお客様の前で緊張していたさくらは一転して破顔し、ペコリと頭を下げて元気よく挨拶をする。
「いらっしゃいませ! クラウスおじちゃん! あたし白銀さくらですっ!」
屈託なく笑う目の前の少女の声が胸に染む。
それは、長く非情の世界で生きて来た彼をして、初めての衝撃だった。
(とても私なんかの血を引いているとは思えませんねぇ……ふふっ、グレイ・フォックスと恐れられた男が、一人の娘相手に感傷的になるなんて……)
今の自分はきっと間抜け面を晒しているのだろう……。
そう苦笑いするクラウスは、万感の想いを胸にさくらの頭を撫でてやる。
「ちゃんと挨拶ができるなんて、さくらちゃんは偉い子ですねぇ。私はクラウスと言います。どうか仲良くして下さいね」
頭を撫でる手触りが擽ったいのか、さくらは照れ臭そうにはにかんでから頷くと、今度はソファーの後ろをトテトテと駆けて反対側に廻り込むや、御辞儀をしてエリザに挨拶した。
「はじめまして! エ、エリザお姉さん! 白銀さくらです!」
その可愛らしい挨拶に顔を綻ばせたエリザは、優しく少女の身体を抱き締めるや、嬉々として声を弾ませる。
「あら! 嬉しい。ロクデナシの旦那は『おじちゃん』なのに、私は『お姉さん』なの?」
蔑むような視線と共にロクデナシと断じられたクラウスは、冷や汗をかきながら愛妻から顔を背けるしかない。
『ロクデナシ』の意味が分からないさくらは小首を傾げたのだが、直ぐに朗らかな笑みを浮かべて大きく頷くや、エリザの華奢な身体に抱きついて燥いだ。
「エヘヘヘ。だってぇお姉さんはとっても美人なんだもんっ! だからお姉さんでいいの!」
六歳の少女の褒め言葉にエリザは歓喜して、思わずさくらを抱き締める腕に力を入れてしまう。
「まあっ! 何て正直で可愛らしいのかしらっ! ねえ、ねえ、殿下! 殿下! この娘はお持ち帰りしても良いのでしょう? お代は如何ほどですの?」
先程までの静謐な雰囲気は微塵もなく、デレデレに相好を崩してトンデモ発言を口走る妻の様子を見たクラウスは、片手で顔を覆って溜め息を零す。
「……すみませんねぇ~~見た目と性格に落差がありましてねぇ……まあ、そこが彼女のいい所でもあるのですが……」
慨嘆しながらもさり気なく惚気て見せるクラウスに、冷淡な眼差しを向けた達也が突っ込んだ。
「問題はそこじゃない。あれかい? ファーレン王国の上流階級は見境なく少女を連れ去る習慣でもあるのかい? 然も対価を払えばOKなのか? ねえ、ヒルデガルド殿下? あなたもさくらと初対面の折に同じ台詞を嘯いていましたよね?」
「い、いやだなぁぁ~~。あ、あれは冗談に決まっているじゃないか! あはっ、あっはははは~~!」
憤懣やる方ないという風情の達也に睨まれ、冷や汗を流しながらも懸命に笑って誤魔化すヒルデガルドだった。
◇◆◇◆◇
「みっともない所をお見せして本当に申し訳ありませんでした……」
脱力もののやり取りの後、『由紀恵おばちゃんのところに遊びに行ってきますぅ──ッ!!』と言い残したさくらが、疾風の如く飛び出して行き、漸く騒動は終息した。
浮かれて取り乱してしまった己の醜態を恥じたのか、エリザは笑顔を取り繕い、楚々とした仕種で頭を下げる。
しかしながら、その変貌ぶりに彼女の強かな一面を垣間見た達也は、心のメモ帳に要注意の文字を殴り書きするのだった。
(危うく見た目に騙される所だった……考えてみればこの男の奥方だ……一筋縄でいかなくても当たり前か)
騒動の元凶でありながら悪怯れる風情もないクラウスに険しい視線を向けるが、自分の所為ではありませんよ~とでも言いたげに鉄壁の愛想笑いで武装する彼は、その非難を寄せ付けない。
達也は忌ま忌ましげに舌打ちするしかなかった……勿論、心の中でだが。
兎に角、ささくれた気分を立て直す為にも、達也は気になっていた事をエリザに訊ねた。
「大変失礼かとは思いますが。奥様はエリザベート女王陛下とは何かしらの御縁が御有りなのでしょうか?」
長命種であるファーレン王国に於いて女王は絶対無二の存在である。
世襲制ではなく、その時々で優秀な人材から複数の女王候補が選抜され、最終的に全国民の投票の結果、ただ一人の女王が選ばれるのだ。
当然ながらその声望には目を見張るものがあり、たとえ一部であったとしても、女王の名を我が子に与える行為は不敬と見做されるのが、ファーレン人の一般的な常識である。
それを知るが故に達也は疑問に思って訊ねたのだった。
「お気づきでしたか……私はファーレン王国で代々祭事を司る神官の家の生まれなのですが、女王陛下も同じ一族の出身であらせられまして……母が懇意にしていた関係で、私が生まれた折に陛下自ら御名の一部を授けて下されたのですわ」
そう説明しながら嫋やかに微笑むエリザは、納得顔の達也から視線を隣のクレアに移して柔らかい声音で問い掛けた。
「さくらさんを主人に引き合わせて下さいまして感謝いたします……ですが、本来ならば怨み言のひとつも叩きつけて然るべきではありませんか?」
飾り気のないストレートな物言いだったが、クレアは微塵も動じず、寧ろ、口元に柔らかい笑みを湛えて真摯な瞳をエリザに向ける。
「私の夫であり、さくらの父でもある久藤悠也は……あの燃え盛る新造艦とともに死んだのです……それ以外の結末は有り得ません」
エリザはその答えを聞いて一瞬だけ驚きに目を見張ったが、直ぐに満面に笑みを浮かべるや、固唾を飲んで妻達のやり取りを見ているロクデナシ共に宣った。
「ここから先は女だけの秘密会議ですから、旦那様方は向こうで御仕事の話でもなさいませ……一応、念を押しておきますが詮索は無用です。良いですわね?」
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