7.時には愛が(2)
赤い夕陽の中、不安そうに待っていた和枝は、高多の足音にぱっと振り返った。頬を染め、俯く。それから、蚊が鳴くように小さく、
「あの……高多さん…お話がある……んです」
「だってな。一体、何だ?」
高多の問いに、ますます赤くなり身を縮める。
「あの…」
「…」
「私、高多さんのこと……好き…なんです」
「…悪いけど…」
「あ、あのっ!」
和枝は精一杯の力を振り絞るように叫んだ。
「知ってます、るりさんのこと! それに……高多さん…るりさんを好きなことも……」
ひた、と熱っぽい目を高多に向ける。
「だけど……遊び…でもいいです。……るりさんの冷たい時……私の方も…振り向いて欲しい…」
「……」
高多は溜息をついた。こう言う、触れるだけで壊れそうな娘は苦手だった。
「……悪いと思うけどさ」
早く終わらせちまおう。高多はそう考えた。
「あんたみたいな娘、ちょっと苦手なんだ。弱そうで、脆そうでさ…」
俺はそんな娘を扱えるほど大人じゃないし、壊してしまうのがオチだ。そう言いたかったのだが、意味が伝わらなかった。はっとしたように和枝が顔色を変える。女心に疎い高多にも、相手がかなりのショックを受けたことはわかった。じりっ、じりっ、と和枝が後退る。
「あの…」
「いいんです…」
高多の弁解を遮って、和枝はか細い声で答えた。
「ごめんなさい……バカなこと言って…」
「いや…」
1歩近づく高多に、2歩も3歩も下がる。
「私……あなたを困らせるつもりは……なかったんです」
「あ、ああ、わかってる……おい、そこ、危ないぜ」
高多は和枝の後ろを見ながら注意した。屋上の柵が1ヶ所脆くなっているところがあって、人1人の重みをかければ完全に崩れるだろうと言うことで『危険』の札が掛かっていた。和枝はなぜか、そこへ吸い寄せられるようにじりじりと後退りしつつあった。まるで、高多が危険な野獣で、和枝はその前に放り出された哀れな生贄だとでも言いたげに。
「ほんとうに……でも……そこまで…嫌われてるなんて…」
ぽろぽろと和枝の目から涙が零れた。
「だから…消えるんです」
「おい、野間…」
「ここから落ちても……高多さん……他殺でも…自殺でもないでしょ…」
「危ないってば!」
「そう……ここは……危ないんです…」
和枝は虚ろに応じてにっこり笑った。そのまま、まるで優しい腕を期待するような夢を見ているような表情で柵に凭れかかった。
「野間!!」
「これは事故…」
ぐしゃりと柵がねじ曲がり、重みに耐えかねて和枝を空中に放り出すのと、高多の絶叫が響き渡るのがほぼ同時だった。柵に駆け寄った高多の目に、赤い地面に吸い込まれていく黒い点と、赤い地面に散った幾つかの点が集まるのが映る。
高多は本能的に身を翻した。階段を駆け下り、恐慌に陥って叫び出したいのを抑え込み、校舎外に走り出た高多は、ポンと腕を叩かれぎょっとした。振り返ろうとする高多の耳元に囁き声が響く。「見たわよ」……それが美砂だった。
「…美砂は俺が落としたと言い張った。付き合わなければ、学校中にバらすと脅した……もちろん、るりにも」
高多は生気の欠けた声で続けた。
「俺は良かったんだ。だが、るりはどうなる? 婚約者が人殺しだと言われたら。俺は落としていない。和枝が自分から落ちたんだ! けれど、それは死んだ和枝しか証明できない」
ははっ、と高多は白けた笑い方をした。
「だから、俺は、美砂の誘いに応じた」
「…けど、美砂は河本にも話していた」
今となっては、その裏にどんな気持ちがあったのかはわからないが。
ただ。
「ただ、ね」
お由宇は俺の問いに応じていた。
「こういう想像はできるでしょうね。河本が知れば、彼のことだから、それを餌にるりを手に入れようとするでしょ。そうすれば、高多は半永久的に美砂のモノになる……」
「河本は…」
高多が再び話し始め、俺は我に返った。せっかく淹れ直して貰ったコーヒーは、すっかり冷めてしまっている。
「俺からるりを奪いたがっていた。美砂から聞いて、すぐにこっちへ連絡を寄越した。俺は知らぬ振りを通した。けれど、あの日…」
11月20日のことだった。
高多は美砂に呼び出されて、彼女の下宿を訪ねた。
「松岡?」
ノックをしても返答がない。ノブを捻ると簡単に開く。高多はそのまま美砂の部屋に入っていき……立ち竦んだ。
部屋の中央に美砂が寝ている。側には酒瓶とグラスが2つ転がっていて、零れた酒がカーペットにシミを作っていた。
「松岡?」
恐る恐る相手を覗き込んだ高多は、美砂の顔色の悪さと体の冷たさに気づいた。そればかりか、胸も上下しておらず、寝息さえ聞こえてこない。
(死んでる?!)
ぎょっとして身を引いた高多は、背後でキィィと音を鳴らしてドアが開くのに、電気に触れたように飛び上がった。
「よう…高多」
「河……本…」
「珍しい所で会うもんだな」
相手はニヤつきながら言った。美砂の転がっているのを見ても驚いた様子もない。高多の頭の中に閃光が走った。
「お前……ひょっとして…」
「人間なんて他愛ないもんさ。酒に睡眠薬入れて飲ませるだろ、ついでに血管からも睡眠薬放り込んで、はい、さようなら、だ」
「き…さま!」
「へえ、叫ぼうってのか」
河本はニヤニヤ笑いを広げた。
「叫んでみろよ、ここで。どっちが不利になるのかねえ。第一発見者を疑えってのは刑事物でよくやるだろ。それに…」
ことさら見せびらかすように開けて見せた両手には、黒の革手袋が嵌っていた。
「ここに残ってるのはお前の指紋だけだぜ。俺は偶然通りかかって、『友達』の部屋の戸が開きっぱなしになっているのを不審に思い、覗き込んで、脅迫していた女を殺した昔の『友人』を見つけたって言う筋書きさ」
「…………」




