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後編

バレンタインデー、当日。


太陽が沈みかけ、辺りが薄暗くなった中、私は用意したチョコレートを入れた小さな紙袋の持ち手をぎゅっと握りしめ、顔を強張らせて部活を終えた宝が体育館から出てくるのをその出入り口の近くで待っていた。


これが、私の決めた最後の日。

だからこれからちゃんと言わなきゃいけない。宝へ、今までの感謝と別れの言葉を。


緊張と、不安なのか寂しさなのかよく分からないもので心をざわつかせていると、すぐに「美夜」と声がかけられた。


「お待たせ」


いつも通り制服に着替え、帰る支度を終えた宝は私にそう言って笑いかけ駆け寄ってくる。


それを見て、

ちくりと、鋭く心が痛む。


「ううん。大丈夫」


そしてまた、これで最後にするんだと私は自分に言い聞かせながら。

そう左右に首を振って応えると、宝は早速「じゃあ、帰ろう」と私を促す宝へ。


「あ、あのっ、宝」


私は意を決して口を開いた。

別に気にするほどのことでもないかもしれないけれど、この場では私たちと同じように部活を終えて今から帰ろうとする他の生徒たちの目があるし、いつ弟が出入りするかもわからない家の前もなんとなく避けたくて、今日はどこか公園にでも寄ろうと提案したかったのだ。


だけど、



「たーかーらーくんっ!」



突然宝の腕に、あのバスケットボール部のマネージャーが抱き着いて私たちの間に割って入ってきたことで、私の口は思わず動きを止めた。


え? とその乱入に私たちが目を見開いて驚いていると、彼女はにこやかに笑って「宝君、一緒に帰ろうっ」と宝の腕を両手で引く仕草をする。


「えっと、本田さん? 俺、今から美夜と帰るところなんだけど」

「佐原さん?」


宝が困惑しているのも仕方がない。

本来、とても人懐こい態度でバスケ部の皆と接している様子の彼女だけど、決してこんなことを常日頃からするような子ではなかったはずだから。

ただ、多分だけど、彼女は宝のことが好きで、あの試合の日以来、私を目の敵にしている。

だから今も。


彼女はまるで私の存在に今気が付いたとばかりにこちらを向いて、その目をすっと冷たく細めた。


私が隣にいることなど認めないとでも言うように。

ただ、その瞳の中に今までとは比べ物にならないくらいの、言いようのないほどの侮蔑の色を感じるのはなぜだろうか?

思わず怯んだ私に、彼女は形だけの笑みを作り、周りを通り過ぎようとする生徒たちにも聞かせようとするような明るく大きな声でわざとらしく問いかけてきた。


「あれ~? 佐原さん。こんなところで何してるの? 今日はバレンタインだよ。彼氏さんとデートじゃないの?」

「え?」


それは何のことだろうか?

彼女の思惑通り、と言うべきか皆が足を止めてこちらを見てくるのを感じながらも心当たりのない言葉に眉間を寄せて首を傾げると、本田さんは「やだ。とぼけないでよ」と笑う。


「私、見たんだから。3日前かな。佐原さんが髪の毛を金色に染めた、ちょっとガラが悪そうな男の子と歩いて路地裏に入っていくの。佐原さんってああいう人が好みだったんだね。知らなかった」

「は? 金?」


宝が、眉をひそめて本田さんの言葉を繰り返した。

その反応に本田さんが瞳を輝かせる。


「そう。あ、でも、他にスーツ着たお堅そうな人とか、小太りのお金持ちそうな男の人とかと親密そーーに歩いてるの見たって子もいてね。しかも! それって全部どこでだと思う? 宝君」

「……さあ」

「あのねー、……」


宝の耳元に手を当て背伸びをして内緒話をするようにどうやら私を見たというその場所を教えているらしい本田さんが、嘲るような視線をこちらに向けて、そしてクスクスと楽しそうに笑いをこぼす。

そして、それを聞いているのか聞いていないのかよく分からない様子で何かを考え込んでいた宝が、自分の首筋に手を当てて「だから……」と小さく呟いた。

そうだ。よく覚えてはいないけれど、その金髪の男の子もスーツの人も小太りの男も、多分それは私が血を貰った相手だ。

だから最近、ほとんど宝の血を必要としなかったのだと、宝も気が付いたのだろう。

信じられないというように呆然とこちらを見つめてくる宝の様子を、当然だけど違う意味に捉えたらしい本田さんは、まるで鬼の首をとったかのような歪んだ勝者の笑みで鼻を鳴らした。


「ね、おかしいよね。清楚? 高潔? いつも“私は貴女達とは違うのよ”って顔でツンと澄ましちゃってるくせにさ、まさか外では何股もかけてるただのビッチだったなんて」


「どういうこと? 美夜」


今まで聞いたことがないくらい、低い声だった。


一歩、こちらに踏み出して。

本田さんが、「宝君、離れなきゃだめだよー。宝君が汚れちゃうから」と宝の腕を後ろから引いているけれど、宝はそれを完全に無視して私をひたと見据え問い詰めてくる。


分かってはいた。

宝が、過ぎるくらいに心配性だということは。

バレたら宝が怒るよと弟も言っていた。

だからちょっと不安に思っていた。

私がこれからは宝の手を借りずに生きていくのだという決意を伝えたところで、今まで通り、「血なら俺があげるから美夜が危険を犯す必要はないよ」と言われてしまうんじゃないかと。

だけど、それじゃあ私は宝のお荷物のまま。

今度こそもっともっと大変な、取り返しのつかない迷惑を宝にかけてしまうかもしれない。

そんなの嫌だから――。

だから、ちゃんとしなきゃと心に決めながら、どんなふうに切り出せば宝は納得してくれるのだろうと考えてもいたのだ。

これだけ周知されている関係は、今更宝の記憶を消すだけでは収集がつかないから。


私は、ふっと目を伏せる。


本当は公園までは一緒に過ごしたかったけれど。

これが丁度いい機会なのかもしれない。

そう思って。


「だって……」


私は顔を上げて、にこりと微笑みを浮かべた。


「だって、私、もう宝には飽きたんだもの」


「な、に?」


「だからもういいの。もう宝はいらないの」


驚いたように目を見開いてこちらを見る宝の手を取って、私は無理やり握りしめていた紙袋を持たせる。

そして、


「これ、美味しく出来てないかもしれないけど、今までのお礼。宝にはすごく、感謝してる。今までありがとう。じゃあね!」


「ちょっと。待って、美夜!!」


ハッと気が付いたように制止の声を上げた宝を振り切って、私は一気にその場を駆け出した。

私のいきなりの疾走に、私たちを取り囲んでいた人垣が「わっ」と声を上げて道を開ける。


こういう時、自分が吸血鬼で良かったなと思う。

陽の光の下では弱いばかりのこの身体だけれど、元々の身体能力はとても高い。

こんな薄闇の中なら、全力疾走すれば並の人間では追いつけないくらいの速さで走れるから、あっという間に宝からも離れられる。


全部終わってしまった。

辛い。悲しい。さみしい。空しい。

そういった想いも勿論あるけれど。

それよりも。

しくじったかもしれないという罪悪感による胸のざわつきが私の足を必死に動かす。


私が皆からどう思われることになっても構わなかった。

後腐れなんて残すべきではない。

すっぱりきっぱりこの関係を切り離さなければ意味がないから。


そう、思った。


だけど、その酷い言葉であんな顔、宝にさせたくはなかったのに。

きっと傷つけてしまった。

あんな、宝に恥をかかせるような、今までの恩を仇で返すような真似をして。


こんな自分が情けなくてたまらない。

結局、宝の為に何一つしてあげられなかったどころか、最後の最後まで害にしかならなかった自分が。


なのに。


もうこれ以上は嫌なのに。



「美夜っ!!」



後ろからぐいっと腕を掴まれ引き止められて。


「な、んで……」


強制的に足を止められ、聞こえた声にまさかと思って振り返ればそこにはやっぱり宝がいて、彼は私の腕を強く掴んだまま。

驚愕に目を見開く私の前で体を折り、肩で大きく息をして呼吸を整えている。


「これでも、俺、今まで体力つけるために頑張ってきたからっ、俺から逃げようとしても無駄だよ」


ぜーはー荒い呼吸を繰り返しながら宝はそう言うけれど、私は全速力で走ってきたはずなのに……。

それに、


「なんで追いかけてきたの?」


私は思わずそう問う。


「言ったでしょう? もう……、宝なんていらないって。もう関わらないで!!」

「……」


身を捩り、捕らえられた腕を大きく振って拒絶を示した。

けれど、


「どうしてそんな急にそんなこと言うの? ちゃんと俺が納得できるように説明してくれるかな」


私の腕をとらえたまま、にこりと笑って、宝がそう説明を求めてくる。

笑っているのに、なんだか怖い。

こんな宝は知らない。

そう思うほどに、まるで獲物を追い詰めるかのような目で私を見据えながら答えを促す。

なんだかよく分からない恐怖を感じた私は、じり、と一歩後ろに下がって距離を取ったけれど、それはあっさりと詰められてしまって。トスンっと背中が民家の敷地を囲んでいるのだろう石塀に当たって私は退路を失った。


「飽きたって、何に? 俺に? それとも俺の血に?」


低く、なんだかとても冷たい声が私に問う。


「りょ、両方。だから、もう宝と一緒にいる必要がないの」

「ふーん……。そっか」


精一杯の私のその返答に、宝は小さな声で頷いてそのまま俯き、その表情が陰になって一瞬見えなくなった。

だけどすぐに、


「でもさ」


と顔を上げて私をのぞき込むように背をかがめて視線を合わせながら、今度はいつものふわりとした優しい顔で私に笑いかけてきた。

それは薄ら寒い何かを漂わせていたけれど。


「俺は美夜のことが好きだから、美夜から離れる気なんてないよ。もしもの時の非常食としてでいいんだ。傍にいることくらい許してよ」


だめだ、と。

それでは今と何も変らない。

私はそれに首を左右に振って拒絶を示す。

なのに、


「飽きただけでしょう? 美夜の為なら自分を少し変えてもいいよ。血の味だって、俺が食べるものをを変えたら少しは違うものになるかもしれない」

「ち、違う」

「俺も金髪にでもすればいいの? それとも太ればいいの?」


そうまで言われて。


「そうじゃなくって……!」


別にそんなことを望んでいるわけじゃないのに。


「じゃあどういうこと? もしかして俺のことが嫌いになった? それならそれが何か教えてよ。全部謝る。もうしない」


挙句の果てにはそんなことまで言い出して。


なんで?


ちっとも話が通じない。

ちっとも引き下がる気配すら見せてくれない宝に、私は泣きたくなる。

私は宝を突き放す言葉を口にする度、こんなに心が痛むのに。

それなのにこれ以上、宝は私に何を言わせたいのだろう。

どうすれば引き下がってくれるのだろう。

そんな風に苛立って。



「嫌いになんて……、嫌いになんかなるわけないでしょ!?」



気が付けばそう叫んでいた。


「本当は飽きてもいないの!! 宝は何も変えなくていい。宝の為に身を引くんだって言ったら宝が気にするからそう言っただけ! 私だって、本当は宝から離れたいわけじゃない! 出来ることならずっとずっと一緒にいたいって思ってた。だけど、あの日、宝の試合を台無しにして、私なんかが傍にいたら宝の邪魔にしかなれないって分かったから、だから宝の為にって思って決死の覚悟でこうして手を離そうって決めたのに。なのに、なんで引き留めるの? 決意が鈍ったらどうするの!?」


思わず口から飛び出したのは私の本音。

遂に溢れてきた涙を流しながら、“お願い。分かって”という懇願を私は宝に向ける。


「ねえ、宝。私はね、元々そんなに弱くなんかないのよ? 一人で狩りだって出来るの。宝と過ごすようになる前までそうしてたの。何も心配してくれなくても独りでだってちゃんと血を得ることは出来る。太陽の光にも、もう当たらないようにする。だから、貴方がいなくても大丈夫だから、もう私のことは気にしないで。宝にはもう、私なんかに煩わされて欲しくないの」


「……」


気圧されたように小さく目を見開いて漸く黙って私の訴えを聞いてくれていた宝は、全てを言い終えしゃくりあげる私に、詰めていたらしい息を深々と吐き出す。

納得を、してくれただろうか?

そう期待をする私の瞳に、宝は覗き込むように視線を合わせて、だけど指で優しくそこから溢れ出てくる涙を拭った。

どこか怖いものを孕ませていた雰囲気を和らげ、苦笑するその表情に滲ませているのは微かな呆れ。


「美夜ってさ、本当に何にも分かってないよね」


そう言いながら、宝は私の涙がどうやら指だけでは間に合わないと思ったのか屈めた体を起こして、取り出したハンカチを私の顔に押し付けだす。

私はそんな宝の言葉と行動に、「え?」と困惑する。


「鈍い方が都合がいいこともあったからまあいいかって思ってたけど……。そもそもさ、あの日の試合って、美夜が干からびかけて出られなくなったやつのことだよね? あれなら別に気にしてないし、どうでもいいんだけど」


まあ、みんなに迷惑をかけたのはまずかったなって思ってるけど。と、そこだけはちょっとだけ気まずそうにそう言って。


「美夜は誤解してるみたいだけど、元々特別バスケにそこまで思い入れはないんだ。ただ美夜に血をあげたあとに俺がへばったら美夜が気にするから体力つけたくて始めようと思っただけで、室内だし、見学も自由だから下校時間を遅らせるために学校で時間をつぶしてる美夜に来てもらうことだってできて丁度いいかなって、その程度」

「……でも」

「試合に出られなくなったからって、困るのは俺がシュートを決めたときに喜んでる美夜の可愛い顔が見れないことくらいかな」


そんな馬鹿な。

確かに宝はいつもいつも練習にも試合にも、ことあるごとに見に来てと私を誘ってくれていたけれど、あんなに一生懸命練習だってしていたのに。大学だって、バスケの推薦でという話があがっているようなことを聞いたのに。


「じゃあ、友達は? 私がいるせいで宝、色々制限されてるでしょう?」

「別に……。さっきも言ったけど、俺は美夜のことが好きだから。俺にとって大事なのは美夜だけ。それ以外はどうでもいい」


あっさりそう言い捨てられて、私は開いた口が塞がらない。


「何度か言ったことあるけど、美夜が道に倒れてたあの日、本当に幸運だって思ったんだ。人形みたいに綺麗で近寄りがたくて、だけどずっと話しかけてみたかった美夜の秘密を思いがけず知ることが出来て。美夜の助けになれるのが嬉しかった。すっかり気を許して、俺だけに笑いかけてくれるのは特権だって思ってた。それは今でも変わらない。だからさ、美夜が離れるのは全然俺の為になってないよ。俺の為って言うなら、ずっと俺だけの傍にいて俺の事、いい加減、俺と同じ意味で好きになってほしいんだけど」


宝はにやりと笑ってそう言ってのける。

違う。手が届かないと、憧れていたのは私の方。

でも……。


「でも、私は化け物だから……」

「美夜は人間の血も入ってるんでしょう? 何にも問題なんてないと思うけど」

「でも、それじゃあ宝の事、今以上に巻き込んじゃう。人間としての宝が台無しになっちゃう」

「それを言うなら、美夜に魅かれたときに、もう人間としての俺は終わってるよ」


もう後戻りはできないんだと呟いた宝の言葉に“なんで?”と私は問いたかったけれど、それは宝のキスで口を塞がれたことで叶わなくて。


「お願いだから傍にいさせてよ。他の男の血なんて吸わないで。美夜は俺の血の味だけ知っていればいいんだから」


もういいや、と思った。


どんなに私が宝の為を思って言っても、本人にその気がないのならどうしようもない。

馬鹿な宝。


「後悔しても知らないからね。もう、この先絶対に手放すなんて言ってあげないから」


私は本気の本気でそう言ったのに、ぽすんっと宝に抱き着いた私を「望むところだよ」と宝は優しく受け止めた。




「宝、私は――――」








結局、いつもと変わらないような、変わったような。

そんな距離感の帰り道。


「ところでこれって、美夜の手作り? 毎年チョコはくれてたけど手作りは初めてだよね」


宝が私と繋いでいないほうの手を持ち上げて、私が押し付けた紙袋をしげしげと見つめる。

それは私がこれまでの感謝をと一生懸命作ったトリュフが入っている紙袋。


「うん。あ、でも……」

「でも?」

「あの時も言ったけど、味はよくわからないの。とりあえず見た目は悪くないはずだし、変なものも入れてないから大丈夫だと思うんだけどね、私、人間用の味覚がないから睦月に味見を頼んだのに“宝より先に食べるなんて嫌だ”って拒否されちゃったの。“ちゃんとレシピ通りに作れば大丈夫だってさゆが言ってる”って出来栄えを見ようともしてくれなくて……」


かわいげのない弟は、宝と違って私に対してとっても素っ気なくて冷たい。

味見くらいしてくれてもいいのに、と。

そう思って愚痴ったつもりだったのに。


「それはいい判断だったと思うよ? たとえ、ちょっと変わった味がしたとしても俺は嬉しいし」



「って、そう言うからね、無理やり取り返してきたの」


帰宅後。


私の手の中にある紙袋を愕然とした様子で見つめる弟に、私は問われるまま詳しくその経緯を説明した。


「だって、見る前から二人に危険物認定されるなんて。恥はかきたくないし、やっぱり宝に変なものを食べさせられないなって思って。宝は優しいから無理して食べようとしてくれてたみたいだけど、それもかわいそうでしょう?」


宝はすごく抵抗してきたけれど、明日、ちょっと高級な既製品を買って渡しなおすつもりだ。

申し訳なく思ったのか、宝はずっと落ち込んでいたけれどやっぱり無理はさせられない。


だけど、


「違うっ。そういう意味じゃない! そういう意味じゃなくって!! 美夜。宝のこと誤解し過ぎだし、もっと深く考えて! 僕、絶対逆恨みされてるじゃん!! 宝が言葉選び間違えただけなのに! なんで僕がっ!!」


なぜか着信音が鳴り響くスマホを手に蒼褪めた弟に懇願されて。


結局、翌日学校でそれはもう一度宝の手に渡ることとなり。


宝にすごく喜ばれ感謝されただけでなく、緊迫した空気に包まれていた周りの生徒たちの表情がその瞬間心底安心したように緩んで。

私は何故だろうと一人首を傾げることになった。


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