九月の先輩と私
絶望的なノイズで目が覚めた。
他学部よりも二週間早い後期授業の開始で寮内にいるのは私だけだと思っていただけにこの起床は私をひどく苛立たせた。いっそご機嫌なロックナンバーをコンポから鳴り響かせて二度寝でも決め込むかと悩んでみるが、こんなことに頭を動かしつつある時点で脳のエンジンはローくらいに入っている。二度寝はできないだろうなと諦めて騒音の元に会うために愛しの二〇二室をあとにする。
部屋を出たあとパジャマのままであることに気づいて胸元を確認する。つけてない割には目立たないことにいくぶんの安堵と乙女カウンターがいよいよ狂ってきていることへの嫌悪感で足が止まる。天秤の針はやや乙女モードで静止した。私は部屋の入り口にかけてあったクタクタにのびたカーディガンをひっかけるとボタンを閉めて寮の一階へと降りる。
大学まで徒歩三分の好立地に築五十五年の高年齢物件。それが私が住む狐狸荘である。申し訳程度の風呂トイレは部屋の中にあるがキッチンは共用で、一階の居間と呼ばれる共用スペースの奥にある。どうやら私を眠りから呼び起したノイズは底を発生源にしているらしく、いまもひどい音を立てている。
「あのー、ちょっとうるさいんですけどー」
他学部の先輩である可能性を加味したやや柔らかい苦情。対人スキルBクラスのTPOをわきまえた素晴らしい選択だったはずなのだが、キッチンの中にいた人物は私を見ると「すいません」とか「あ、うるさかった」という反省を見せるような素振り一つ見せなかった。
「故知屋か。お前もずいぶんと鼻が利くじゃないか。だが、まだ準備中だ」
右手にキッチンナイフ。左手にぐったりした銀色の金魚みたいな小さな魚を持った男は悪びれる様子もなく私をただの食いしん坊のように笑った。この時点で私の警戒アラートは最高潮に上昇した。映画なら非常事態宣言が発令され、町中をゾンビの群れが走り回っているくらいだろう。彼の名前は茶外一というが寮の先輩たちは「チャゲ先輩」と呼んでいるので私もそう呼んでいるのだが、考えてほしい。
先輩から先輩と呼ばれる彼は一体何年ここにいるのか。そもそも大学生なのか。
少なくとも私が彼を大学内で観たのはこの二年間で二回だけだ。一年の学園祭と二年の学園祭でそれぞれ見だけである。一年目のチャゲ先輩はどてら姿でたくさんの人々に追われていた。二年目は初日にたこ焼きを、二日目にタイ焼きを売っていたが後夜祭ではどこに消えたのか美人で有名なラクロス部の先輩と居合道部の部長が彼のことを必死に探していた。どちらもそこそこ大事だと思うのだが、本人はそう考えていないのか次の日には寮の居間で寝転がってテレビを見ていた。
そんなわけで私のような小心小胆なSSガールには手に余るというのがチャゲ先輩の印象なのである。
「あ。いや私は別にそういうわけではなく」
「みなまで言うな。丁度、飯が炊けたところだ。そいつを半分ほど酢飯にしてくれ」
先輩はキッチンの入り口にたっていた私にキッチンナイフを向けるとそれをそのまま九十度右回転させる。切っ先には湯気をあげる炊飯器とかなり適当に投げ出された寿司桶としゃもじ、うちわが置かれていた。私は向けられたナイフに両手をあげる形で寿司桶の前に立った。
「酢飯ってお寿司のですか?」
「故知屋は変わってるな。寿司以外で酢飯をつくることがあるのか」
「いや、ないですけど」
「ならいい。分かってると思うが飯は薄く広げて、うちわで粗熱を飛ばして、酢を入れては切るように混ぜるんだ」
言葉に合わせて先輩がナイフを振るので私は怖くてのけぞって首を縦に振った。それに満足したのか先輩はボウルいっぱいに入った銀色の魚に向き直った。私はようやくあげていた両手をおろすと寿司桶の正面に立った。
考えてみれば大学入学以来、酢飯など作ったことはない。実家にいるときでさえ何回つくったことがあるか。ちらし寿司をつくるという母の手伝いをしたのが最後ではないだろうか。すでに遠くなったお手伝いの記憶を再生しながら桶にご飯を移す。真っ白なご飯がホカホカと湯気をあげている姿はなかなか食欲をそそるもののおかずがなければそれほどでもない。
ご飯を均一になるように桶に広げてうちわであおぐと湯気が面白いように左右に流れていく。これはこれで楽しいと思いながら隣で作業をする先輩をうかがう。先輩は薬指ほどの大きさの魚のうろこを器用にキッチンナイフで取ると腹を開いて内臓をかきだした。その後、頭やエラ、背びれに尾びれを見た目に反した細やかな指さばきで取り外した。最後に背骨から中骨を身から切り離す。
意外にも鮮やかな手つきに感心していると先輩は「故知屋は運がいい」、と言った。
「どうしてです?」
「コハダの新子を食えるは一週間あるかどうかだからな」
コハダと言えば通感を出したおじさんたちが食べるもので、酢の味が強くてあまり好きではない。それよりも寿司と言えばマグロやサーモンではないだろうか?
「そうですか。コハダは年中回転寿司で回ってますよ」
「だから、コハダの新子だってコハダじゃない」
「コハダの仲間に新子がいるんですか?」
「違う。新子、コハダ、ナカズミ、コノシロの順番で大きくなるんだ」
まったく意味が分からなかった。
先輩の言うとおりに大きくなるならコハダの新子は存在しないのではないか。私がよく分からない顔をしていたせいか。先輩は少しだけ手を止めた。そして、少しだけ考え込んだ。
「そうだな。新子とコハダの間のサイズがコハダの新子だ」
「難儀な状態ですね。オタマジャクシとカエルの間みたいな」
「そうそう。オタマジャクシから手足が生えてる。そんな感じだ」
食欲を失くす表現だったが、捌かれたコハダの新子は銀色をしていて綺麗だった。先輩は二十匹ほどを捌き終えると、それらを一気に氷水の中に入れた。入れ終えるとしばらく何もする気がないのか。酢と砂糖を私に手渡してきた。
とはいえ、酢飯に適切な酢の量というのはいかほどだろうか。
我が家では母が目分量で大雑把に造るものだからすっぱいだけのときとあまり酢の味がしないときとの落差が激しかった。私は少しだけ先輩の顔色を窺うように酢の瓶を傾ける。チョロチョロと酢を流すと先輩の口がムズムズと動き、あきらかにストップと言いたげになる手前で止めることができた。
先輩はと言えば妙に緊張したのか、ふーと息をついている。
あとは砂糖をパラリと振りかけて切るようん混ぜるだけだ。桶の中のお米を十回ほど切ったあたりで、先輩が動き出した。コハダの新子を氷水から引き上げると何やら赤っぽい液体と氷水を一対三ほどの割合で混ぜるとそこに魚を入れた。
「なんですか? その赤いの?」
「赤酢」
「美味しいんですか?」
「美味しくないならいれないよ」
「まぁ、そうですよね」
五分ほどで切り身は赤酢から引き上げられるとざるの上にきれいに並べられてラップを巻かれて冷蔵庫へ入っていった。私のほうはと言えば腕がつかれてきたので酢飯づくりをなし崩し的に終えていた。
「っていうか先輩は何で寮にいるんですか?」
「九月の頭は初物を食べることにしてるんだ」
「初物ですか。江戸っ子ですか?」
「いや、違うな。俺の先輩は江戸っ子だった。その人が良く食わせてくれたんだよ」
「じゃー狐狸荘の伝統行事ですか?」
「ほかの奴が今までいたことはないよ。故知屋が初めてだな」
普通のことを話しているはずだというのに少し恥ずかしくなって私は酢飯を少しだけ混ぜた。先輩は話に切りがついたと思ったのか冷蔵庫をあけるとまた銀色の魚を取り出した。しかし、それはあまり料理をしない私でもよく知っているものだった。秋の風物詩――秋刀魚である。
先輩は秋刀魚を水でさっと洗うとまな板にのせた。包丁でうろこをとったあと先輩は私の顔をまじまじとみて「故知屋は大人か?」と訊ねた。絶句とはこういうときのことを言うのだろう。確かに私は年齢的には二十歳なので大人と言える。が、である。大人と聞かれるとそれがなにを意味するのかはいろいろな考え方がある。
金銭的に自立しているという意味もあれば、精神的に落ち着いて適切な判断力があるという意味もあれば、ほかにもそーいう感じの意味もあるのである。とはいえ、ここで馬鹿正直に言うというのは私の沽券もあるのですまして答えるのである。
「はい、大人です。私ほど大人な学生はいません」
「なら、中が入っていても大丈夫だな」
いや、この先輩は何をいっているのでしょうか。ほぼ初対面の後輩に向かって中とか大丈夫とか。そんなのいいわけないじゃないですか。いや、そもそも先輩とはそういう関係じゃないというか。何と言いますか。始まってもいないというか。これからというか。いや、これからがあるのか。
私が雑然とした考えをまとめきれずにいると先輩は秋刀魚に〆印の切れ込みを入れると魚焼きグリルに秋刀魚を二尾、川の字に入れた。
「ワタの苦味を大丈夫とは故知屋はなかなかの大人だな。俺は大学に入ってこうやって食べるまでは苦手だった。おかげで先輩からはお子様あつかいされたもんだ」
「あ、ええ。……私は大人ですから」
「なら、これも大丈夫だな」
先輩はキンキンに冷えて冷蔵庫から出した途端に汗をかく日本酒のボトルを取り出すとキッチンの上に置いた。起き抜けに朝食も食べずに日本酒なんて、乙女ポイントが急激に落ちそうな行動を誰ができるものか。そう思いながらも薄い青色のボトルの爽やかさとポンと音を立てて栓の抜ける音に私は戸棚から自分のカップを取り出していた。
「ちょっとだけなら」
「そうだな。ちょっとだけだな」
そう言いながら「おっととと……」という定番の掛け声がでるまで注がれた日本酒を舐める。水のようにするりと流れ落ちるようなのど越しと控えめな花の香りが鼻腔を満たす。糠臭さは感じられず、色もほぼ透明で澄み切っている。
「いけるだろ」
先輩は自慢げに微笑んだ。先輩は白地に青のぐい飲みに自分の分を注ぐと一気に半分ほどを飲んで「かぁー」と低い声をあげた。このままだと私の乙女ポイントが下降するのでボトルを奪うと先輩のぐい飲みに注ぐ。
「いけますね」
「よし、そろそろ。寿司だ」
そう言って先輩は冷蔵庫に入れていたコハダの新子を取り出すと三尾を綺麗に重ね合わせて、私の混ぜたシャリを軽くつまむとあっという間に一貫を握ってしまった。器用さなど皆無という風貌のわりに実に繊細である。
先輩と私の前にあっという間に銀色の握りが並ぶ。
一つをつまんで口に放り込む。最初に酢の刺激が拡がるが思っているほど強くない。噛むときめの細かい身の触感と優しい旨味がすっと入ってくる。押しつけがましいところなくいくらでも食べられそうであるが、ワンテンポ落として日本酒を挟むと先ほどよりも日本酒の甘さが感じられる。
「これはすすみますね」
「ポイントは赤酢なんだよ。これはさ」
ぐい飲みを傾けて先輩は私の手元から寿司がなくなったことを確認すると「メインいくぞ」とグリルを指さした。日本酒を片手にグリルに近づくと秋刀魚独特の皮目が焼ける香りと中からあふれた油がじうじうと弾ける音がする。
「これだけで一杯のめそうですよね」
「落ち着け、故知屋。まだだまだ始まってもいない」
先輩は炊飯器からご飯をボウルに取り出すと揉み海苔と大根の葉を刻んだものを手早く混ぜ合わせた。それを茶碗に取り分けた。最後にグリルから皮目が破れないように秋刀魚を取り出すとキッチン中が秋刀魚の香りで一杯になった。
「じゃ、仕切り直して乾杯だ」
お互いのぐい飲みとカップをぶつけると少し鈍い音がしたが、そんなことは微々たる問題だった。サクッと皮目を破って身を取り出すとほどよく脂ののった身が姿を現した。醤油もポン酢もつけていないのにほどよい塩気と旨味が秋の訪れを教えてくれる。
そして、日本酒を傾けるとさきほどよりも甘さとわずかな酸味がよくわかる。
「これは無限にいけちゃいますね」
「塩気と日本酒は昔からのコンビネーションだからな。さらにここでワタを取り出して身とワタを混ぜたところに醤油を一、二滴たらすと塩気、酒、苦味の黄金律になるわけだ」
あまりにも美味そうにワタを頬張る先輩を見て私も同じようにワタペーストを作成してみる。見た目的には最低のペーストである。箸の先に乗せて舐める。強い苦味が最初に走って嫌になるがすぐに秋刀魚の旨味と醤油の旨味がひろがる。それらを堪能したあと日本酒を喉に流す。すべてがクリアになった口はふたたび何かを求めるように箸が進む。
「これ、どこから販売してくれないですかねぇ」
「だよな。蟹味噌も美味いがこれもいいよな」
いい感じに酔いが回ってくるが限界というわけではない。ワタを堪能し終えると先輩がこちらを覗き込んで「見とけよ」と秋刀魚のしっぽ当たりの身を一気にほぐす。綺麗に取れた身を先輩は惜しげもなく先ほど作った揉み海苔と大根の葉と合わせたご飯に混ぜ込む。
「ああ、それは絶対美味しい奴」
「混ぜ込みご飯はいろいろあるがこれはかなり上位に来る奴だ」
「私もやる」
一心不乱に秋刀魚から身をはずしてご飯に乗せると大根の葉の緑と揉み海苔の濃い緑、ご飯の白、そして秋刀魚のやや焦げ茶色の身が鮮やかに映える。見た目からして美味しいがそこにある。一口いれると「美味い」が帰ってきた。
それと同時にお酒飲みたいがやってきて酒、ご飯、酒のウロボロスが円環をつくり始める。
「これはもう止まらないだろ」
「ヤバイですね。これは合法ドラッグですよ」
いくら冷たい日本酒を飲んでいるといえども季節はまだ初秋である。私はなぜか着ていたカーディガンが暑かったのでボタンを全部外した。胸元の抑えが取れたおかげでなんとなくもう少し飲めそうな気がする。先輩の前に置かれたボトルをとると先輩が急に冷蔵庫のほうを見た。
「え、もしかしてまだなにか冷蔵庫に隠してるんですか?」
「いや、隠してない。もうない。これで終わり。弾切れだ」
「ほんとですか? なにかデザート的なものあるんじゃないですか」
そんなことを言っていると寮の入り口が開いた音がした。
「おかえりなさーい」と酔っ払い丸出しの声をあげると「ただいまー」と聞きなれた女性の声がした。狐狸荘で数少ない女子の最年長四回生の安曇先輩だった。先輩は声にひかれてキッチンのほうに向かってくる。それに反してチャゲ先輩は何か悪いことをしているように挙動不審になった。
隠れて朝から晩酌していることがバレるのを怖がっているのだとしたら可愛いところがあるものだ。
「安曇先輩にもあげましょうよ」
私がチャゲ先輩の腕をつかんだのとちょうどくらいのタイミングで安曇先輩がキッチンに入ってきた。先輩は最初にチャゲ先輩を見たあと私と完全な晩酌風景を見たあともう一度、私を見つめる。
「先輩もどうですか?」
「いや、故知屋。ちょっと集合」
「えーなんですかー」
私は安曇先輩に腕を引かれて居間まで連行された。もしかして安曇先輩はチャゲ先輩と深い仲だったのだろうかと想像を膨らませていると、深いため息と一緒に安曇先輩は私の胸を押さえて「恥じらい」と小さく言った。
私の口からは絶叫に近い「あ」という音が響きわたり、そのまま自室へと駆け込むことになった。
これが私と先輩の最初の飲み会だった。




