60 無言の結婚式3
「わ、私を傷つけたら国際問題になるんだぞ!」
唾を飛ばす勢いでアデルセンが抗議する。
「無駄ね。獣人は番のことになると他はどうでもいいの。立場も国もどうでもよくなるのよ? それに国際問題だというなら、貴方が私を使ってトスカーナ王国王太子の婚約者であり、そこで妾にされようとしているキャロライン王女を滝へ転落させようとしたことの方が問題でしょう? トスカーナ王国の元公爵令嬢だった私が貴方の命令で滝の近くの柵を壊したと証言すれば、この会場にいる他国からの賓客達だって貴方の罪を認めざるを得ないんじゃないの?」
乾いた笑みと共に放たれた女官長の暴露にキャロラインも周囲の観客達も息を呑む。
先程アデルセンがキャロラインを手に入れるために仕出かした暴露話は、証拠がないため冗談であったとされれば大国の王子のため誰も糾弾できない。
アデルセンもそのことが解っていたため、敢えて座興として暴露したに過ぎないのだろう。
しかし証人がでてくれば話は別だ。
しかもその証人が単なる平民では闇に葬られ終わりだが、元とはいえ貴族ならば不問にすることはできない。それがローゼリアと並ぶ大国トスカーナの公爵令嬢だったならば尚更だ。
いかにローゼリアが強大で強い権限を持っていても、隣国の王太子の婚約者を自分の妾にするために、他国の領地の柵を壊し王女の命を危険に晒すなどあってはならないことである。
一気に剣呑な空気に包まれた観客席に、形勢不利と見たアデルセンはこの期に及んでシラをきることにした。
「な、何のことだか私には覚えがないな。それよりも、ほら! お前が欲しがってた書類だ! これを渡せば文句はないだろう?」
アデルセンが部下に目配せし、慌てて差し出された書類を翳して女官長を牽制する。
演舞場にいる他の騎士達や観客席からは、女官長に向かってヒラヒラと振られた書類の中身までは見えないようで、まだ騒めきがおさまらないが、視力だけには自信があるキャロラインはしっかりと見えていた。
アデルセンが手にしていたのは、キャロラインが兄王子のサインを強要されて拒否した、難民がアカシア王国での戸籍を得るための書類だった。
女官長は他の獣人の国へ逃げるつもりだと言っていたが、正規ルートで国境を越える際には戸籍が必要である。
罪人としてローゼリア王国へ捨てられた女官長には当然戸籍がない。そうかといって獣人に厳しい人族の国で生きていくのも国境を越えるのも戸籍がないと難しいと判断し、新しい戸籍をアデルセンに請うたのだろう。
しかしキャロラインがサインを拒んだので、アデルセンはわざとサインの箇所を持って見えないように隠していた。
サインが無ければ何の意味もない紙切れと一緒だ。
アデルセンは卑怯にも無効の書類で女官長の注意を引きつけ、油断した所を捕らえようとしているのだろう。
その証拠に女官長の周りにいる騎士達がジリジリと間合いを詰めている。
女官長の嫌がらせに思うところはあった。
階段落ちした時は本当に怖かったし、滝壺へ落ちた時は死を覚悟した。
キャロラインの脳裏に階段から走り去ってゆく白い尻尾の後ろ姿が浮かんでくる。
王家に近い公爵家出身とあって女官長も白狼の種族であった。
まさか女官長にそこまで恨まれているとは思っていなかったため、リーンハルトを疑ってしまったが、彼女が番に拒絶されたことで人族全てを恨んでいたのだとしたら、階段から落とした犯人は女官長だと考えられる。
滝の近くの柵を壊したのはアデルセンの命令だったようだが、きっと階段から落としたのは彼女の独断だったのだろう。
その罪を問われて女官長は国外追放になったのだと漸く察して、今更ながらリーンハルトを疑った自分の浅はかな思い込みが悔やまれた。
(やっぱり犯人はハルト様じゃなかったんだ……それなのに私は……)
拳を痛いほど握りしめ、下唇を噛みしめる。
謝罪してもしきれない程の過ちを犯してしまった自分が許せない。
それなのに墨色の瞳の先には未だ自分へ手を伸ばしてくれているリーンハルトがいて、キャロラインの頬をとめどなく涙が伝う。
(あんなに酷い態度をとったのに……)
真っすぐに自分を見つめたまま手を伸ばすリーンハルトに、申し訳ない気持ちと愛しい嬉しい気持ちがこみ上げる。
どうして、そこまで彼は番でもない自分なんかを求めてくれるのか不思議でならないが、リーンハルトの姿にキャロラインは噛んでいた下唇を離して口を引き結んだ。
先程アデルセンが言っていた人族と番の話が本当であり、女官長がその当事者だったとしたら、人族への憎悪を募らせた末の犯行なのだろうが、キャロラインからしてみれば完全なる逆恨みである。
それでも、とキャロラインは女官長を見つめる。
まだ喉が痺れて声が出ないため、アデルセンの持つ書類に騙されてはいけないと伝えるように必死に首を振った。
リーンハルトがキャロラインを許したように、キャロラインも女官長を助けようと考えたのだ。
そんなキャロラインを一瞬だけチラリと見た女官長は忌々し気に舌打ちをすると、昏い瞳でアデルセンを捕らえ優雅に微笑んだ。
「そんなもの、もういらないわ。私はトスカーナ王国から追放された無国籍者のままで結構。ずっと恨んでいたあの人が住むローゼリア王国へ国外追放されてしまった時には愕然としたし、見当違いの逆恨みまでしてしまったけれど、きっとあの人が導いてくれたのね」
周囲の騎士を蹴散らして手斧を投げつける構えをした女官長に、アデルセンの顔が引きつり演舞場の端まで逃げてゆく。そのせいで鎖で繋がれたキャロラインも一緒について行く形になってしまい、その背をリーンハルトが反射的に追いかける。
「よ、よせ! ふざけるな! 私は大国ローゼリアの王子だぞ! う、うわあああ!」
女官長の手斧は狙い違わずアデルセンに、いや、恐怖に駆られたアデルセンがキャロラインを盾にしようと渾身の力で鎖を手繰り寄せ自分の前面に押し出したため、キャロラインめがけて投擲された。




