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30 閉ざす心1

 キャロラインがゆっくりと瞼を開ければ、雨漏りのする傷んだ屋根ではなく、ここ数日で見慣れた綺麗な壁紙が貼られた天井が見えた。

 その天井を背景に三角の耳を不安げに下げたリーンハルトが、こちらを覗き込んでいる。


「キャロ! 良かった、気が付いたんですね。心配しました……階段から落ちたと聞いたときには心臓が止まるかと思いました」


 心底安堵したように眉尻を下げるリーンハルトに、心配をかけたことを申し訳なく思い上体を起こそうとして、キャロラインは全身を走る激痛に思わず顔を顰めた。

 骨は折れていないようだし、階段から落ちて打撲だけで済んだのは不幸中の幸いといえるが、身体中が酷く痛む。

 ただ、痛みにより覚醒したキャロラインは、先程のリーンハルトの言葉に引っかかりを覚えた。


(階段から落ちた? 落とされたではなく?)


 口にはしなかったものの墨色の瞳を微かに見開いたキャロラインに、リーンハルトが気遣うように顔を曇らせる。


「まだ安静にした方がいいですね。この城の階段は獣人のサイズに合わせているから少し段差が高すぎたのでしょう。また足を踏み外したら大変ですので、すぐにキャロに合わせて修繕させますね」


 まだ嫁いでもいない婚約者のために城を修繕するなど、溺愛しているとしか思えない甘い科白だが、キャロラインの心は穏やかではなかった。


 キャロラインは階段から落ちた。それは事実である。

 しかし、あれは足を踏み外した事故ではないと断言できた。


 あの時は後ろからついてきていた護衛が少しの間キャロラインから離れていた。何故なら階段を半ばまで上がった所で、ふいに後方から侍女の悲鳴が聞こえたからだ。

 足を止めたキャロラインは振り返ると、後ろにいた護衛に目配せをしたのを覚えている。

 視線を受けた護衛は迷いながらも侍女の方へ走っていった。

 

 怯えた様子の侍女が「虫が……!」と言う声が聞こえたので、苦手な虫でもいて思わず悲鳴をあげてしまったのかと、キャロラインは階段に佇んだまま考えていた。

 キャロラインの背中が押されたのはその時だった。


 状況を考えると、確かにキャロラインが押されたことを誰も見ていないのかもしれない。

 だが仮にも王太子の婚約者の命が危険に晒されたのに、何の検証もすることがないまま事故として処理するつもりなのだろうか? と考え、チラリと護衛がいる方を見るが、そこにいたのは今まで付いていた護衛の顔ではなかった。


「ああ、キャロの護衛なら首にしました。貴女を守れない護衛なんて不要ですから。苦手な虫がいたとかで不必要に悲鳴をあげた侍女も同様です」


 当然のように言い捨てたリーンハルトにキャロラインは驚愕の表情になる。

 理由はどうあれ確かに侍女も護衛も失態を犯した。けれど、侍女の方へ行くように指示したのはキャロラインである。

 それなのに当事者である自分から事情も聴かず、さっさと更迭してしまったリーンハルトの冷徹さに、キャロラインは息を呑んだ。


「護衛は厳選したつもりでしたし、侍女は女官長推薦の者を付けていたのに、こんなことになるなんて申し訳ありません……全て私の配慮が足りなかったせいですね。ですが、もう二度とキャロをこんな目に遭わせたりしないよう、障害になる者達は全て排除しましたので安心してください」


 キャロラインを見つめながら甘い笑顔を見せるリーンハルトだが、その琥珀の瞳に底知れぬ冷たさを感じる。

 アカシア王国で出会った時も、リーンハルトの瞳が今のように怒りを灯した時があった。

 キャロラインはリーンハルトの番だから甘やかされていたが、番ではないことが判明したならば、自分も護衛や侍女のように切り捨てられてしまうのだろうかと考えハッとした。


(もしかしてあの階段で私を落とそうとしたのは……?)


 キャロラインを階段から落として走り去る人影には確かに尻尾が見えた。形までははっきり見えなかったが色は白っぽかった気がする。

 リーンハルトは白狼だ。当然尻尾は白い。

 今も心配そうにキャロラインへ付き添うリーンハルトには、当然白いモフモフの尻尾が生えている。

 そのモフモフはやっぱり素敵ではあるが、キャロラインの脳裏には昼間庭園で見た出来事と、侍女達の会話が甦った。


 番を間違えたと解った時、彼は何を考えたのだろう。

 尻尾もなく、美しくもない女が番じゃなくて安心したのだろうか? 溺愛してきた日々を無かったことにしたかったのではないだろうか?

 今はまだ罪悪感から優しくしてくれるだけで、本当はいなくなればいいと考えているのかもしれない。


(でもまさか階段から突き落とされるほど憎まれてしまったなんて……)


 そうは思いたくないけれど、獣人はこと番に関していえば盲目になる。

 そして、いくら祖国で蔑まれてきたとはいえキャロラインは王女である。

 今更間違いでしたなどと言えば国際問題になるし、トスカーナ王国が不誠実な対応をすれば獣人の国全てが人族からの信用を失うことになりかねない

 それにキャロラインの父のことだ。慰謝料はごっそり請求してくるだろうし、ここぞとばかりに獣人を貶めるようなことを吹聴するに決まっている。


 それならば事故を装いキャロラインを亡き者にしてしまうのが手っ取り早い。

 間違えた番など邪魔でしかなく、キャロラインはいらないのだから。


(ハルト様が……私を殺そうとしている……?)


 番が間違いだとしたら有り得ない話ではない。

 違うと否定したいのに、一度考えてしまうとそれ以外思いつかない。


 それにそう考えれば、このことを事件ではなく事故として処理しようとしていることも、事情を知っていそうな護衛を早々にキャロラインの前から退場させたことも納得できるのだ。


 それなら誰かに押されたと騒ぐべきではないのかもしれない。

 ここに自分の味方は一人もいないのだから。

 そういえばアカシア王国にいた時もずっと一人だったと思い出し、キャロラインは自嘲する。

 ギュウッと心が今までにない痛みに締め付けられて、キャロラインは内頬を噛んだ。


(どこにいっても私は一人ぼっちなのね……)


 泣きたいのに心の痛みが強すぎて涙さえ出てこない。

 愛されてると思っていた。

 リーンハルトを信じたいと思っていた。

 やっと幸せを掴んだと思っていた。

 でも危惧していた通り、全ては儚い夢で幻に過ぎなかったのだ。


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