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キャッチャーインザライアーズ

作者: 影山洋士







眼下には大勢の人間がいて、こちらを見上げていた。

これからもっと増えるだろう。




立石哲宏は、学校の四階にある窓の外の僅かなスペースに立っていた。

階段の踊り場の窓の外の左。足場の幅が四十センチぐらいのスペース。窓から外に出てカニ歩きでここまでやってきた。下の地面はコンクリートだ。四階の外を流れる乾いた風が直接体に当たる。



窓際にいる教師に対しては「近づいたら飛び降りる」と、お決まりの台詞を言っておいた。下の地面には教師たち、大勢の生徒、事務員の人たちがいた。教頭が拡声器を持って、説得をしていた。命を粗末にするな、とか、皆心配している、とか、そんな風なことだ。

そして生徒たち。


教頭の横には同じクラスの生徒たちが集まっていた。


心配そうなフリをしている。

こいつらが心配している訳がない。俺のことなんか全く興味がないくせに心配する理由がない。少し離れた位置ではバカ軍団が集まって立っている。いっつも群れてるな。



こいつらの考えていることは大体分かる。


それは、人が飛び降りるシーンを見たいのだ。


めったに見られないシーンを見たいのだ。教師も生徒も事務員もみんなそうだ。この特殊な状況を楽しんでいる。ハイになって目がランランとしている奴もいる。

担任の教師の説得が始まった。内容的には教頭とあまり変わらない。英語教師の水田だ。髪がボサボサだ。声が小さいのは落ちついてるからじゃなく、焦っているからだろう。目がキョロキョロしている。ずっと教頭の言っていた事のオウム返しだ。




結局俺は、教師というものから何も感謝するようなことはされなかった。こいつとは授業以外で話したことはない。多分俺の下の名前も知らないだろう。

しかし、教師に何かを期待すること自体が間違っているんだろう。何かを期待する方がバカだ。教師に何か文句を言っている奴はただのバカだ。




いつの間にか母親が来ていた。

教師が電話で呼んだんだろう。いつものセーターを着ている。拡声器を教師に持たされて、説得をし始めた。しかし涙声で何を言っているのか良く分からない。確かにそうなるだろう。こいつが俺に生きていて欲しいのは世間体のためだ。こいつは世間体こそが人生だ。こんな状況になっていてもきっと世間体、他人の近所の目の事が一番頭にあるだろう。こいつにとっての俺は、一般人としてやっていくための道具でしかない。涙は可哀想な自分自身に対して流している。そのことに自分自身気付いてすらいない。


次はクラスの生徒の説得が始まった。俺と仲がいいと思われている生徒が出てきた。何を言っていいのか分からないようだった。そしてボソボソと喋りだした。言っていることは教師にこう言えと指示されたようだ。だから内容も同じだった。こいつとは別に友達でも何でもない。いざという時には、いつでも俺を裏切るような奴だ。薄っぺらい関係というよりも、お互いただの暇潰しの相手でしかない。




拡声器は他の生徒たちに回っていったが、皆、何を言っていいか分からず、或いは何も言う気がなく、タライ回しになっていた。




そして、いつの間にか父親が来ていた。勤めている上下水道局はそんなに遠くない。ジェルで撫でつけた髪がべったりとしている。こいつの説得も母親と同じだった。久しぶりに顔を見る。こいつはこんな顔をしてたんだ。


こいつは俺のことは何も知らない。今だに俺に対して「ゲームばっかりやってるなよ」と言う。俺はもうゲームは一年半ほどやってはいない。ゲーム機は埃を被っている。俺のことを何も知らない奴に何かを言われても何も感じない。かと言って知って欲しいとも思わないけどな。


だが俺は別に両親のことを恨んでなどはいない。ただもう関わりたくないだけだ。

窓から外に出て、この不安定な場所に立ってからもうニ時間ぐらい経っていた。さすがに足が疲れてきた。薄い上履きの上からザラザラしたコンクリートの感触が伝わる。

下にはジャージ姿の体育教師たちが、体育館のマットを持って構えていた。体操マットの耳を持ってこっちを見上げている。しかしそんなもの避けようと思えば簡単だ。



そのうちに警察もやってきた。誰かが通報したんだろう。教師たちと何やら相談している。しかし警察が来て一番困っているのは母親だろう。俺は別に困らない。

皆どうしていいのか分かっていないようだ。クラスのバカ軍団たちは集まって壁に寄りかかって、もうあからさまにニヤついている。しかし皆の前で俺に「飛び降りろ」と、言う根性はないらしい。所詮その程度のやつらだ。

近所に住んでいる人たちも来ていた。

クラスの女子生徒はまだ心配そうな顔をしている。こいつらが心配する理由は何もない。人間を顔だけで判断するこいつらにとっては不細工な顔の俺はいつでもいなくなっていい存在のはずだ。こいつらにとって不細工で明るくない者は犯罪者だ。事実、誰とも話したことはない。そんなやつらが心から心配するはずもない。全てはスタイルだ。そうしなきゃいけないと思っているんだろう。こいつらは毎日掃除の時間に掃除をしている俺をうっとおしそうに見て、トイレで煙草を吸っているのが格好いいと思っているバカ軍団には媚びている。そう言えば、女子の中には看護婦になりたいと言っている奴もいた。俺のことをゴミを見るみたいに見てる奴が「人を助ける職業に就きたい」なんて、その精神構造は全く理解できない。

下にいる生徒たちは全校生徒にしては少ない。多分教師が教室から出さないようにしている分もあるんだろう。





説得役は変わるが、誰の説得も俺の耳に届かない。

まるで違う言語を使っているようだ。

俺と同じ言語を使っている人間はいるんだろうか。


下にいる、止めどなく説得する人間たちと比べて、俺は逆にどんどん冷静になっていた。

全ての人間の表情を観察していた。もうそろそろ飽きだした奴もいる。隠れてメールを打っている奴もいる。指のささくれをむいている奴もいる。トイレに行って、帰ってくる奴もいる。



全てが冗談のような気がする。

全てがコントのような気がする。皆が俺を騙していて、俺が被害者のような気がする。

窓際にいる説得役が教師から警察に変わった。さすが警察だ。一本調子の教師と違って、諭しや脅しや泣き落としなど様々な手を使ってくる。茶色のスーツを着て、ノーネクタイのこの四十代ぐらいの男は刑事だろうか。こういう訓練はするんだろうか。しかし結局、内容的には今までと同じだった。国家権力も言うことは基本的に変わらなかった。警察には別に恨みはないので、少し申し訳ない気がする。

俺は疲れたので腰を下ろした。その動きを見て群衆の中から「きゃあ」と女子の叫び声が上がる。俺が飛び降りると思ったんだろう。腰を下ろしただけと知ると、ふぅー、と息をついていた。その反応は面白かったが、わざとまたやろうとは思わない。




俺はこれからどうしよう?


飛び降りるか、飛び降りないか。


しかし今更、すごすごと戻ることは想像出来ない。それこそ死ぬようなものじゃないのか。考えただけでもゾッとする。だとすると飛び降りるのか?


下の地面はコンクリートだ。飛び降りれば多分死ぬだろう。俺は死ぬのか。それでいいのか。死んだら連載しているマンガの続きが見れない。深夜のバラエティー番組が見れない。読みたい小説はまだ一杯ある。

しかし、それらのためにどうしても生きたいとは思わない。それほどの価値はない。生きていて残るものは五日の苦痛と二日の休憩、その連続だけだ。生きていて何になる。何が得なんだ。生きろ、生きろと周りは言う。でも誰も、生きるための価値は与えてくれない。そんなものは自分で見つけろと言う。

俺はないと判断したんだから、それでいいだろう。中学で結論を出すのは早すぎると言われるかもしれない。でも自分の気持ちに正直になって何が悪いんだ。結局最終的に俺の問題なんだ。結論を出すのは俺だ。

俺は下ではなく前を向いた。


学校の外の製紙工場の灰色の屋根と、いびつに並んだ民家の屋根が見える。空は青く、小さい雲がゆっくり流れている。いつもと変わらないつまらない風景だ。



そうだ。

結局俺が死んでもこの風景は変わらないんだ。終わってしまえばまた、何事もなかったように進んでいく。何事もなかったかのように存在していく。そんな小さなことなんだ。

下ではまた教師たちの説得が始まった。色々な教科の教師たちがそれぞれ得意分野の知識を発揮して説得する。まるで何かのゲームのようだ。


「説得によって俺を落とさないように操りましょう」ゲーム。

バカバカしい。ゲーム感覚なのはお前らの方だ。全てがバカバカしい。

俺は腹が立ってきた。こいつらだって本当は人が飛び降りるシーンを見たいはずだ。俺に飛び降りて欲しいんだ。人が死ぬところを見たいんだ。そしてそれを人生の中での糧とする。娯楽の道具とする。そのくせに嘘ばっかりつきやがって。こいつらは偉そうな面をして人の人生を語りたいだけだ。これはこいつらにとって自分の人生を彩る一エピソードでしかない。

突然、俺はいいことを思いついた。



この偽善者たちの固まりの中に飛び込んでやろう。



本当に俺の命が大切であると言うならば、身を挺して助けるだろう。

けどそんなことは絶対に起こらない。絶対に起こせない。こいつらは自分たちの嘘にイヤでも気付く。自分たちの本性をまざまざと感じろ。生きるんであればそれぐらいの覚悟はしろ。俺の汚い死体を楽しめ。


俺は立ち上がった。下の人間たちを見下ろす。もうそれらはモノにしか見えない。

体中の全ての神経が体の真ん中に集中する。あらゆる感情が一点に絡まる。

一瞬の静寂。







そして。断絶。


俺は目を見開き、壁に手を着き勢いをつけて思いきり空中にジャンプした。


人間の固まりの中心に飛び込む。足の下に足場はなくなり完全に体は宙に飛び出る。ジェットコースターのような内臓が浮く感じがする。強烈な浮遊感と喪失感。頭から硬い地面へと向かってゆく。その先では、声を失った人の固まりが、さっと離れて地面が空く。野球場で観客席に強いファールボールが飛んでいったみたいだ。皆、引きつった顔をしている。教師も教頭も父親も母親も同じクラスの男も女も下級生も警察も近所の住人も事務員もみんな俺を見据えつつ逃げていった。俺は、ああ、やっぱりな、と思った。

しかしその時一人の人間が飛び込んできた。









































強い衝撃を感じて頭がクラクラする。動くと肩と腰に激痛が走る。俺は、地面に降りていた。



俺はまだ生きていた。

俺の下には一人の人間が倒れて呻いていた。


それは。



野次馬として来ていた、宅配便の、知らないオッサンだった。

宅配便の制服を着て、色の白い、地味な顔の男が目をつぶって倒れていた。








果たしてこれは良かったのか、悪かったのか。











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