友達 1 「出会い」
春の光がまだ冷たい。
窓際の席で、星空りんはノートの端にペンを走らせていた。黒板の文字が少し滲んで見えるのは、緊張のせいかもしれない。新しいクラス、新しい制服、知らない声。教室の空気には、どこか透明な壁があった。
「ねぇ、それ、間違ってるよ。」
その声は、不意に近くから降ってきた。
顔を上げると、そこにいたのは茅ヶ崎渚。長いまつげの奥に光を宿したような瞳。笑うと少しだけ片方の口角が上がる。誰もが目で追うようなタイプの子だった。
「ここの式、符号が逆。ほら、ここ。」
渚はりんのノートに自分のペンを走らせ、柔らかく笑った。
「でも、ちゃんと考えてるね。頭いいんだ、星空さん。」
「……ありがとう。」
りんはそれだけ言うのが精一杯だった。
けれど、渚はそれ以上何も聞かず、まるで“それでいい”とでも言うように微笑んだ。
◇
それから数日、渚はよくりんに話しかけてくるようになった。
「一緒に帰ろ」「明日もお昼、ここで食べよ」
誘われるたびに、りんの胸の奥が少し温かくなる。
放課後、二人で寄った駅前のカフェでは、チョコケーキを半分こした。
渚がフォークを差し出して、「はい、あーん」と笑う。
周りの視線が気になっても、りんはその笑顔を見ているだけで不思議と落ち着いた。
それは“恋”というより、“救い”に近かった。
「りんって呼んでいい?」
渚が聞いた。
「うん……」
「じゃあ、りんも渚って呼んで。ね?」
強引でもなく、命令でもない。ただ、拒めない響きだった。
その夜、りんは日記を書いた。
> 『初めて“友達”ができた気がする。』
その文字を見て、自然に微笑んだ。
胸の中で何かが動き出す音がした。
◇
数週間後。
放課後の空は、急に降り出した雨で灰色に沈んでいた。
傘を忘れたりんは、校門の前で立ち尽くしていた。
誰もいない昇降口、濡れたアスファルトの匂い。
ふと背後から、傘の布越しに差し込む光があった。
「りん、傘、忘れたでしょ。」
振り返ると渚がいた。
彼女の肩も少し濡れていて、息を切らしていた。
「……気づいてくれたの?」
「当たり前。わたし、りんのことなら分かるもん。」
そう言って、傘の中へ手を引かれる。
雨の音が、世界を小さく包み込む。
肌と肌の距離が近すぎて、息が触れ合いそうだった。
「ねぇ、りん。」
渚の声が小さく沈む。
「わたしたち、もう“友達”だよね?」
りんは頷く。
「……うん。」
「ほんとに?」
渚はりんをまっすぐ見つめて、ゆっくりと、その唇を重ねた。
雨音が一瞬、遠のいた。
渚の髪から落ちる雫が、りんの頬を伝う。
温度の境界が溶けて、世界が曖昧になる。
> 「秘密ね。これは……友達の証だから。」
その言葉が、雨よりも冷たく心に残った。
帰り道、りんは胸に触れた。
指先には、まだ渚の体温が残っている気がした。
“好き”という言葉を使うには、あまりに脆く、
“友情”というには、あまりに深すぎた。
その夜、日記にはこう書かれていた。
> 『傘の下のキス。わたしたちは友達。きっと、そう。』
最後の「きっと」という言葉を、りんは何度も書き直した。
◇
◇ ◇ ◇
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