凛の花 3
朝の鐘が三度、広場の空に響いた。
診療所の扉を開けた瞬間、乾いた冷気が頬を撫でた。秋が近い。空の青が少し固くなって、街の屋根瓦が光を返している。
机の上には師匠が残してくれた古い術式の写本。羊皮紙にびっしりと書かれた数式は、美しいほど複雑だ。魔法陣の円環の一つひとつに、生命と魔力の比率が数値で刻まれている。
「百一回、間違えるんだよ」
先生の声が記憶の中で笑う。
わたしはそれでも、百二回目を描き続けた。
◇
こうきの病は進んでいた。
毎日、渚と交代で看病した。午前はわたし、午後は渚。夜は、師匠が見回ってくれる。
体の線が少しずつ細くなる。頬の下の影が濃くなる。魔法の光はもう反応しない。けれど、彼は笑う。
「りん、またパンの焼きすぎだ」
「焼きすぎじゃない、焼き締め」
「焦げてる」
「焦がすのが香ばしさ」
「……言い訳が増えてきたね」
いつもの会話を、いつも通りに繰り返す。
その「いつも通り」を保つことが、唯一できる魔法のように思えた。
でも夜になると、息は荒く、指先は冷える。
脈を取るたび、胸の奥で何かが軋んだ。
◇
ある夕暮れ、渚が交代に来た。
彼女の目の下に濃い影があった。
「りん……もう寝てないでしょ」
「大丈夫。魔法で少し誤魔化せる」
「魔法は便利だけど、便利すぎると自分が見えなくなるよ」
「渚こそ」
「うん。だから、明日は寝る」
二人で微笑んだ。その笑顔の中で、言葉にならない恐れが揺れた。
誰も「終わり」を言葉にしない。言えば、現実になってしまう気がするから。
こうきの寝息は浅くて、でも穏やかだった。
彼は眠りながら、小さく呟いた。
「……りん……花……」
その言葉の意味を、わたしはその夜、理解できなかった。
◇ ◇ ◇
翌日、わたしは禁書庫の奥にいた。
灯りを抑えた小さなランプの下、机の上には数十枚の羊皮紙。
そこに、生命転化の陣を描いていた。
血の循環を中心に、魔力の流れを重ねる。
心臓部に「供物の印」を置く。術者の命が媒介となり、他者の命を繋ぐ――。
古代の研究者たちはこの術を「代赦の魔法」と呼んだ。
赦しを代わりに引き受ける者。聖職者でなければ起動できないが、わたしは聖女と呼ばれてしまうほどには条件を満たしている。
(これで、こうきを助けられる)
指先が震えた。恐れではない。希望の重さだ。
◇
夜、渚が帰ったあと、わたしは寝室に戻った。
こうきは目を閉じていたが、呼吸はまだあった。
わたしはベッド脇の床に座り、手を彼の胸の上に置く。
「……ごめんね、少し痛いかもしれない」
息を整え、魔法陣を心に展開する。
わたしの魔力がゆっくりと、熱を持って広がっていく。
その瞬間――。
「りん」
彼の声。
目を開けると、彼がこちらを見ていた。
呼吸は浅いのに、瞳の奥はいつもと同じ、まっすぐな光。
「なにしてるの」
「……魔法の調整」
「嘘だ」
「……」
「僕の命と、りんの命を、秤にかけようとしてる」
「違う」
「同じだよ」
彼の声は静かで、けれど切り裂くように正確だった。
「なんで……」
「りんがいなくなったら、みんなが困るから」
「わたしは……こうきがいなくなる方が、困る」
「違う。僕は、いなくなってもいい。でも、りんは違う」
「どうしてそんなこと言うの……!」
涙が声を歪ませる。
「りん」
彼が手を伸ばす。
冷たい指先が、わたしの頬を拭った。
「りんの魔法は、生きてる人のためにある。
僕ひとりのために終わらせる魔法じゃない」
「でも、もう他の誰も救えない……」
「救えるよ。りんなら。僕が保証する」
その瞬間、胸の中の陣がふっと崩れた。
魔力が散って、静けさが戻る。
「……どうしてそんなに優しいの」
「りんが優しいから、うつったんだと思う」
彼の笑みが、痛いほど穏やかだった。
◇ ◇ ◇
夜が明ける頃、こうきの呼吸は少しずつ浅くなった。
わたしは一晩中、彼の手を握っていた。
ランプの灯りが尽きかけたころ、
彼が、ふっと微笑んだ。
「りん……ありがとう」
その声が途切れ、世界が一瞬、止まった。
魔法の気配が消えたわけではない。
でも、“彼の魔法”が、この世界から抜けていくのを感じた。
わたしは何も言えなかった。
涙が静かに頬を伝い、枕元に落ちた。
その雫の跡から、小さな白い蕾が芽吹いていた。
それが後に、凛の花と呼ばれることになることを、
このときのわたしはまだ知らなかった。
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