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凛の花 3

 朝の鐘が三度、広場の空に響いた。


 診療所の扉を開けた瞬間、乾いた冷気が頬を撫でた。秋が近い。空の青が少し固くなって、街の屋根瓦が光を返している。


 机の上には師匠が残してくれた古い術式の写本。羊皮紙にびっしりと書かれた数式は、美しいほど複雑だ。魔法陣の円環の一つひとつに、生命と魔力の比率が数値で刻まれている。


 「百一回、間違えるんだよ」


 先生の声が記憶の中で笑う。


 わたしはそれでも、百二回目を描き続けた。



 こうきの病は進んでいた。


 毎日、渚と交代で看病した。午前はわたし、午後は渚。夜は、師匠が見回ってくれる。


 体の線が少しずつ細くなる。頬の下の影が濃くなる。魔法の光はもう反応しない。けれど、彼は笑う。


 「りん、またパンの焼きすぎだ」


 「焼きすぎじゃない、焼き締め」


 「焦げてる」


 「焦がすのが香ばしさ」


 「……言い訳が増えてきたね」


 いつもの会話を、いつも通りに繰り返す。

 その「いつも通り」を保つことが、唯一できる魔法のように思えた。


 でも夜になると、息は荒く、指先は冷える。

 脈を取るたび、胸の奥で何かが軋んだ。



 ある夕暮れ、渚が交代に来た。

 彼女の目の下に濃い影があった。


 「りん……もう寝てないでしょ」


 「大丈夫。魔法で少し誤魔化せる」


 「魔法は便利だけど、便利すぎると自分が見えなくなるよ」


 「渚こそ」


 「うん。だから、明日は寝る」


 二人で微笑んだ。その笑顔の中で、言葉にならない恐れが揺れた。

 誰も「終わり」を言葉にしない。言えば、現実になってしまう気がするから。


 こうきの寝息は浅くて、でも穏やかだった。

 彼は眠りながら、小さく呟いた。


 「……りん……花……」


 その言葉の意味を、わたしはその夜、理解できなかった。


◇ ◇ ◇


 翌日、わたしは禁書庫の奥にいた。


 灯りを抑えた小さなランプの下、机の上には数十枚の羊皮紙。

 そこに、生命転化の陣を描いていた。


 血の循環を中心に、魔力の流れを重ねる。

 心臓部に「供物の印」を置く。術者の命が媒介となり、他者の命を繋ぐ――。


 古代の研究者たちはこの術を「代赦だいしゃの魔法」と呼んだ。

 赦しを代わりに引き受ける者。聖職者でなければ起動できないが、わたしは聖女と呼ばれてしまうほどには条件を満たしている。


 (これで、こうきを助けられる)


 指先が震えた。恐れではない。希望の重さだ。



 夜、渚が帰ったあと、わたしは寝室に戻った。


 こうきは目を閉じていたが、呼吸はまだあった。

 わたしはベッド脇の床に座り、手を彼の胸の上に置く。


 「……ごめんね、少し痛いかもしれない」


 息を整え、魔法陣を心に展開する。

 わたしの魔力がゆっくりと、熱を持って広がっていく。


 その瞬間――。


 「りん」


 彼の声。


 目を開けると、彼がこちらを見ていた。

 呼吸は浅いのに、瞳の奥はいつもと同じ、まっすぐな光。


 「なにしてるの」


 「……魔法の調整」


 「嘘だ」


 「……」


 「僕の命と、りんの命を、秤にかけようとしてる」


 「違う」


 「同じだよ」


 彼の声は静かで、けれど切り裂くように正確だった。


 「なんで……」


 「りんがいなくなったら、みんなが困るから」


 「わたしは……こうきがいなくなる方が、困る」


 「違う。僕は、いなくなってもいい。でも、りんは違う」


 「どうしてそんなこと言うの……!」


 涙が声を歪ませる。


 「りん」


 彼が手を伸ばす。

 冷たい指先が、わたしの頬を拭った。


 「りんの魔法は、生きてる人のためにある。

  僕ひとりのために終わらせる魔法じゃない」


 「でも、もう他の誰も救えない……」


 「救えるよ。りんなら。僕が保証する」


 その瞬間、胸の中の陣がふっと崩れた。

 魔力が散って、静けさが戻る。


 「……どうしてそんなに優しいの」


 「りんが優しいから、うつったんだと思う」


 彼の笑みが、痛いほど穏やかだった。


◇ ◇ ◇


 夜が明ける頃、こうきの呼吸は少しずつ浅くなった。

 わたしは一晩中、彼の手を握っていた。


 ランプの灯りが尽きかけたころ、

 彼が、ふっと微笑んだ。


 「りん……ありがとう」


 その声が途切れ、世界が一瞬、止まった。


 魔法の気配が消えたわけではない。

 でも、“彼の魔法”が、この世界から抜けていくのを感じた。


 わたしは何も言えなかった。

 涙が静かに頬を伝い、枕元に落ちた。


 その雫の跡から、小さな白い蕾が芽吹いていた。


 それが後に、凛の花と呼ばれることになることを、

 このときのわたしはまだ知らなかった。


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