凛の花 2
翌朝、わたしは初めて、癒せないという言葉に触れる。
こうきが倒れた、と渚が駆け込んで来たのは、朝の診療所がいちばん忙しくなる少し前の時刻だった。
「りん、こうきが、」
胸の内側が真っ白になる。手に持っていた羊皮紙が床に滑り落ちる音を、遠くで聞いた。
「どこ」
「うち。立てなくて、顔が、白くて」
わたしは走った。石畳が爪先を跳ね返し、空気が肺を切り、視界が点滅する。渚の家の扉は開け放たれており、台所の火が弱く揺れていた。寝室で、こうきは汗に濡れ、浅い呼吸を繰り返していた。
「こうき」
彼の額に手を置く。熱。けれど熱だけではない、もっと深い所で何かが崩れている感触。回復魔法の起動陣を描く。光が皮膚に吸い込まれ、血肉の奥へ沈む。戻れと命じる。体の記憶へ触れる。
光は、薄くほどけて、消えた。
「……もう一度」
今度は別の角度で、循環系統を優先して整える。血流の渦、神経の火花。ひとつひとつを拾い上げてつなぎ直す。
光は、薄くほどけて、消えた。
「りん」
渚がわたしの肩に手を置く。その指も震えている。
「大丈夫。やる」
わたしは魔法陣を三重に重ねた。回復、鎮静、調律。師匠から学んだ安全域を少しだけ踏み越える。許して、と心の中で先生に謝る。
光はふっと強くなり――すぐに、音もなく消えた。
静寂。窓の外で鳥が一度だけ鳴く。
「こうき」
彼は薄く目を開いた。焦点の合わない瞳に、わたしの姿が小さく映る。
「りん、来た……?」
「いる。ここにいる」
「大丈夫。僕は……」
「大丈夫じゃない」
自分でも驚くほど低い声が出た。こうきは目を細め、いつものように笑おうとして、失敗した。
「渚、水を」
「うん」
渚が水差しを持ってくる間に、わたしはもう一度だけ魔法を構える。回復の光は、彼の体の奥で形を失っていく。戻る場所が、どこにも見つからない。
(なぜ)
心臓が静かに早鐘を打つ。理由のわからない恐怖が指先を冷やす。
「先生を呼んでくる」
渚が駆け出す。わたしはこうきの手を握った。脈は細く、表皮の下でぎりぎりに灯っている。
「こうき」
「うん」
「すぐ、直すから」
「うん」
彼は頷く。頷くけれど、その「うん」は、わたしを気遣う音の形をしていた。
窓の光が淡く揺れた。癒せないという言葉が、ゆっくりと部屋の中に形を持ちはじめる。
わたしは、まだ信じないことにした。信じ方を、変えるだけだ。魔法は方法だ。方法が尽きたわけじゃない。
◇ ◇ ◇
その日を境に、こうきは少しずつ痩せていった。診断は短く、病名は長く、治療は曖昧だった。師匠は首を横に振り、「これは魔法の範疇を外れる」と言った。
「外れる?」
「りん。魔法は“戻す”術だ。だがこの病は、戻る場所を喪っている。地図が燃えた場所に、道は引けん」
「なら、地図を描き直す」
「描き直すのは神々の仕事だ」
「じゃあ、その神々の手からペンをもらう」
師匠は目を細め、長い沈黙の後、小さく笑った。
「無茶を言うところも、君の良さだ」
「無茶を許すところも、先生の良さ」
「歳をとると、許せることが増えるんだ」
「じゃあ、もっと増やして」
「……増やしてしまいそうだよ、りん」
師匠は本棚から鍵を取り出し、診療所の奥にある禁書庫の扉を開けた。乾いた紙と古い革の匂いが湧き、薄暗い中に銀色の埃が舞う。
「生命力を魔力に変換する術式が、過去に研究された形跡がある。封じられたものだ」
「なぜ封じられたの」
「成功するからだ」
言葉が喉の奥に落ちた。成功する。つまり、救える。だが――
「対価は命だ。術者の」
「……わたしの、命」
「聖女の命は、街の灯りの芯だ。一本抜けば、周りの火は揺らぐ。分かっているね」
分かっている。けれど、分からないふりをするには、こうきの呼吸が薄すぎた。
「先生。教えて」
「反対だ」
「反対されても、やる」
師匠は深く息を吐き、古い羊皮紙の束を机に置いた。精緻な図形。細密な数式。読み解ける。わたしなら、きっと。
「渚とこうきに、言うのかね」
「言わない」
「それは、ずるい」
「ずるい人間が、世界を一つ救うこともある」
師匠は口の端を少しだけ上げた。
「……無茶を許す私の悪い癖だ。りん。やるなら計算を百回やれ。百一回目に、間違える」
「百二回、やる」
「それはもっと間違える」
わたしは笑って、羊皮紙に手を置いた。指先に吸い付く古い紙の感触が、覚悟を静かに可視化する。
(わたしは戻す。彼を、戻す)
◇ ◇ ◇
夜、渚の家の寝室で、こうきは眠っていた。頬は少しこけ、睫毛の影が長い。わたしは椅子に座り、魔法陣の点検を続けるふりをして、彼の呼吸の数を数えた。十、二十、三十。
「りん」
目を閉じたまま、彼が言う。
「起きてたの?」
「眠ったり、起きたり。君の気配で分かる」
「わたし、うるさい?」
「うるさいくらい静か」
「それは、どういう」
「たぶん褒めてる」
彼はかすかに笑った。わたしも笑う。笑いは魔法の起動を助ける。そう思い込むことにする。
「ねえ、こうき」
「うん」
「もしさ、わたしが、すっごい馬鹿なことをしそうになったら、止めてくれる?」
「するの?」
「しないよ」
「なら、止めない」
「ずるい」
「りんがずるいなら、僕もずるい」
静かに、夜が流れる。ランプの芯が小さく音を立て、外で猫が何かを追う足音がする。窓の向こうに星。わたしはそれを数え始めて、途中で諦めた。
(明日、術式の仮組みを、完成させる)
胸の奥に置いた決意は、痛みではなく、静かな熱だった。
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