夜を踊る軽 3(終)
峠を降りる途中、夜はまだ静かだった。
勝ったあとの高揚は、もう薄れている。
代わりに残っているのは、ハンドル越しに伝わる、かすかな違和感。
りんは、アクセルを深く踏まない。
回転数を上げすぎないように、慎重に下る。
「……さっきの、見た?」
ぽつりと、りんが言う。
「メーターの針?」
渚の声は、すでに気づいていた人のそれだった。
「うん。ほんの一瞬だけど」
「見た。
今は走れてる。でも――無理はさせないほうがいい」
峠の出口が見えてくる。
ガードレールが途切れて、道が少しだけ広くなる。
りんは、そこで初めて大きく息を吐いた。
◇
簡易の駐車スペースに車を停め、エンジンを切る。
夜が、戻ってくる。
エンジン音が消えた分だけ、風の音が大きくなる。
りんは、すぐに降りなかった。
ステアリングに手を置いたまま、コペンの鼓動が完全に落ち着くのを待つ。
「……頑張ったね」
小さく呟いてから、キーを抜く。
ボンネットを開けると、熱がふわっと立ち上った。
オイルの匂い。金属の匂い。
嫌な匂いじゃない。
でも、いつもより少しだけ、焦げた感じが混じっている。
「どこだろ」
りんが覗き込むと、渚がライトを当てる。
「配管、ここ。
……うん。振動、来てる」
「やっぱり、終盤のドリフト?」
「繋いだぶん、負荷は大きかった。
コペンは軽いけど、その分、全部がダイレクト」
りんは唇を噛む。
勝った。
でも、その代償が、ここにある。
◇
ガレージに戻ったのは、夜が少しだけ薄くなり始めたころだった。
シャッターを閉める音が、やけに大きく響く。
照明を点けると、パールホワイトの車体が、無言でそこに立っていた。
汚れも、傷も、ほとんどない。
見た目だけなら、何も問題はない。
でも――
りんは、わかっている。
「……痛めちゃった」
声にすると、急に胸が苦しくなる。
渚は何も言わず、工具箱を開けた。
カチャリ、という金属音が、静かな空間に落ちる。
「直せる?」
りんの問いは、少しだけ震えていた。
「直す。
時間はかかるけど、間に合わせる」
「次の……」
「うん。
次の相手までに」
渚は、はっきり言った。
◇
それからの数日は、速さとは無縁の時間だった。
走らない。
踏まない。
ただ、ばらして、確かめて、戻す。
りんは、工具を持つ手があまり器用じゃない。
でも、部品ひとつひとつに触れるのは、嫌いじゃなかった。
「ここ、熱溜まりやすいね」
「だから、逃がす。
無理に強くしない。
りんの走りに合わせる」
渚の言葉は、チューニングというより、会話に近い。
速くするんじゃない。
壊れにくくする。
りんが踊っても、ついてこれるように。
◇
三日目の夜。
エンジンをかけると、音が変わっていた。
少しだけ、落ち着いている。
「……違う」
りんが言う。
「うん。
無理を飲み込む音になった」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
りんは、やっと笑った。
◇
ガレージのシャッターを上げると、夜風が入り込む。
外には、別の車の気配がある。
低く、重いエンジン音。
赤いボディ。
流れるようなシルエット。
「……来た」
りんが呟く。
マツダ RX-7。
FD3S。
そして、ドアの向こうで腕を組んでいるのは――
かずまさこうき。
遼とは違う。
正確さより、迫力。
理論より、経験。
渚が、小さく息を吸う。
「次は……軽さじゃ済まないね」
りんは、ステアリングに手を置いた。
「大丈夫。
この子、もう一段階、踊れる」
コペンは、静かに応えるみたいに、エンジンを鳴らした。
◇ ◇ ◇
FDのエンジン音は、低くて、深い。
回転が上がるたび、空気そのものが震えるみたいに鳴る。
GR86とも違う。
軽快さより、圧。
押し出されるような存在感。
かずまさこうきは、車にもたれて腕を組んでいた。
表情は読めない。
でも、目だけが――峠を見ている。
「準備、できた?」
短い一言。
挨拶みたいで、宣戦布告みたいで。
りんは、頷いた。
「できてる」
それだけ。
渚は、助手席でシートベルトを引いた。
カチリ、と音がして、世界が少し締まる。
「相手は、回してくる。
立ち上がりより、維持」
「うん。
無理に抜かない」
「抜くなら、流れの中」
りんはキーを回す。
コペンのエンジンが、静かに目を覚ました。
前より、落ち着いた音。
◇
スタートの合図は、やっぱりない。
FDが、先に動く。
ロータリー特有の軽い吹け上がり。
でも、速度は重い。
「……速い」
りんが、息を吐く。
「速い。でも、線が太い」
渚の声は、冷静だ。
最初のコーナー。
FDは、大きく流す。
深い角度。
タイヤスモークが、夜に広がる。
「……派手」
「派手なのは、見せるため。
あれは、威圧」
りんは、距離を保つ。
近づきすぎない。
でも、離れない。
コペンは、浅く流す。
角度は最小限。
リアが逃げて、すぐ戻る。
FDの後ろで、白い影が揺れる。
◇
中盤。
連続コーナーに入る。
FDの走りは、強引だった。
トルクで押し、回転で引っ張る。
ラインは太く、隙が少ない。
「……切り返し、遅れない?」
りんが言う。
「遅れない。
でも、“重い”」
渚は、そう言った。
次の切り返し。
FDが、大きく振る。
角度は深い。
でも、そのぶん、戻しに時間がかかる。
その一瞬。
コペンが、内側へ滑り込む。
「……今」
渚の声。
りんは、アクセルを一定に。
カウンターを当てたまま、次へ。
深くは流さない。
でも、切らない。
連続角。
軽い車体が、リズムを刻む。
FDの外側を、白い影がなぞる。
◇
かずまさこうきは、ミラーを見た。
白いコペン。
小さい。
でも、消えない。
角度を深くすれば、内側に来る。
抑えれば、リズムで詰められる。
「……面倒だな」
小さく、笑った。
◇
終盤が近づく。
峠の一番奥。
出口が見えない、連続ヘアピン。
FDが、ここで仕掛ける。
深いドリフト。
煙が視界を奪う。
「……見えない」
りんが言う。
「音を聞いて。
回転、落ちた」
渚の声は、迷わない。
りんは、音だけを頼りに入る。
ブレーキ。
荷重。
ハンドル。
コペンが、横を向く。
煙の中。
一瞬、世界が白くなる。
でも――
出口は、見えている。
◇
「……今だよ」
渚の声。
りんは、角度を維持したまま、踏む。
深くない。
でも、切らない。
FDの外側。
煙の向こうに、赤いテール。
白い鼻先が、並ぶ。
並んで、
流れのまま、前へ。
抜く。
派手さはない。
音も小さい。
でも、確実。
FDのライトが、ミラーの中に落ちる。
◇
最後の直線。
りんは、もう無理をしない。
一定。
まっすぐ。
コペンのエンジンが、静かに歌う。
看板。
ゴール。
減速。
息を吐く。
――勝った。
◇
停車すると、FDが隣に来た。
かずまさこうきが降りて、コペンを見る。
じっと。
長い。
「……小さいな」
それだけ言って、笑った。
「でも、嫌いじゃない」
りんは、肩をすくめる。
「軽いから」
「軽いのに、雑じゃない。
そこが、いい」
渚が、静かに言う。
「踊らせる人が、いるから」
かずまさこうきは、頷いた。
「次は……
また別の夜で」
FDのエンジンが、再び唸る。
赤い光が、闇に溶けていった。
◇
りんは、ステアリングに手を置く。
鼓動は、落ち着いている。
でも、胸の奥は――まだ熱い。
「……楽しかった」
「うん。
でも、そろそろ休ませよう」
渚の言葉に、りんは頷く。
コペンは、今日も走りきった。
軽くて、正直で、
踊ることを、やめない車。
夜は、まだ続く。
でも――
この峠の物語は、いったんここで、息をつく。
⸻
『夜を踊る軽』 完




