表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/47

夜を踊る軽 3(終)

 峠を降りる途中、夜はまだ静かだった。


 勝ったあとの高揚は、もう薄れている。

 代わりに残っているのは、ハンドル越しに伝わる、かすかな違和感。


 りんは、アクセルを深く踏まない。

 回転数を上げすぎないように、慎重に下る。


「……さっきの、見た?」


 ぽつりと、りんが言う。


「メーターの針?」


 渚の声は、すでに気づいていた人のそれだった。


「うん。ほんの一瞬だけど」


「見た。

 今は走れてる。でも――無理はさせないほうがいい」


 峠の出口が見えてくる。

 ガードレールが途切れて、道が少しだけ広くなる。


 りんは、そこで初めて大きく息を吐いた。



 簡易の駐車スペースに車を停め、エンジンを切る。


 夜が、戻ってくる。

 エンジン音が消えた分だけ、風の音が大きくなる。


 りんは、すぐに降りなかった。

 ステアリングに手を置いたまま、コペンの鼓動が完全に落ち着くのを待つ。


「……頑張ったね」


 小さく呟いてから、キーを抜く。


 ボンネットを開けると、熱がふわっと立ち上った。

 オイルの匂い。金属の匂い。

 嫌な匂いじゃない。

 でも、いつもより少しだけ、焦げた感じが混じっている。


「どこだろ」


 りんが覗き込むと、渚がライトを当てる。


「配管、ここ。

 ……うん。振動、来てる」


「やっぱり、終盤のドリフト?」


「繋いだぶん、負荷は大きかった。

 コペンは軽いけど、その分、全部がダイレクト」


 りんは唇を噛む。


 勝った。

 でも、その代償が、ここにある。



 ガレージに戻ったのは、夜が少しだけ薄くなり始めたころだった。


 シャッターを閉める音が、やけに大きく響く。

 照明を点けると、パールホワイトの車体が、無言でそこに立っていた。


 汚れも、傷も、ほとんどない。

 見た目だけなら、何も問題はない。


 でも――

 りんは、わかっている。


「……痛めちゃった」


 声にすると、急に胸が苦しくなる。


 渚は何も言わず、工具箱を開けた。

 カチャリ、という金属音が、静かな空間に落ちる。


「直せる?」


 りんの問いは、少しだけ震えていた。


「直す。

 時間はかかるけど、間に合わせる」


「次の……」


「うん。

 次の相手までに」


 渚は、はっきり言った。



 それからの数日は、速さとは無縁の時間だった。


 走らない。

 踏まない。

 ただ、ばらして、確かめて、戻す。


 りんは、工具を持つ手があまり器用じゃない。

 でも、部品ひとつひとつに触れるのは、嫌いじゃなかった。


「ここ、熱溜まりやすいね」


「だから、逃がす。

 無理に強くしない。

 りんの走りに合わせる」


 渚の言葉は、チューニングというより、会話に近い。


 速くするんじゃない。

 壊れにくくする。


 りんが踊っても、ついてこれるように。



 三日目の夜。


 エンジンをかけると、音が変わっていた。

 少しだけ、落ち着いている。


「……違う」


 りんが言う。


「うん。

 無理を飲み込む音になった」


「それ、褒めてる?」


「かなり」


 りんは、やっと笑った。



 ガレージのシャッターを上げると、夜風が入り込む。


 外には、別の車の気配がある。

 低く、重いエンジン音。


 赤いボディ。

 流れるようなシルエット。


「……来た」


 りんが呟く。


 マツダ RX-7。

 FD3S。


 そして、ドアの向こうで腕を組んでいるのは――

 かずまさこうき。


 遼とは違う。

 正確さより、迫力。

 理論より、経験。


 渚が、小さく息を吸う。


「次は……軽さじゃ済まないね」


 りんは、ステアリングに手を置いた。


「大丈夫。

 この子、もう一段階、踊れる」


 コペンは、静かに応えるみたいに、エンジンを鳴らした。


◇ ◇ ◇


 FDのエンジン音は、低くて、深い。


 回転が上がるたび、空気そのものが震えるみたいに鳴る。

 GR86とも違う。

 軽快さより、圧。

 押し出されるような存在感。


 かずまさこうきは、車にもたれて腕を組んでいた。

 表情は読めない。

 でも、目だけが――峠を見ている。


「準備、できた?」


 短い一言。

 挨拶みたいで、宣戦布告みたいで。


 りんは、頷いた。


「できてる」


 それだけ。


 渚は、助手席でシートベルトを引いた。

 カチリ、と音がして、世界が少し締まる。


「相手は、回してくる。

 立ち上がりより、維持」


「うん。

 無理に抜かない」


「抜くなら、流れの中」


 りんはキーを回す。

 コペンのエンジンが、静かに目を覚ました。

 前より、落ち着いた音。



 スタートの合図は、やっぱりない。


 FDが、先に動く。

 ロータリー特有の軽い吹け上がり。

 でも、速度は重い。


「……速い」


 りんが、息を吐く。


「速い。でも、線が太い」


 渚の声は、冷静だ。


 最初のコーナー。

 FDは、大きく流す。

 深い角度。

 タイヤスモークが、夜に広がる。


「……派手」


「派手なのは、見せるため。

 あれは、威圧」


 りんは、距離を保つ。

 近づきすぎない。

 でも、離れない。


 コペンは、浅く流す。

 角度は最小限。

 リアが逃げて、すぐ戻る。


 FDの後ろで、白い影が揺れる。



 中盤。

 連続コーナーに入る。


 FDの走りは、強引だった。

 トルクで押し、回転で引っ張る。

 ラインは太く、隙が少ない。


「……切り返し、遅れない?」


 りんが言う。


「遅れない。

 でも、“重い”」


 渚は、そう言った。


 次の切り返し。

 FDが、大きく振る。

 角度は深い。

 でも、そのぶん、戻しに時間がかかる。


 その一瞬。


 コペンが、内側へ滑り込む。


「……今」


 渚の声。


 りんは、アクセルを一定に。

 カウンターを当てたまま、次へ。


 深くは流さない。

 でも、切らない。


 連続角。


 軽い車体が、リズムを刻む。

 FDの外側を、白い影がなぞる。



 かずまさこうきは、ミラーを見た。


 白いコペン。

 小さい。

 でも、消えない。


 角度を深くすれば、内側に来る。

 抑えれば、リズムで詰められる。


「……面倒だな」


 小さく、笑った。



 終盤が近づく。


 峠の一番奥。

 出口が見えない、連続ヘアピン。


 FDが、ここで仕掛ける。

 深いドリフト。

 煙が視界を奪う。


「……見えない」


 りんが言う。


「音を聞いて。

 回転、落ちた」


 渚の声は、迷わない。


 りんは、音だけを頼りに入る。

 ブレーキ。

 荷重。

 ハンドル。


 コペンが、横を向く。


 煙の中。

 一瞬、世界が白くなる。


 でも――

 出口は、見えている。



「……今だよ」


 渚の声。


 りんは、角度を維持したまま、踏む。

 深くない。

 でも、切らない。


 FDの外側。

 煙の向こうに、赤いテール。


 白い鼻先が、並ぶ。


 並んで、

 流れのまま、前へ。


 抜く。


 派手さはない。

 音も小さい。


 でも、確実。


 FDのライトが、ミラーの中に落ちる。



 最後の直線。


 りんは、もう無理をしない。

 一定。

 まっすぐ。


 コペンのエンジンが、静かに歌う。


 看板。

 ゴール。


 減速。

 息を吐く。


 ――勝った。



 停車すると、FDが隣に来た。


 かずまさこうきが降りて、コペンを見る。

 じっと。

 長い。


「……小さいな」


 それだけ言って、笑った。


「でも、嫌いじゃない」


 りんは、肩をすくめる。


「軽いから」


「軽いのに、雑じゃない。

 そこが、いい」


 渚が、静かに言う。


「踊らせる人が、いるから」


 かずまさこうきは、頷いた。


「次は……

 また別の夜で」


 FDのエンジンが、再び唸る。


 赤い光が、闇に溶けていった。



 りんは、ステアリングに手を置く。


 鼓動は、落ち着いている。

 でも、胸の奥は――まだ熱い。


「……楽しかった」


「うん。

 でも、そろそろ休ませよう」


 渚の言葉に、りんは頷く。


 コペンは、今日も走りきった。


 軽くて、正直で、

 踊ることを、やめない車。


 夜は、まだ続く。

 でも――

 この峠の物語は、いったんここで、息をつく。



『夜を踊る軽』 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ