夜を踊る軽 2
中盤を過ぎるころ、峠の空気が変わった。
街の灯りはもう見えない。
ヘッドライトが照らす範囲だけが世界で、外側はすべて闇だ。
遼のGR86は、相変わらず前を走っている。
ラインは正確。
速度も安定している。
でも――
りんの視界には、はっきりと“差”が見え始めていた。
「……切り返し、ちょっと重い」
りんが呟くと、渚はすぐに頷く。
「うん。
慣性が大きいぶん、角度を作ると戻しに時間がかかる」
連続するS字。
右、左、右。
GR86は大きな弧で流れ、力で姿勢を整える。
そのたびに、ほんの一拍。
ほんの一瞬。
りんのコペンは、その隙間を縫うように走る。
りんは、あえて角度を深くしない。
流すのは一瞬だけ。
軽い車体が、きゅっと向きを変える。
切り返しが速い。
まるで、道に置いたリボンを、指でひらりと弾くみたいに。
「いい。
今のリズム、覚えて」
「覚えた。……身体が勝手に」
考えない。
考えると遅れる。
渚の声と、コペンの挙動だけが、りんの世界を作っている。
◇
遼も、気づいていた。
ミラーに映る白いコペン。
最初より、確実に近い。
直線では引き離せる。
でも、コーナーで――
とくに切り返しで、距離が縮む。
GR86は速い。
でも、峠は“速さ”だけじゃ足りない。
次のコーナーで、遼は少し踏んだ。
進入速度を上げる。
無理を承知で、角度を抑えたまま突っ込む。
「……来るね」
渚が、静かに言う。
「うん。
終盤を意識してる」
「焦ってはいない。
でも、“決めに来る”走り」
りんは、唇をきゅっと結ぶ。
遼が勝負を早めた。
それはつまり――
後ろの存在を、無視できなくなったということ。
りんは、そこで初めて、
少しだけ角度を増やした。
ブレーキで荷重を前へ。
ハンドルを入れる。
リアが抜ける。
コペンが、くるりと横を向く。
でも、戻す。
すぐに戻す。
「……それでいい」
渚の声が、確信を帯びる。
「“できる”って、見せただけ」
◇
終盤が、近づいてきた。
この峠で、いちばんリズムが問われる区間。
連続するタイトコーナー。
一度角度を作ると、
そのまま流れに乗れるかどうかで、勝敗が決まる。
遼のGR86が、少しずつ速度を上げる。
先に仕掛けるつもりだ。
「……渚」
「うん」
「ここから?」
「まだ。
“最後の最後”」
りんは、深く息を吸う。
胸の奥が、静かに熱い。
コペンのステアリングが、手の中で生きている。
軽い。
正直で、嘘をつかない。
だから――
嘘をつくのは、りんの役目だ。
わざと距離を保つ。
わざと仕掛けない。
遼に、
「まだ追ってこない」
そう思わせる。
◇
最後の連続コーナーが、見えてきた。
遼は、ここで勝負を決めるつもりだ。
進入速度が、明らかに高い。
浅く流す。
速度を殺さない。
力で押す走り。
「……今だよ、りん」
渚の声が、低く、短く響く。
「角度、作って。
戻さない」
りんは、ブレーキを踏み込んだ。
今までで、いちばん深く。
荷重が前に移る。
――その瞬間、
世界が、いちど無音になる。
タイヤの鳴きも、風も、遠くなる。
りんの指先だけが、路面を感じている。
ハンドルを切る。
リアが、大きく流れる。
コペンが、はっきりと横を向いた。
カウンターを当てる。
アクセルを、一定に。
戻さない。
角度を、殺さない。
そのまま、次のコーナーへ。
――ドリフトを、繋ぐ。
軽い車体が、流れたまま切り返す。
タイヤが悲鳴を上げる。
白い車体が、夜に弧を描く。
GR86のラインの内側に、
コペンが滑り込んだ。
「……抜ける」
渚の声が、確信に変わる。
りんは、視線を前へ。
遼の車体が、すぐ横にある。
ドリフトの角度のまま、
コペンの鼻先が、前に出る。
並ぶ。
そして――
抜く。
直線じゃない。
パワーでもない。
ドリフトの“継続”で、前に出た。
86のヘッドライトが、
ミラーの中へ下がっていく。
◇
最後の直線。
りんは、もう無理をしない。
ステアリングを真っ直ぐに戻し、アクセルを一定に保つ。
「そのまま。
余計なことしない」
「うん」
看板が見えた。
ゴールだ。
エンジン音が、少しだけ落ち着く。
そのとき、
メーターの奥で、針がほんの少しだけ震えた。
でも、今は気にしない。
胸の奥で、なにかがほどける。
――勝った。
減速して、退避スペースへ。
ブレーキを踏む足が、少し震えている。
エンジンを落とすと、夜が戻ってきた。
タイヤが冷える音と、風の音だけが残る。
後ろから、GR86が入ってくる。
遼は車を停め、ドアを閉めてから、ゆっくり歩いてきた。
近づくにつれて、視線がぶつかる。
逃げない目だった。
「……終盤のドリフト」
遼は一度、言葉を切る。
「やりやがったな」
悔しさと、納得が混じった声。
感情を押し殺してもいないし、飾ってもいない。
りんは、肩をすくめる。
「反則じゃないよ。
コペンが、踊りたがっただけ」
遼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「言うと思った」
一拍。
「正直、最初は様子見だった。
どこまで保つか、それだけを見るつもりだった」
はっきり言う。
言い訳もしない。
「途中からは……
どうやって抜いてくるかを考えてた」
その言葉で、
立場が変わったことは、十分すぎるほど伝わる。
渚が、小さく息を吐いた。
「最後まで、崩れなかった」
遼は頷く。
「軽さを逃げに使わなかった。
角度を繋いで、
ちゃんと“勝ちに来てた”」
GR86のほうへ視線を向けてから、
もう一度、りんを見る。
「……次も、気をつけろ」
「なにを?」
「見られる。
今の走りは、そういうやつを引っ張る」
その言葉に、
りんは少しだけ笑った。
「もう、見られてるよ」
遼も、気づいている。
だから、その先は言わなかった。
そのとき。
少し離れた場所で、
エンジン音が、ひとつだけ残っていることに気づく。
赤いボディ。
低く構えたシルエット。
マツダ RX-7。
FD3S。
かずまさこうきは、
腕を組んだまま、こちらを見ていた。
笑ってはいない。
でも、もう嘲笑はない。
「……やられたな」
遼に向けて、低く言う。
「だな」
遼は、それだけ返した。
こうきの視線が、
ゆっくりとコペンに移る。
軽。
二人乗り。
女ふたり。
さっきまで“理由”だったものが、
今は、ただの条件に変わっている。
「次は」
こうきが言う。
りんを見る。
「俺が相手する」
挑発じゃない。
宣言でもない。
約束だった。
りんは、すぐには答えない。
一度、渚を見る。
渚は、静かに頷いた。
「……次でいい?」
「次でいい」
こうきは、FDのキーを軽く鳴らす。
「今日は、もう十分見た」
赤いテールランプが、
闇の奥へ溶けていく。
遼はそれを見送ってから、りんに言った。
「……あれは、重いぞ」
「知ってる」
「回すし、押してくる」
「知ってる」
りんは、ステアリングに手を置いた。
「でも、
踊れない車じゃないでしょ」
遼は、ほんの少しだけ笑った。
「……ああ」
その笑いは、もう
“女ふたりの軽”に向けられたものじゃなかった。
パールホワイトのコペンは、
静かにエンジンを冷ましながら、
誇らしそうに、そこにいた。
◇ ◇ ◇




