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夜を踊る軽 2

 中盤を過ぎるころ、峠の空気が変わった。


 街の灯りはもう見えない。

 ヘッドライトが照らす範囲だけが世界で、外側はすべて闇だ。


 遼のGR86は、相変わらず前を走っている。

 ラインは正確。

 速度も安定している。


 でも――

 りんの視界には、はっきりと“差”が見え始めていた。


「……切り返し、ちょっと重い」


 りんが呟くと、渚はすぐに頷く。


「うん。

 慣性が大きいぶん、角度を作ると戻しに時間がかかる」


 連続するS字。

 右、左、右。


 GR86は大きな弧で流れ、力で姿勢を整える。

 そのたびに、ほんの一拍。

 ほんの一瞬。


 りんのコペンは、その隙間を縫うように走る。


 りんは、あえて角度を深くしない。

 流すのは一瞬だけ。


 軽い車体が、きゅっと向きを変える。

 切り返しが速い。


 まるで、道に置いたリボンを、指でひらりと弾くみたいに。


「いい。

 今のリズム、覚えて」


「覚えた。……身体が勝手に」


 考えない。

 考えると遅れる。


 渚の声と、コペンの挙動だけが、りんの世界を作っている。



 遼も、気づいていた。


 ミラーに映る白いコペン。

 最初より、確実に近い。


 直線では引き離せる。

 でも、コーナーで――

 とくに切り返しで、距離が縮む。


 GR86は速い。

 でも、峠は“速さ”だけじゃ足りない。


 次のコーナーで、遼は少し踏んだ。

 進入速度を上げる。

 無理を承知で、角度を抑えたまま突っ込む。


「……来るね」


 渚が、静かに言う。


「うん。

 終盤を意識してる」


「焦ってはいない。

 でも、“決めに来る”走り」


 りんは、唇をきゅっと結ぶ。


 遼が勝負を早めた。

 それはつまり――

 後ろの存在を、無視できなくなったということ。


 りんは、そこで初めて、

 少しだけ角度を増やした。


 ブレーキで荷重を前へ。

 ハンドルを入れる。

 リアが抜ける。


 コペンが、くるりと横を向く。


 でも、戻す。

 すぐに戻す。


「……それでいい」


 渚の声が、確信を帯びる。


「“できる”って、見せただけ」



 終盤が、近づいてきた。


 この峠で、いちばんリズムが問われる区間。

 連続するタイトコーナー。


 一度角度を作ると、

 そのまま流れに乗れるかどうかで、勝敗が決まる。


 遼のGR86が、少しずつ速度を上げる。

 先に仕掛けるつもりだ。


「……渚」


「うん」


「ここから?」


「まだ。

 “最後の最後”」


 りんは、深く息を吸う。

 胸の奥が、静かに熱い。


 コペンのステアリングが、手の中で生きている。

 軽い。

 正直で、嘘をつかない。


 だから――

 嘘をつくのは、りんの役目だ。


 わざと距離を保つ。

 わざと仕掛けない。


 遼に、

 「まだ追ってこない」

 そう思わせる。



 最後の連続コーナーが、見えてきた。


 遼は、ここで勝負を決めるつもりだ。

 進入速度が、明らかに高い。


 浅く流す。

 速度を殺さない。

 力で押す走り。


「……今だよ、りん」


 渚の声が、低く、短く響く。


「角度、作って。

 戻さない」


 りんは、ブレーキを踏み込んだ。

 今までで、いちばん深く。


 荷重が前に移る。


 ――その瞬間、

 世界が、いちど無音になる。


 タイヤの鳴きも、風も、遠くなる。

 りんの指先だけが、路面を感じている。


 ハンドルを切る。


 リアが、大きく流れる。


 コペンが、はっきりと横を向いた。


 カウンターを当てる。

 アクセルを、一定に。


 戻さない。

 角度を、殺さない。


 そのまま、次のコーナーへ。


 ――ドリフトを、繋ぐ。


 軽い車体が、流れたまま切り返す。

 タイヤが悲鳴を上げる。

 白い車体が、夜に弧を描く。


 GR86のラインの内側に、

 コペンが滑り込んだ。


「……抜ける」


 渚の声が、確信に変わる。


 りんは、視線を前へ。

 遼の車体が、すぐ横にある。


 ドリフトの角度のまま、

 コペンの鼻先が、前に出る。


 並ぶ。

 そして――

 抜く。


 直線じゃない。

 パワーでもない。


 ドリフトの“継続”で、前に出た。


 86のヘッドライトが、

 ミラーの中へ下がっていく。



 最後の直線。


 りんは、もう無理をしない。

 ステアリングを真っ直ぐに戻し、アクセルを一定に保つ。


「そのまま。

 余計なことしない」


「うん」


 看板が見えた。

 ゴールだ。


 エンジン音が、少しだけ落ち着く。


 そのとき、

 メーターの奥で、針がほんの少しだけ震えた。


 でも、今は気にしない。


 胸の奥で、なにかがほどける。


 ――勝った。


減速して、退避スペースへ。

 ブレーキを踏む足が、少し震えている。


 エンジンを落とすと、夜が戻ってきた。

 タイヤが冷える音と、風の音だけが残る。


 後ろから、GR86が入ってくる。

 遼は車を停め、ドアを閉めてから、ゆっくり歩いてきた。


 近づくにつれて、視線がぶつかる。

 逃げない目だった。


「……終盤のドリフト」


 遼は一度、言葉を切る。


「やりやがったな」


 悔しさと、納得が混じった声。

 感情を押し殺してもいないし、飾ってもいない。


 りんは、肩をすくめる。


「反則じゃないよ。

 コペンが、踊りたがっただけ」


 遼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「言うと思った」


 一拍。


「正直、最初は様子見だった。

 どこまで保つか、それだけを見るつもりだった」


 はっきり言う。

 言い訳もしない。


「途中からは……

 どうやって抜いてくるかを考えてた」


 その言葉で、

 立場が変わったことは、十分すぎるほど伝わる。


 渚が、小さく息を吐いた。


「最後まで、崩れなかった」


 遼は頷く。


「軽さを逃げに使わなかった。

 角度を繋いで、

 ちゃんと“勝ちに来てた”」


 GR86のほうへ視線を向けてから、

 もう一度、りんを見る。


「……次も、気をつけろ」


「なにを?」


「見られる。

 今の走りは、そういうやつを引っ張る」


 その言葉に、

 りんは少しだけ笑った。


「もう、見られてるよ」


 遼も、気づいている。

 だから、その先は言わなかった。


 そのとき。


 少し離れた場所で、

 エンジン音が、ひとつだけ残っていることに気づく。


 赤いボディ。

 低く構えたシルエット。


 マツダ RX-7。

 FD3S。


 かずまさこうきは、

 腕を組んだまま、こちらを見ていた。


 笑ってはいない。

 でも、もう嘲笑はない。


「……やられたな」


 遼に向けて、低く言う。


「だな」


 遼は、それだけ返した。


 こうきの視線が、

 ゆっくりとコペンに移る。


 軽。

 二人乗り。

 女ふたり。


 さっきまで“理由”だったものが、

 今は、ただの条件に変わっている。


「次は」


 こうきが言う。


 りんを見る。


「俺が相手する」


 挑発じゃない。

 宣言でもない。


 約束だった。


 りんは、すぐには答えない。

 一度、渚を見る。


 渚は、静かに頷いた。


「……次でいい?」


「次でいい」


 こうきは、FDのキーを軽く鳴らす。


「今日は、もう十分見た」


 赤いテールランプが、

 闇の奥へ溶けていく。


 遼はそれを見送ってから、りんに言った。


「……あれは、重いぞ」


「知ってる」


「回すし、押してくる」


「知ってる」


 りんは、ステアリングに手を置いた。


「でも、

 踊れない車じゃないでしょ」


 遼は、ほんの少しだけ笑った。


「……ああ」


 その笑いは、もう

 “女ふたりの軽”に向けられたものじゃなかった。


 パールホワイトのコペンは、

 静かにエンジンを冷ましながら、

 誇らしそうに、そこにいた。


◇ ◇ ◇

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