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夜を踊る軽 1

 最初は、違和感だった。


 峠ですれ違ったとき。

 休憩スペースに車を停めた、その一瞬。


 視線が、必ず段階を踏む。


 まず、車を見る。

 白いコペン。軽。オープン。


 次に、運転席を見る。

 女。


 そこで終わらない。


 助手席を見る。

 ――もう一人、女。


 その瞬間、

 空気が、はっきりと変わる。



 夜の峠では、噂が形を変えて広がる。


「白いコペンらしい」


「軽?」


「オープンだって」


 ここまでは、まだ中立だ。


 でも、必ず続く。


「……女ふたり組らしいぞ」


 その一言で、

 話題は速さから外れる。


「二人組?」


「助手席も女?」


「二人乗りかよ」


 笑いが混じる。


「峠で?」


「軽で?」


「観光じゃね?」


 誰も直接、否定はしない。

 でも、

 本気で走る存在として扱われなくなる。



 久遠遼がその噂を聞いたのは、

 ガレージでGR86のボンネットを閉めた直後だった。


「最近、白いコペンが出てるらしいですよ」


「コペン?」


「はい。

 で、運転してるのが女で……」


 遼は、手を止めた。


「……一人?」


「いえ。

 助手席も女らしいです」


 一拍の沈黙。


 峠は、性別で走る場所じゃない。

 理屈では、そうだ。


 でも、噂の温度が低いのは、はっきり伝わってくる。


「二人乗りで?」


「はい」


「……ふうん」


 遼は、それ以上聞かなかった。


 軽。

 女ふたり。

 二人乗り。


 その組み合わせが、

 “強さ”として語られていないことだけは、理解した。


 だから――

 確かめる必要があった。


 速さじゃない。

 覚悟がある走りかどうかを。



 一方、かずまさこうきは、

 その時点では動かなかった。


 赤いFDのそばで、話を聞くだけ。


「白いコペン?」


「はい。

 女二人らしいです」


 こうきは、鼻で笑った。


「……二人乗りかよ」


 冗談みたいな言い方。

 でも、そこに迷いはない。


「軽で、女二人で、オープン?

 それ、遊びだろ」


 強い否定じゃない。

 最初から、土俵に乗せていないだけ。


「遼が行くらしいです」


「遼が?」


 こうきは、少しだけ興味を示す。


「見るだけだろ。

 本気でやるとは思ってない」


 そう言いながらも、

 FDのキーを指先で弄んだ。


 ――遼がどうなるか。

 それを見てからでいい。



 りんは、その空気を、ずっと前から知っていた。


 直接、何かを言われなくても。

 笑われなくても。


 視線が、

 人を数える目になる。


 一人か。

 二人か。

 男か。

 女か。


「……やっぱりさ」


 夜の帰り道、りんは言った。


「車より先に、人を見られてる」


 助手席の茅ヶ崎渚は、少し間を置いてから答えた。


「うん。

 しかも、二人とも女ってところで」


「減点、重ねがけ?」


「最初から合格ラインに立たせてもらえてない」


 りんは、小さく笑った。


「厳しいね」


「でも、使える」


「なにを?」


「油断。

 それと、値踏み」



 そして、その夜。


 峠の入り口に、

 一台の車が止まっていた。


 GR86。

 無駄のないシルエット。


 りんがコペンを止めると、

 視線が集まる。


 車。

 りん。

 渚。


 久遠遼が、二人を見比べて言う。


「……二人?」


 確認だけの一言。


 りんは頷く。


「そう」


 それ以上、説明しない。


 遼は一度だけ、コペン全体を見る。


「俺が先に行く」


 それは挑戦でも宣告でもない。

 様子見だった。


 遠くで、赤いFDが止まったまま、

 こちらを見ている。


 まだ、出てこない。


 白いコペンと、GR86が並ぶ。


 誰もが思っている。


 ――どこまで保つか。


 その前提を、

 りんも渚も、よく知っている。


 だから――

 追う役を、選んだ。



 峠の夜は、音が少ない。


 遠くの街の灯りが、谷の向こうで滲んでいる。

 ガードレールに触れる風の音と、木々が揺れるかすかなざわめき。

 そして、その全部を押し分けるように――エンジン音が二つ、重なった。


 前にいるのは、トヨタ GR86。

 現行型。ZN8。


 低く、太い排気音。

 無駄のない加速で、闇を切り裂くように走っている。


 その後ろを追うのが、パールホワイトのコペン。

 DBA-LA400K。

 軽くて、小さくて、峠では少し舐められがちな車。


 でも――

 りんは、そのハンドルを握っている。


 ステアリングに添えた指先から、路面のざらつきが伝わってくる。

 タイヤが転がる感触。

 サスペンションが縮んで、戻るリズム。


「……行っちゃったね」


 りんが、少し笑いながら言う。


 助手席の茅ヶ崎渚は、前を見たまま答えた。


「最初は、ああいう走りになる。

 GR86は、先行してペースを作るのが得意」


「だよね。直線、普通に速い」


「うん。追う側が焦ると、向こうの思うつぼ」


 りんはアクセルを一定に保ったまま、86との距離を測る。

 近づきすぎない。

 離れすぎない。


 赤いテールランプが、視界の真ん中にある距離。



 最初のコーナー群。

 緩やかな右、すぐに左。

 ウォーミングアップみたいな区間。


 遼は、無理をしない。

 まだ流さない。

 グリップで、綺麗に抜けていく。


 86の挙動は安定していて、隙がない。

 踏めば踏んだだけ、ちゃんと前に出る。


「……正確すぎる」


 りんが、ぽつりと言う。


「それが武器。

 でも、峠では――ずっと正解を続けるのは、意外と疲れる」


 渚の声は、淡々としている。


「りんは、まだ何もしなくていい。

 追う形を保って。

 相手に“見せる”だけ」


「見せる?」


「後ろにいるって、意識させる」


 りんは、ほんの少しだけアクセルを踏み足す。

 距離が、わずかに縮む。


 86のテールランプが、ほんの気持ち大きく見えた。



 次のコーナー。

 ややきつめの右。


 遼は、ここで軽く流す。

 リアがふっと逃げて、すぐ戻る。

 角度は小さい。速度を殺さない走り。


 タイヤが短く鳴いて、すぐに収まる。


「……うまい」


 りんが、素直に言う。


「うまい。

 でも、角度が一定すぎる」


「それって……」


「同じリズムで走ってる。

 追う側からすると、読みやすい」


 りんは、ハンドルを切りながら、ほんの一瞬だけリアを緩めた。

 すぐ戻す。

 深くは流さない。


 コペンの軽い車体が、ふわっと横を向いて、すぐ前を向く。


 その動きに、無駄はない。

 ただ、“揺れ”がある。


 遼の86のラインが、ほんのわずかに変わった。


「……気づいたね」


「気づく。

 後ろに“違う走り”がいるって」



 中盤に入る。


 道幅が少し狭くなり、連続コーナーが増える区間。

 直線は短く、切り返しが続く。


 ここでも、遼は前を譲らない。

 GR86の安定感で、一定のペースを刻む。


 でも――

 切り返しのたびに、ほんの一拍。

 ほんの一瞬だけ、間が生まれる。


 りんは、その“一瞬”を、ちゃんと見る。


「渚」


「うん」


「終盤、どこ?」


「最後の連続。

 あそこは、角度を継続できるほうが強い」


 りんは、胸の奥で息を整える。

 まだ、仕掛けない。

 まだ、追う。


 りんのコペンは、

 軽い車体を抑え込むみたいに、静かに走っている。


 ――今は、まだ。


 この夜は、

 遼に先を行かせたまま、続いていく。


◇ ◇ ◇

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