夜を踊る軽 1
最初は、違和感だった。
峠ですれ違ったとき。
休憩スペースに車を停めた、その一瞬。
視線が、必ず段階を踏む。
まず、車を見る。
白いコペン。軽。オープン。
次に、運転席を見る。
女。
そこで終わらない。
助手席を見る。
――もう一人、女。
その瞬間、
空気が、はっきりと変わる。
◇
夜の峠では、噂が形を変えて広がる。
「白いコペンらしい」
「軽?」
「オープンだって」
ここまでは、まだ中立だ。
でも、必ず続く。
「……女ふたり組らしいぞ」
その一言で、
話題は速さから外れる。
「二人組?」
「助手席も女?」
「二人乗りかよ」
笑いが混じる。
「峠で?」
「軽で?」
「観光じゃね?」
誰も直接、否定はしない。
でも、
本気で走る存在として扱われなくなる。
◇
久遠遼がその噂を聞いたのは、
ガレージでGR86のボンネットを閉めた直後だった。
「最近、白いコペンが出てるらしいですよ」
「コペン?」
「はい。
で、運転してるのが女で……」
遼は、手を止めた。
「……一人?」
「いえ。
助手席も女らしいです」
一拍の沈黙。
峠は、性別で走る場所じゃない。
理屈では、そうだ。
でも、噂の温度が低いのは、はっきり伝わってくる。
「二人乗りで?」
「はい」
「……ふうん」
遼は、それ以上聞かなかった。
軽。
女ふたり。
二人乗り。
その組み合わせが、
“強さ”として語られていないことだけは、理解した。
だから――
確かめる必要があった。
速さじゃない。
覚悟がある走りかどうかを。
◇
一方、かずまさこうきは、
その時点では動かなかった。
赤いFDのそばで、話を聞くだけ。
「白いコペン?」
「はい。
女二人らしいです」
こうきは、鼻で笑った。
「……二人乗りかよ」
冗談みたいな言い方。
でも、そこに迷いはない。
「軽で、女二人で、オープン?
それ、遊びだろ」
強い否定じゃない。
最初から、土俵に乗せていないだけ。
「遼が行くらしいです」
「遼が?」
こうきは、少しだけ興味を示す。
「見るだけだろ。
本気でやるとは思ってない」
そう言いながらも、
FDのキーを指先で弄んだ。
――遼がどうなるか。
それを見てからでいい。
◇
りんは、その空気を、ずっと前から知っていた。
直接、何かを言われなくても。
笑われなくても。
視線が、
人を数える目になる。
一人か。
二人か。
男か。
女か。
「……やっぱりさ」
夜の帰り道、りんは言った。
「車より先に、人を見られてる」
助手席の茅ヶ崎渚は、少し間を置いてから答えた。
「うん。
しかも、二人とも女ってところで」
「減点、重ねがけ?」
「最初から合格ラインに立たせてもらえてない」
りんは、小さく笑った。
「厳しいね」
「でも、使える」
「なにを?」
「油断。
それと、値踏み」
◇
そして、その夜。
峠の入り口に、
一台の車が止まっていた。
GR86。
無駄のないシルエット。
りんがコペンを止めると、
視線が集まる。
車。
りん。
渚。
久遠遼が、二人を見比べて言う。
「……二人?」
確認だけの一言。
りんは頷く。
「そう」
それ以上、説明しない。
遼は一度だけ、コペン全体を見る。
「俺が先に行く」
それは挑戦でも宣告でもない。
様子見だった。
遠くで、赤いFDが止まったまま、
こちらを見ている。
まだ、出てこない。
白いコペンと、GR86が並ぶ。
誰もが思っている。
――どこまで保つか。
その前提を、
りんも渚も、よく知っている。
だから――
追う役を、選んだ。
◇
峠の夜は、音が少ない。
遠くの街の灯りが、谷の向こうで滲んでいる。
ガードレールに触れる風の音と、木々が揺れるかすかなざわめき。
そして、その全部を押し分けるように――エンジン音が二つ、重なった。
前にいるのは、トヨタ GR86。
現行型。ZN8。
低く、太い排気音。
無駄のない加速で、闇を切り裂くように走っている。
その後ろを追うのが、パールホワイトのコペン。
DBA-LA400K。
軽くて、小さくて、峠では少し舐められがちな車。
でも――
りんは、そのハンドルを握っている。
ステアリングに添えた指先から、路面のざらつきが伝わってくる。
タイヤが転がる感触。
サスペンションが縮んで、戻るリズム。
「……行っちゃったね」
りんが、少し笑いながら言う。
助手席の茅ヶ崎渚は、前を見たまま答えた。
「最初は、ああいう走りになる。
GR86は、先行してペースを作るのが得意」
「だよね。直線、普通に速い」
「うん。追う側が焦ると、向こうの思うつぼ」
りんはアクセルを一定に保ったまま、86との距離を測る。
近づきすぎない。
離れすぎない。
赤いテールランプが、視界の真ん中にある距離。
◇
最初のコーナー群。
緩やかな右、すぐに左。
ウォーミングアップみたいな区間。
遼は、無理をしない。
まだ流さない。
グリップで、綺麗に抜けていく。
86の挙動は安定していて、隙がない。
踏めば踏んだだけ、ちゃんと前に出る。
「……正確すぎる」
りんが、ぽつりと言う。
「それが武器。
でも、峠では――ずっと正解を続けるのは、意外と疲れる」
渚の声は、淡々としている。
「りんは、まだ何もしなくていい。
追う形を保って。
相手に“見せる”だけ」
「見せる?」
「後ろにいるって、意識させる」
りんは、ほんの少しだけアクセルを踏み足す。
距離が、わずかに縮む。
86のテールランプが、ほんの気持ち大きく見えた。
◇
次のコーナー。
ややきつめの右。
遼は、ここで軽く流す。
リアがふっと逃げて、すぐ戻る。
角度は小さい。速度を殺さない走り。
タイヤが短く鳴いて、すぐに収まる。
「……うまい」
りんが、素直に言う。
「うまい。
でも、角度が一定すぎる」
「それって……」
「同じリズムで走ってる。
追う側からすると、読みやすい」
りんは、ハンドルを切りながら、ほんの一瞬だけリアを緩めた。
すぐ戻す。
深くは流さない。
コペンの軽い車体が、ふわっと横を向いて、すぐ前を向く。
その動きに、無駄はない。
ただ、“揺れ”がある。
遼の86のラインが、ほんのわずかに変わった。
「……気づいたね」
「気づく。
後ろに“違う走り”がいるって」
◇
中盤に入る。
道幅が少し狭くなり、連続コーナーが増える区間。
直線は短く、切り返しが続く。
ここでも、遼は前を譲らない。
GR86の安定感で、一定のペースを刻む。
でも――
切り返しのたびに、ほんの一拍。
ほんの一瞬だけ、間が生まれる。
りんは、その“一瞬”を、ちゃんと見る。
「渚」
「うん」
「終盤、どこ?」
「最後の連続。
あそこは、角度を継続できるほうが強い」
りんは、胸の奥で息を整える。
まだ、仕掛けない。
まだ、追う。
りんのコペンは、
軽い車体を抑え込むみたいに、静かに走っている。
――今は、まだ。
この夜は、
遼に先を行かせたまま、続いていく。
◇ ◇ ◇




