結び目は真ん中に 5 「橋の上で、わたしを選ぶ」(終)
朝の空は、薄く明るかった。
ネクタイの結び目を、いつもより少しだけ強くする。きつすぎない。ほどけすぎない。ちょうどいいところで、指を離す。
机の上で、通知が点いた。
《おはよう。今日、放課後、五分だけ“俺に”ちょうだい》
《できれば内緒で。渚ちゃんに言うと、またややこしいから》
《りん、俺のこと“一番”でいて》
心の中で、白い石がころんと転がる音がした。
通知を、静かにオフにする。
息を吸って、吐く。
◇
昇降口の光は冷たく、床の水滴が細かくきらめいていた。
「今日の“ざわざわ”、いくつ?」
渚が覗き込む。
「二。……今、ひとつ減らした」
「よし。私は“笑ってる”四」
遼はメジャーをしまい、結び目を見て小さく頷いた。
「左右、同じ。強さ、良い」
わたしはうなずいた。胸の奥に、細い柱が一本立つ感覚。
◇ ◇ ◇
昼休み。教室の隅に、浅野航生が来た。笑顔は整っている。声はやわらかい。
「りん、放課後さ、先生が呼んでる。生活委員の書類、ちょっと“内密”で」
「先生から直接、わたしに?」
「そう。俺に言いにくいってさ。だから、りんと二人で」
渚が穏やかな声で挟む。
「先生、今、廊下にいますよ。聞いてきます」
浅野の笑顔が、一秒だけ止まる。
「渚ちゃん、空気」
「吸って吐いてる」
渚は真っ直ぐ返して、廊下へ出た。すぐ戻る。首を横に振る。
「先生、『呼んでないよ』って」
空気が、薄くなる。遼が静かに言う。
「事実、確認」
わたしは浅野を見る。
「今のは、嘘?」
彼は肩をすくめた。
「嘘ってほどでも。……試しただけ。りんが俺を“選べるか”」
白い石が、胸の奥で固く当たった。
「わたしは、“一緒に”って言った」
「同じだよ」
「違う」
声は震えなかった。浅野は笑い、指で机の角を整える仕草をする。
「りん、賢い。勉強になる」
その言い方は、刃の背みたいに冷たかった。
◇
放課後。図書室の端。先生に相談の用事を済ませ、三人で出てくると、廊下の曲がり角で浅野が待っていた。
「五分でいいから」
「ここで」
「ここじゃ、渚ちゃんと遼くんがいる」
「いるよ」
渚の声は静かだった。遼はわたしの一歩後ろで、足音を消すみたいに立つ。
浅野は、ポケットから白い封筒を出した。昨日と同じ。
「りんに持っててほしい。俺じゃ、落とすから」
「落とさない。あなたのは、あなたの」
「俺を信じるって言ったよね」
「わたしは“わたし”を信じる。……それから、渚と遼を」
浅野の目の奥が、ゆっくり暗くなった。笑顔は顔の表面だけに残る。
「渚ちゃんも遼くんも、りんを甘やかす。りんは“俺の彼女”になるのに」
「なりません」
言って、驚くほど胸が軽くなった。浅野の手が、わたしの手首へ伸びる。掴まれたところが、少しだけ熱い。
「離して」
渚が半歩前に出て、浅野の手首を指で払った。動きは柔らかいのに、的確だった。
「痛くしないで。――りんは、りんのもの」
遼が、低く短く言う。
「距離」
浅野は笑って手を引いた。肩をすくめ、ため息をつくふりをする。
「りん、みんなの言うこと聞いてると、俺、傷つくよ」
「傷つけるのは、あなたの“嘘”」
「嘘じゃない。……好かれたくて、やり方、間違えただけ」
「じゃあ、直して」
「直す。だから、今日だけは、俺を一番に――」
「わたしは、“一番”を決めない」
浅野は黙った。少しして、笑った。
「りん、むずかしいね。……勉強になる」
また、その言葉。今度は、刃の先みたいだった。
「じゃ、また明日」
去っていく背中は、まっすぐだった。歩幅は、昨日よりも大きい。
わたしは、結び目をそっと指で確かめた。きつすぎない。ほどけすぎない。
◇ ◇ ◇
帰り道。三人で橋へ向かう。欄干の金属は少し冷たく、川の音は、夏の記憶よりずっと穏やかだった。
渚がポケットから、小さな白い石を三つ出した。
「拾っておいた。今日の分」
「ありがとう」
「りんの“ざわざわ”、いくつ」
「……ゼロにしたい」
「じゃあ、ここで」
遼が欄干に寄り、静かに川面を見た。
「数えるかわりに、流す」
石をひとつ、手のひらに載せる。わたしは目を閉じて、吸って、吐く。
「こうき」
名前が、喉の奥から自然に出た。
「あなたに似たひとを、好きになりそうになった。……でも、違った」
渚がそっと、わたしの肩に顎をのせる。
「違うこと、ちゃんと見えたね」
「うん。見えた」
遼が低く言う。
「横顔、ではなく、正面」
わたしは白い石を、そっと落とした。水面に小さな輪が広がる。輪はすぐに流れの模様に混ざって、見えなくなった。
胸の奥で、ほどける音がした。
「……ありがとう」
「誰に?」
「わたしに。渚に。遼に。川に」
渚が笑う。遼もうなずく。
「それでいい」
◇
家の前で、通知をオンに戻す。すぐに画面に文字が灯った。
《明日、朝、昇降口。五分だけ》
《りんが“俺の味方”なら、それだけでいい》
《好きだよ》
言葉の形は、きれいだった。けれど、その中身はもう、見える。
《クラス連絡はグループで。個人的な話は、今日はしません》
短く返す。既読の丸がついて、しばらく動かない。やがて、文字が返ってくる。
《勉強になる》
画面を伏せる。ネクタイの結び目をほどく。ゆっくり梳かして、また結ぶ。きつすぎない。ほどけすぎない。
ちょうどいい場所を、わたしはもう知っている。
◇ ◇ ◇
翌朝。昇降口の風はやわらかく、桜の香りはもう薄い。
渚が手を振る。遼がメジャーを持っている。
「りん、今日の“笑ってる”は?」
「五」
「ざわざわは?」
「一。……朝の緊張分」
「なら、橋の方へ、また帰りに寄る」
「うん。寄ろう」
廊下の向こう、浅野がいた。こちらを見る。笑う前の目の形は、やっぱり少し似ている。けれど、わたしはもう、横顔だけを見ない。
正面の顔に、正面で向き合う。
「おはよう」
「おはよう」
短く交わし、通り過ぎる。肩が、重くならない。息が、自然に入ってくる。
結び目は、今日も真ん中にある。
⸻
夏の入り口、橋の上。白い石を拾わない日が増えた。
川はただ流れ、風は髪を撫でるだけ。わたしは欄干に手を置き、結び目を指で確かめる。
きつすぎない。ほどけすぎない。真ん中にある――それが、今日もわたしを選ぶ合図。
結び目は真ん中に (完)




