表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
44/47

結び目は真ん中に 5 「橋の上で、わたしを選ぶ」(終)

 朝の空は、薄く明るかった。


 ネクタイの結び目を、いつもより少しだけ強くする。きつすぎない。ほどけすぎない。ちょうどいいところで、指を離す。


 机の上で、通知が点いた。


 《おはよう。今日、放課後、五分だけ“俺に”ちょうだい》


 《できれば内緒で。渚ちゃんに言うと、またややこしいから》


 《りん、俺のこと“一番”でいて》


 心の中で、白い石がころんと転がる音がした。


 通知を、静かにオフにする。


 息を吸って、吐く。



 昇降口の光は冷たく、床の水滴が細かくきらめいていた。


 「今日の“ざわざわ”、いくつ?」


 渚が覗き込む。


 「二。……今、ひとつ減らした」


 「よし。私は“笑ってる”四」


 遼はメジャーをしまい、結び目を見て小さく頷いた。


 「左右、同じ。強さ、良い」


 わたしはうなずいた。胸の奥に、細い柱が一本立つ感覚。


◇ ◇ ◇


 昼休み。教室の隅に、浅野航生が来た。笑顔は整っている。声はやわらかい。


 「りん、放課後さ、先生が呼んでる。生活委員の書類、ちょっと“内密”で」


 「先生から直接、わたしに?」


 「そう。俺に言いにくいってさ。だから、りんと二人で」


 渚が穏やかな声で挟む。


 「先生、今、廊下にいますよ。聞いてきます」


 浅野の笑顔が、一秒だけ止まる。


 「渚ちゃん、空気」


 「吸って吐いてる」


 渚は真っ直ぐ返して、廊下へ出た。すぐ戻る。首を横に振る。


 「先生、『呼んでないよ』って」


 空気が、薄くなる。遼が静かに言う。


 「事実、確認」


 わたしは浅野を見る。


 「今のは、嘘?」


 彼は肩をすくめた。


 「嘘ってほどでも。……試しただけ。りんが俺を“選べるか”」


 白い石が、胸の奥で固く当たった。


 「わたしは、“一緒に”って言った」


 「同じだよ」


 「違う」


 声は震えなかった。浅野は笑い、指で机の角を整える仕草をする。


 「りん、賢い。勉強になる」


 その言い方は、刃の背みたいに冷たかった。



 放課後。図書室の端。先生に相談の用事を済ませ、三人で出てくると、廊下の曲がり角で浅野が待っていた。


 「五分でいいから」


 「ここで」


 「ここじゃ、渚ちゃんと遼くんがいる」


 「いるよ」


 渚の声は静かだった。遼はわたしの一歩後ろで、足音を消すみたいに立つ。


 浅野は、ポケットから白い封筒を出した。昨日と同じ。


 「りんに持っててほしい。俺じゃ、落とすから」


 「落とさない。あなたのは、あなたの」


 「俺を信じるって言ったよね」


 「わたしは“わたし”を信じる。……それから、渚と遼を」


 浅野の目の奥が、ゆっくり暗くなった。笑顔は顔の表面だけに残る。


 「渚ちゃんも遼くんも、りんを甘やかす。りんは“俺の彼女”になるのに」


 「なりません」


 言って、驚くほど胸が軽くなった。浅野の手が、わたしの手首へ伸びる。掴まれたところが、少しだけ熱い。


 「離して」


 渚が半歩前に出て、浅野の手首を指で払った。動きは柔らかいのに、的確だった。


 「痛くしないで。――りんは、りんのもの」


 遼が、低く短く言う。


 「距離」


 浅野は笑って手を引いた。肩をすくめ、ため息をつくふりをする。


 「りん、みんなの言うこと聞いてると、俺、傷つくよ」


 「傷つけるのは、あなたの“嘘”」


 「嘘じゃない。……好かれたくて、やり方、間違えただけ」


 「じゃあ、直して」


 「直す。だから、今日だけは、俺を一番に――」


 「わたしは、“一番”を決めない」


 浅野は黙った。少しして、笑った。


 「りん、むずかしいね。……勉強になる」


 また、その言葉。今度は、刃の先みたいだった。


 「じゃ、また明日」


 去っていく背中は、まっすぐだった。歩幅は、昨日よりも大きい。


 わたしは、結び目をそっと指で確かめた。きつすぎない。ほどけすぎない。


◇ ◇ ◇


 帰り道。三人で橋へ向かう。欄干の金属は少し冷たく、川の音は、夏の記憶よりずっと穏やかだった。


 渚がポケットから、小さな白い石を三つ出した。


 「拾っておいた。今日の分」


 「ありがとう」


 「りんの“ざわざわ”、いくつ」


 「……ゼロにしたい」


 「じゃあ、ここで」


 遼が欄干に寄り、静かに川面を見た。


 「数えるかわりに、流す」


 石をひとつ、手のひらに載せる。わたしは目を閉じて、吸って、吐く。


 「こうき」


 名前が、喉の奥から自然に出た。


 「あなたに似たひとを、好きになりそうになった。……でも、違った」


 渚がそっと、わたしの肩に顎をのせる。


 「違うこと、ちゃんと見えたね」


 「うん。見えた」


 遼が低く言う。


 「横顔、ではなく、正面」


 わたしは白い石を、そっと落とした。水面に小さな輪が広がる。輪はすぐに流れの模様に混ざって、見えなくなった。


 胸の奥で、ほどける音がした。


 「……ありがとう」


 「誰に?」


 「わたしに。渚に。遼に。川に」


 渚が笑う。遼もうなずく。


 「それでいい」



 家の前で、通知をオンに戻す。すぐに画面に文字が灯った。


 《明日、朝、昇降口。五分だけ》


 《りんが“俺の味方”なら、それだけでいい》


 《好きだよ》


 言葉の形は、きれいだった。けれど、その中身はもう、見える。


 《クラス連絡はグループで。個人的な話は、今日はしません》


 短く返す。既読の丸がついて、しばらく動かない。やがて、文字が返ってくる。


 《勉強になる》


 画面を伏せる。ネクタイの結び目をほどく。ゆっくり梳かして、また結ぶ。きつすぎない。ほどけすぎない。


 ちょうどいい場所を、わたしはもう知っている。


◇ ◇ ◇


 翌朝。昇降口の風はやわらかく、桜の香りはもう薄い。


 渚が手を振る。遼がメジャーを持っている。


 「りん、今日の“笑ってる”は?」


 「五」


 「ざわざわは?」


 「一。……朝の緊張分」


 「なら、橋の方へ、また帰りに寄る」


 「うん。寄ろう」


 廊下の向こう、浅野がいた。こちらを見る。笑う前の目の形は、やっぱり少し似ている。けれど、わたしはもう、横顔だけを見ない。


 正面の顔に、正面で向き合う。


 「おはよう」


 「おはよう」


 短く交わし、通り過ぎる。肩が、重くならない。息が、自然に入ってくる。


 結び目は、今日も真ん中にある。



 夏の入り口、橋の上。白い石を拾わない日が増えた。


 川はただ流れ、風は髪を撫でるだけ。わたしは欄干に手を置き、結び目を指で確かめる。


 きつすぎない。ほどけすぎない。真ん中にある――それが、今日もわたしを選ぶ合図。


結び目は真ん中に (完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ