結び目は真ん中に 4 「借りた信頼、細い棘」
朝一番の通知は、まだ目が覚めきらない指先に触れた。
《おはよう。今日の委員のプリント、りんの家で先に仕分けしない? 俺、早退するかも》
《できれば“内緒”で。渚ちゃんに言うと、ごちゃごちゃするから》
胸の奥で、小さく音がした。白い石が、机の上で転がるみたいな。
《今日は家、無理。学校でやろう》
数秒で返事が来た。
《了解。りんがそう言うなら》
最後に、小さく「好き」の絵文字。指は、返事を押さなかった。
◇
朝の昇降口。傘立てに昨夜の雨が残っていて、透明な滴が落ちていく。
「りん、今日は“ざわざわ”いくつ?」
渚が少し首をかしげて聞いた。
「……二。昨日よりは減った」
「よし。じゃあ私は“笑ってる”三」
遼がメジャーをしまいながら、低く言う。
「結び目、左右、同じ」
「ありがとう」
浅野航生が、そのやり取りを斜めから眺めていた。目は笑っている。口元も。
「おはよう。りん、ネクタイ、今日、完璧」
「ありがとう」
「放課後、十分だけ時間ちょうだい。先生に出す報告書、二人で見直したい」
「教室でいい?」
「できれば、静かなとこ」
「なら、図書室の端」
彼はほんの一拍だけ間を置いて、笑ってうなずいた。
「りんが決めるなら、そこがいい」
◇ ◇ ◇
四時間目の終わり、生活委員の連絡が来る。配布物は五クラス分。教卓の上で、束が重くなった。
「重いの、俺が持つ」
浅野が当然のように手を伸ばす。わたしが先に握る。
「半分ずつ」
「りん、頑固だね」
「“一緒にやる”って、昨日、約束した」
彼は肩をすくめる。やわらかい身振り。きれいな笑い方。
「じゃ、半分ずつ」
廊下で、渚が追いついた。
「私も持つ」
「三等分は非効率」と遼が言う。
「じゃあ私は扉、押さえるね」
渚が先回りし、扉を足で押さえた。浅野は一瞬だけ、視線を落とす。
「ありがと」
声は丁寧。でも、その一瞬が針みたいに細い。
◇
昼休み。教室の隅で、お弁当の蓋を開ける。卵焼きに箸を入れたところで、机の影が濃くなった。
「ここ、座っていい?」
浅野が椅子を持ってきた。渚と遼が、すこしだけ硬い顔をする。
「どうぞ」と言いかけて、わたしは言葉を飲む。
「ごめん。今日は三人で話す約束がある」
浅野は一瞬だけ笑みを固めて、すぐ柔らかく戻した。
「そっか。じゃあ、五分だけ。報告書のミス、ひとつ発見」
紙を置き、赤ペンで一行に線を引く。たしかに、抜けていた。助かった、と言葉が出る前に、彼は軽く肩をすくめた。
「りん、丁寧だから、たぶん疲れてる。俺、カバーする」
渚が静かに笑って、箸でウインナーを持ち上げる。
「ありがとう。りんの“疲れ”は、私たちも見る」
遼がうなずく。
「“カバー”は、分担で」
浅野は「了解」と言って、席を離れた。去り際に、口元だけで言葉を作る。
――あとでね。
胸の内側で、針の位置がずれる音がした。
◇ ◇ ◇
放課後。図書室の端。窓際の席は、紙の匂いが落ち着く。二人で報告書を見直す。誤字がひとつ。日付の表記が一箇所。
「ここ、りんの字、かわいい」
「……日付、直す」
「うん。直して」
彼は笑い、鞄の中から細い封筒を出した。
「これ、家の書類。先生のサインが必要。今日中に」
「今日?」
「今日。“りんにしか頼めない”」
白い封筒。個人情報の欄が透ける。喉が少し乾いた。
「家庭のことは、先生と直接のほうが」
「だよね。でも、うちの先生、俺のこと苦手だから。りん、話、通るでしょ」
やわらかい声に、細い棘。わたしは封筒を見つめる。指の腹に紙の感触。深く息を吸って、ゆっくり吐く。
「……わたしは、先生に“相談”ならできる。“頼まれた仕事”は受けない」
彼の笑みが、一秒だけ止まる。次の瞬間、明るい調子に戻った。
「了解。りんが正しい。じゃあ、“相談”で」
封筒は引っ込めず、机の上に置かれたまま。
「置いたままだと、間違えて持っていく人がいる」
「りん以外、ここ来ないよ」
「来る。渚と遼が来る」
「……そっか」
彼は封筒を鞄に戻した。肩の力が、少しだけ抜ける。
「ね、りん。俺、りんを一番に信じたい。だから、りんにもそうしてほしい」
「“一番”は、順番じゃない」
「違う?」
「うん。“一緒に”のほうが、強い」
彼の目の奥で、光がほんの少しだけ揺れた。
「――勉強になる」
舌の上で転がした言葉みたいだった。図書室の時計が、小さく鳴る。
◇
昇降口。靴を履き替えると、渚がすぐに横についた。
「今日の“ざわざわ”は?」
「……三」
「上がった」
「上がった。けど、“嬉しい”も三」
「なら、合計六。半分こ」
遼が傘を二本持って立っている。
「渡しておく。明日、雨」
「ありがとう」
「浅野くん、帰った」
「うん。……図書室で少し話した」
渚が、わたしの横顔を確認するみたいに覗き込む。
「りん、お願い。言いにくい時は、言いにくいって言って」
「言う」
「“頼み”は、一回持ち帰ってから答える。ね?」
「……うん。そうする」
胸の中で、結び目が一つ、結び直された気がした。
◇ ◇ ◇
翌日。朝の廊下。浅野が歩きながら、すれ違いざまに低く言った。
「昨日、ありがとう。りんの意見、賢い」
「意見は、三人で決めた」
「三人?」
「うん。渚と遼と、わたし」
彼の足が半歩だけ止まる。すぐに笑って、歩き出す。
「りんは“みんな”のりんじゃないよ」
「わたしは“わたし”」
短いやり取り。声は静か。針は、わたしのほうへは向かない。
◇
昼休み、連絡帳が消えた。クラスの共有物。担任が「見当たらない」と眉を寄せる。ざわめき。机の下、棚、ロッカー――どこにもない。
「さっきまで、ここに」と誰か。
浅野が手をあげる。
「見たよ。星空さん、持って行った」
「……持っていない」
胸の奥が、冷たくなる。渚がすぐ前に出た。
「りん、私とずっといた」
遼が黒板の横の隙間を指す。
「ここ。落ちてる」
連絡帳は、埃の上にきれいに置かれていた。誰かが“置いた”みたいに。担任がほっとして言う。
「よかった。ありがとう、遼」
浅野は笑って肩をすくめた。
「勘違い」
渚の目が細くなる。遼がわたしの袖を小さく引いた。息を吸って、吐く。
「……大丈夫」
声は思ったよりも安定していた。
◇ ◇ ◇
放課後。校門の外。浅野が電柱の影で待っていた。手に、見慣れた白い封筒。
「りん。先生に“相談”、してくれた?」
「今日の放課後に行く」
「一緒に来て」
「先生と話すのは、わたし一人でいい」
「俺の話だよ?」
「だから。わたしが“相談”する」
彼の笑みが、初めて、ちゃんと消えた。
「りん、俺の頼み、断るの?」
「“頼み”は、考えてから返事する」
「じゃあ、今、考えて。“俺のために”って考えて」
電柱の影が長く伸び、足元を二つに割った。渚の声が背中から届く。
「りん。行こ。先生、もう居る」
遼が軽く会釈をして、わたしの横に並ぶ。浅野の目が、二人をゆっくりなぞる。
「……りん、“俺を選ぶ”って言ったよね」
「言ってない。“一緒に”って言った」
「同じだよ」
「違う」
わたしははっきり言った。声は震えなかった。渚が小さく笑う。遼が、ほんのすこしだけうなずく。
浅野は数秒の沈黙のあと、封筒をポケットに戻した。
「勉強になる」
また、その言葉。今度は舌の上で転がっていない。刃物みたいに、軽い。
「じゃ、また明日」
踵を返して歩いていく背中は、きれいな姿勢だった。歩幅は、わたしよりも大きい。追いかけなかった。
◇
職員室の前のベンチ。先生と話をして、必要な手順を聞いた。家庭の事情は、わたしが背負うことではない。先生が言った。手伝うなら、学校の枠の中で。先生が言った。わたしはうなずいた。
「りん」
渚がペットボトルの水を手に持って、差し出す。
「ありがとう」
「今日の“ざわざわ”は?」
「……四。でも、“嬉しい”も四」
「どっちが勝つかは、まだ見なくていい」
遼が静かに言う。
「結び目、今日、強い」
「うん。強くした」
胸の中で、川の音が少しだけ戻ってきた。夏のあの日よりも、うんと小さく、でも、たしかに。
白い石を思い出す。今日は持ってきていない。でも、手のひらに、重さの記憶がある。
「ね、渚。遼」
「なに」
「明日、少しだけ、遠回りして帰ってもいい?」
「いいよ」
「橋の上、寄ろう」と遼。
「うん。寄ろう」
わたしたちは立ち上がった。春の風が廊下を抜けて、ネクタイの端がふわりと揺れる。結び目は、きつすぎない。ほどけすぎない。ちょうどいい場所にある。
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